Twitter界のあるエリアの片隅で、「メシア」とも呼ばれ君臨している”負ける技術”の天才、カレー沢薫さん。最新刊『非リア王』はキレのあるリア充&非リア充論であふれている。
自らコミュ障、非リア充を明言しており、押しも押されもせぬ「非リア充の王」のはずなのだが、なんとカレー沢さんは「小学生時代活発でおしゃべりだった」と母親が証言しているという。GWの家族に衝撃を与えるようなコミュ障論を、『非リア王』よりネット初公開にてお届けする。
活発でおしゃべりな子どもだった
今回は「非リア充は一体いつから非リア充なのか」という、今まで誰も興味を示さなかった問題に果敢に挑んでいきたいと思う。
非リア充とは生まれながらの「コミュ障」で、初めて喋った言葉は「ママ」だが、それを壁に向かって言っていた等、物心つく前から何かしら片鱗があったと思われるかもしれない。
しかし、私などは未だに親から「小学生ぐらいまで、活発でおしゃべりな子だったのに」と言われるのだ。
この言葉には「どうしてこうなった」という親の思いがありありと滲にじんでおり、私自身も、小学生時代の性格のままだったら、リア充だったかもしれず、かの偉人のように、隣を歩いていた友人が雷に打たれて死ぬなど、何かしらの転機があり、非リア充になってしまったのだと思っていた。
しかし、いくら考えても、そのような無駄死にをした友人はいないし、これが転機だった、という記憶もない。つまりやはり私は生まれながらの非リア充だったのである。
そこから導き出される答えは、私の両親は私が中学生になるまで、違法なお葉っぱ様で活発な私の幻覚を見ていた、もしくは私が小学生までお葉っぱ様で元気だった、ということである。
この「お葉っぱ様説」が最有力であるが、警察が来たときのために、一応他の仮説も立てておきたい。
嘆く必要はないのだ
確かに私は、小学生ぐらいまで、割とうるさい方の子どもだったような気がする。しかし友達が多かったかというと、やっぱり少なかった。
つまり私は「壁に向かって活発でおしゃべり」だったのである。友人とワイワイやっていたわけではなく、一人で元気に飛び回り、でかい声で独り言を言っていたのである。
それではただの親に心配される物件ではないかと思うかもしれないが、肉親や心を許した相手に対しては饒舌だが、そうでない相手の前では地蔵、というのは、典型的初期コミュ障である。よって親の前では本当に「活発でおしゃべりな子」だったのである。
それが中学生ぐらいになると、親と仲良くするなんてダセえ、みたいな中二心に目覚め、話し相手が専ら壁になる、よって親からすると「中学頃から急激に大人しくなった上、何かおかしくなった」ように見えたのだ。
よって、「自分の子どもは元気」と思っている親御さんは、子どもが何に対して元気か見極めた方が良い。うちの子は、自分たちの前だけでなく、友達とかの前でもおしゃべりだ、という場合でも注意が必要だ。例えば、友人数人の前で、その中の誰に向かって言っているわけでもない発言ならいくらでも出来るが、一対一になるとてんで会話が出来てないというタイプなら、相当非リア充の素質がある。誰に向かって言っているわけでもないというのは、壁や虚空に話しかけているのと同じで、コミュニケーションが出来ているとは言えないのだ。
そして加齢と共に親とは話さなくなり、心を許せる相手も減り、専ら話し相手は壁になり、そして壁はインターネットになるのである。
こう考えると私は、幼稚園から大学までエスカレーター式、ぐらいの非リア充であり「昔はこうだったのに」と嘆く必要など全くなかったわけである。
非リア充に「承認欲求」はない
結局、暗い星の下に生まれた子どもがそのまま暗く育ったみたいな話なのだが、このコラムは「非リア王」をテーマにしている。非リアこそ最高であり、むしろ銀のスプーン(水垢がすごくついている)をくわえて生まれてきた、みたいな話にしないと終われない。
つまりこの「壁に話しかける力」こそ、現代に必要な力であり、それを幼少のころから鍛えてきた私は強者だ、ということになる。
私がネットでやっているのはツイッターであり、Facebookなどは、登録だけして数年放置という有様である。もともとFacebookはリア充向けのツールと言われて来た。何故ならFacebookに投稿する発言は、自分が友達登録した相手など、特定の誰かに向けた発言だからである。その誰かからコメントや「いいね!」をもらうためのコミュニケーションが目的だからだ。
その点私がツイッターで発言する時は、相手がいるとは思っていない。一応私をフォローしている人が見ているぐらいの意識はあるが、具体的な相手を思い浮かべながら「ウンコもれそう」などとつぶやくことはないし、リプライや「いいね!」も求めていない。つまり、壁に「ウンコがもれそう」と伝えた時点で満足であり、その行為は終了しているのだ。
だが、Facebookを使っているリア充はそうではないだろう。「ウンコもれそう」と投稿したら「いいね!」か「俺ももれそう!」等のコメントがつかないと満足がいかないのだ。もし、「いいね!」もコメントもつかなかったら不安にさえなるのだろう。
つまりリア充というのは、相手がいないと会話もできない上に、相手から反応が得られないと不安になってしまうという、弱すぎる生き物なのである。
その点非リア充は、壁一枚あれば、会話ができるし、それだけで満足が得られ、生きていけるというクマムシぐらい強い生物であり、無機物全てが話し相手なので、ある意味友達が多いとも言えるのだ。
そしてたとえ、何もない銀河に放り出されたとしても、今度は脳内にいる友達と会話をすることができる。
一見、非リア充とは孤独な生き方のように見えるが、実は孤独とは無縁なのである。
どんなふうに話せないのか
オタクが人と対話せずに、漫画やアニメばかり見ているせいで、喋り方まで大仰なアニメ調になってしまうのと同じように、年中ネットばかり見ている拙者たち非リア充の言語が、リアル世界とは異なってしまうのは当然のことであり、関西弁、東北弁などと同じようにそれがしたちは、インターネット弁を使っているのである。
インターネット弁が具体的に何か、というと説明しづらくオタク語とかぶることも多々あるが、「キタコレ」「全裸待機」「控えめに言って○○」等、ネットで良く見る言い回しがそれだ。そしてインターネット弁の特徴は「声に出して言うと控えめに言って超ド級に気持ち悪い」ということである。
このまま行くと「非リア充が喋ると百発百中気持ち悪い」という結論になってしまう。確かに九十中ぐらいは気持ち悪いのだが、これは非リア充がいかに優れているかを啓蒙するコラムだ。
ネットというのは、玉石混淆ではあるが、常に最新の情報が流れている世界である。言葉だって新しいものがどんどん生まれている。つまり非リア充は常に最新の言語に触れているのだ。またネットをやるということは、それだけ文章を読む機会が多いということでもあり、一日中ニコ動でアニメを見て「尊い」しか言っていない非リア充は別として、語彙もかなり増えるはずである。
つまり、非リア充というのは全員高い言語能力を持つ金田一春彦の生まれ変わりであり、逆にリア充は「ウェイ? ウェェェイ。ウェェェーイ!」しか言葉を知らない、石器時代レベルの文化しか持っていないのである。
3語だけで友達100人作るリア充
この仮説はあながち間違いではないかもしれない。しかし「言葉を知っていようがいまいが、会話能力が著しく低い」というのが非リア充の特徴である。「ウケる」「ヤバい」「マジで」の3語で友達を100人作れるリア充もいれば、10ヵ国語を操れるが、全部独り言、という非リア充もいるのだ。
よって、どれだけネットで言葉を覚え、最新の情報を得ていようとも、それを人に伝えることが全くできないのである。
会話になると、あったはずの語彙が全て消え失せ、半笑いと曖昧な頷きしかしない金田一春彦になったり、超早口になり、常人には「デュフフフフフフフフフ!!」と言っているようにしか聞こえなくなったりしてしまうのだ。
これは、非リア充の多くが患っている「コミュ障」の症状であり、もちろん私も罹患している。その中でも私は「喋れないコミュ障」であり、言いたいことが上手く言えないので黙るのだ。それとは逆に「喋りすぎるコミュ障」というのもいる。空気を読めずに見当違いのことを喋りまくってしまうのだ。
与える印象は違うが、両方とも、自分の言いたいことを上手く言語化できないというのは同じだ。そして、何故そうなってしまうかというと、相手がいるからだ。「対人間」という事実が、コミュ障の言語中枢を破壊するのである。原因不明の焦りから言葉が全く出なくなったり、「君、性別だけ菜々緒に似てるね」など、言わなくて良いことを言ったりしてしまうのだ。
才能は開花させられる
逆に言えば、相手が人でなく、さらに言葉を選ぶ時間がたくさんあれば、非リア充だって自分の意見を、むしろリア充よりも豊富な語彙を使って伝えることが出来るのだ。
その相手とは、もうわかっていると思うが、壁だ。
間違えた、インターネットだ。
これらのことから、ネットに嵌はまった者が、会話能力がなくなり、コミュ障や非リア充になるというより、元々会話能力のない者が、自分の言いたいことを言う場としてネットを選んだという方が正しいのかもしれない。私などは完全に後者であり、高校生時代には立派なコミュ障ではあったが、チャットを使って顔の見えない相手と会話をするのは大好きであり、好きすぎて大学進学を諦めたほどだ。
その後も、ネットでの文章発表活動は続き、今ではこのように薄暗い部屋で、非リア充研究、という未だかつて誰も興味を示さなかった分野についての論文を綴つづれるまでになった。
つまり、目が悪い人間がメガネをかけることにより、目が良い人間と同じ動きができるように、今まで自分の言語能力を上手く扱えなかったコミュ障が、ネットという補助具を使うことにより、常人、またはそれ以上の表現が他者に対してできるようになったのである。
メディアではいかにもネットが若者をはじめとした人間をダメにしたかのように言うが、逆に、ネットを得たことにより才能を開花させたコミュ障はたくさんいるのだ。