2023.07.19

「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。

『日本一鑑』が描く戦国時代のリアル

そして、日本人は性格が凶暴であるがゆえに、礼節と秩序を重んじている、とみているのだ。『日本一鑑』には、こうある。

〈海寇(海賊)は〔日本では〕「破帆(バハン)」、あるいは「白波」と呼ばれており、発覚すると一族が皆殺しにされる。〔日本の風俗では〕強盗の禁令が厳しいために、夜に門にかんぬきを掛けなくても、盗みは少ない。人々は〔強盗を〕賊と罵り、恨みを忘れない。その風習は武張ってはいるものの、仏を重んじ、文を好む。〔日本人に対する〕要領を得ようとするならば、文教を用いるべきである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.123)

人命を軽んじる凶暴な力によって秩序が保たれ、その秩序のもとで文化が尊重される日本。そんな日本人に向かい合うときは、たんに武力に頼むのではなく、「文教」すなわち文化政策をもってせよ、というのである。

命を軽んじ、礼節と秩序を重んじる

日本人の文化として、『日本一鑑』で特に大きく取り上げられているものがある。それは、「日本刀」だ。

もともと、中国には朝貢貿易で大量の日本刀が持ち込まれていた。その品質は高く評価され、日本の重要な輸出品だったのである。15~16世紀には、1回の遣明船で3000本から多い時で3万本以上が、中国にもたらされていた。

倭寇として海を渡った日本人は、刀で多くの民を殺し、その凶暴なイメージが明代中国人の脳裏に焼き付いていた。しかし鄭舜功は、ごく普通の日本人は、必ずしも殺傷のために刀を用いていたわけではないことにも目をむけている。

〈刀が鋭利であることを知るも、〔その刀で人を〕殺さないことをもって宝とする。(中略)そうした刀を佩いて年老いるまで人を殺さなければ、すなわち酒を供えて僚友・親戚に命じて、書を残してその刀を子に伝える。僚友や親戚もまた、酒を供えてそれを祝う。不殺の刀といい、宝となる。〉(同書p.129)

人を殺めたことがない刀は、その持ち主の精神的な修養の深さを象徴するものであり、そうした刀を伝承することで、その精神性も継承するというわけだ。『戦国日本を見た中国人』の著者で、立教大学文学部教授の上田信氏はいう。

「中国では、道具は道具として割り切っていて、そこに精神性を認めるということはあまりないように思います。包丁にしても、日本では食材ごとに出刃包丁や柳葉包丁などと使い分けますが、中国では中華包丁ですべてこなしてしまう。汎用性のある道具が一つあればいいという考えですね。日本人は、道具に対する強い思い入れがあることを、文化的な特性として刀の中に見出したのでしょう」

『日本一鑑』には日本の刑罰や切腹についても詳しく記述されている。鄭舜功自身がその場に立ち会ったと思われる描写もある。

〈口論になった人が酒の勢いで刀を抜いたら、人を傷つけなくても必ず死刑となる。姦淫・賭博・失火も死刑。盗みに対する禁令はきわめて厳しく、糸一本でも盗んだらみな死刑。〉(同書p.149-150)

〈犯人は郊外の原っぱか海辺の浜に引き立てられる。犯人の首の縛りをほどくと、犯人はおとなしく着ていたものを脱いで、自らその髪を束ねて頸を差し出す。見物人が最前列まで押しかけている。もし下人を処刑する場合は、この機会を用いて新しい刀の切れ味の善し悪しを調べる。塵芥のように命を軽んじているのである。もし叛逆すると、一族は皆殺しとなり住まいは焼却される。〉(同書p.150)

〈頭目や富者とみなされたものがもし極刑に当たる罪を犯すと、多くはみずから腹を断ち割って死ぬ。切腹する前に酒を堂内に置き、少しも動揺せずに飲食を摂る。観ている者は嗚咽する。もし少しでも躊躇して遅れると、衆人は手を叩いて笑い「女々しいやつだ」とはやし立てる。切腹し終わると、介錯される。〉(同書p.151)

『日本一鑑』に描かれた500年前の日本人の姿は、「凶暴」ではあるものの、礼節によって秩序づけられ、統御されていたということになるだろう。その象徴が日本刀であると、鄭舜功の目には映っていたのである。

※鄭舜功とは何者か? その使命と過酷な運命については、〈荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。〉を、海から見た戦国時代については〈「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿〉も、ぜひお読みください!