次号の取材依頼があった矢先に
9月25日の夕刻。「新潮45」休刊の知らせはあまりに突然のニュースでした。
私は「新潮45」に寄稿する者のひとりでしたが、このタイミングでの休刊はまったく予想していませんでした。
というのも、その前週の木曜日20日、あの最新号(にして最後の号)が発売された直後に、編集部から次号の特集企画について、取材の依頼を受けていたからです。
本来、依頼の内容を他言することは書き手としてはルール違反であり、心苦しいのですが、こと休刊となり記事自体もなくなったわけです。企画は「メディア批判特集をやるので、ある人にインタビューしてまとめてほしい」というものでした。
インタビュー相手の名前までは明かしません。しかし、「ああ、それでも『この路線』を続けるのか」と内心、失望するには十分でした。結局、スケジュールの問題もあり、その仕事は断ったのですが。
そして周知の通り、金曜日21日には新潮社社長・佐藤隆信氏のコメントが発表され、明確な謝罪も、今後の方針の発表もなされないまま3連休に入りました。
明けて、25日火曜日その日。折しも私はある知己の「新潮45」連載陣の一人と、LINEでやりとりをしていました。
これまでの騒動について、われわれ書き手からの抗議や批判、大小の違和感の表明があったにもかかわらず、編集部からは何の説明もない。こうなった以上、今後の執筆について考えなければいけないのではないか――そんな話をしていた矢先に、休刊の知らせが飛び込んできたのです。
たまに寄稿するだけの私はともかくとして、連載執筆者であるその方のところに知らせがきたのは、ネットで休刊の速報が流れた直後だったそうです。
私が新潮45の担当編集者から電話をもらったのが20時頃だったでしょうか。
「今日、昼の取材から戻った時に(休刊を)聞かされました」
つまり、休刊の決定が現場レベルに下りてきたのは、社長発表のわずか数時間前だったということになります。「今後についてはなにも決まっていない」。新潮社社内でも上層部、ごく一部で判断が進められたのでしょう。
もちろん取材者として、ことの顛末を編集長、編集部員に聞きたい気持ちはありましたが、電話口の担当編集は詳しい話ができる状態にはありませんし、聞いた内容についても明かせない部分が多い。もし取材できたとしても、すぐに文字にするのは難しい――その時はそう判断しました。
今回の一連の出来事は、これから詳細な検証がなされるべきです。そして本来、その担い手は「新潮45」編集部、新潮社のはずです。特に問題となった杉田水脈議員、小川榮太郎氏の寄稿の内容はもちろん、ひとつの雑誌を実質的に廃刊する決断が、どのような経緯で行われたのか、ということについても。
ただ現実には、編集部は機能を停止してしまいました。新潮社内部、他編集部の動きを期待したいですが、同時にこれは、より広く出版業界、ノンフィクション界、メディアの自省が求められる問題でもあります。
表現にかかわるものとして、さらに個人的には、「新潮45」に寄稿経験のある当事者として、筆者もその担い手の一部にならなければなりません。個別の論説に対する検証、批判はこの「現代ビジネス」でも専門家が行っています。今回は、あくまでも「新潮45」という出版物、そしてノンフィクション雑誌というメディアについて、いわば枠組みの問題に触れたいと思います。
何がこの雑誌の「死」、もっといえば「自死」を招いたのでしょうか?