昨今、陰謀論に関する議論が盛んに行われている。陰謀論の厄介さは、「陰謀論に騙されるな」という言葉に対して「あなたの方こそ陰謀論に騙されている」という、対話困難な状況が生まれることにある。
本稿では陰謀論の内容の是非ではなく、広く「陰謀論にハマっている」と思われる人に対して、読者自身がどのように関わり得るかについて考察していきたい。
陰謀論は昔から存在する
陰謀論を広義に捉えれば、「誰かが裏で世の中を操っている」と考える思考を指す。古くは中世の魔女裁判など、陰謀論自体は今にはじまったことではないが、主に社会不安を背景に生じているとすれば、昨今の陰謀論の蔓延も理解可能である。
現代においても、海外で話題となり、Netflixで配信されているドキュメンタリーの題材となっている「地球平面説」など、この世の法則に関するさまざまな陰謀論が存在する。とりわけ2020年の米大統領選を契機として、「Qアノン」を代表とする陰謀論(と呼ばれる現象)がこれまで以上に広く拡散された。日本でもアメリカの選挙に関して、Qアノンと同様の主張がSNSを中心に拡散されたのは記憶に新しい。
こうした動きはオウム真理教を想起させるが故に注意が必要だという声もあり、日本においても無関係な問題ではないという認識が広まりつつある。バイデン新大統領に政権が変わっても、こうした動きが完全に沈静化するとは考え難い。
多くの既存メディアがQアノンを陰謀論であるとする一方、Qアノンの信奉者は、既存メディアこそが陰謀を隠しており、その証拠も存在していると考える。そして、既存メディア(とその信奉者)こそ、「世界の真実」を知らずに自分たちを攻撃しており、トランプを悪とする陰謀論者であると捉える。要するに、どちらの立場に立っても、相手は「陰謀論にハマっている」のである。
陰謀論の前に「エビデンス」は無意味
もともと意見の異なるグループ同士が議論を行うと、互いを攻撃しあうことで亀裂が深まり、両者の思想がより先鋭化する「集団分極化」と呼ばれる現象が以前から指摘されている。読者の多くが感じているように、ネットでの議論は難しい。その原因として、フェイクニュースやフィルターバブル(ユーザーの嗜好をもとに、各人に最適化された「見たいものだけ」の情報に囲まれてしまう状態)といったものが挙げられる。
こうした状況下において陰謀論は、「事実」への合意や、理性や科学への合意を困難なものとする動きに拍車をかける。すでに述べた通り、意見が対立した者たちは、互いが互いを陰謀論と批判し合う。ある問題に対して「〜というエビデンスがある」と述べたとしても、反論する方も「〜というエビデンスがある」と述べるのである。
「エビデンス(証拠)」の内容も多種多様だ。大半の学会が認めている研究蓄積や、主要メディアによる検証済みの報道がある一方で、それらを別の角度から捉えたもの、あるいは最新ではない過去のデータを(意図的かどうかは別として)持ち出してエビデンスと捉える人もいる。
そして、これまでの社会に存在した「専門家の合意=常識」を既得権益による「陰謀」だと捉える人が増えれば、何をエビデンスとするかという根本的な社会的合意が不可能となり、知識の共通基盤に亀裂が走る。
筆者は「理性」や「科学的」な思考を重視するが、陰謀論者もまた、そのことを大きく否定することはない。むしろ、誰もが少なくとも心の中で「自分は理性的で合理的である」と信じており、そのエビデンスは上述したように多数存在している。それ故に、傍からみれば非合理的な行動をしている人も、当事者の視点に立てば、その意味で非常に「理性的」なのである。
陰謀論者は“潜在的な不安”を抱えている
さらに、対話を困難にさせる要因として、「自分は正しい」と主張することの快楽、そして同じ考えの他者から得られる安心もある。自分を否定する他者に境界線を引いて排除し、同じ主張に共感できる仲間との「一体感」を感じること。敵を排除し、自らを正当であると主張する時の快楽を、私たちは否定できない。
また、排除と一体感を求める人々は、攻撃的であると同時に、被害者意識(自分は排除されている)という“潜在的な不安”を抱えている(陰謀論にかかわらず、過激な言葉の裏にはこうした心理が共通するように思われる)。
これまで述べてきたことを前提とすれば、上から目線で陰謀論者を諭したり、あるいは論破しようとすればするほど対話が困難になり、相手が敵対的になるということも理解できるだろう。それ故に、上から目線で「マウント」を取ることは、「陰謀論者を説得する」という意味においては、むしろ逆効果なのである。
では、陰謀論にハマっていると思われる人には、どのようなコミュニケーションが望ましいのだろうか
SNS上のやりとりはNG
まず、議論すればするほど喧嘩別れが予想されるSNS上でのコミュニケーションを、筆者は推奨しない。対話を重ねようとSNS上で奮闘する人を筆者は尊敬するが、万人がそれを実践することは困難であるばかりか、場合によっては自身の心身のバランスを崩してしまう可能性があるからだ。
対話はできれば、対面や電話で行うことが重要である。2012年のウィスコンシン大学の研究によれば、幸せホルモンと呼ばれるオキシトシンの分泌には、テキストメッセージではなく、対面か音声コミュニケーションの方に効果が現れるという研究結果があるからだ(このエビデンスは、ひとまず信じてほしい)。
したがって対話相手は必然的に、家族や親友といった親しい人に限定される(そのような関係でなければ、そもそも対話するだけの労力を費やそうとは思えないだろう)。親しい関係であれば、陰謀論の話以外にも共有の話題があり、話し合うこと自体はできる。
では、具体的にはどのように話し合えばいいのか。
否定せずに聞く
まず、相手の話を否定せずに聞くことである。前述の通り、陰謀論や過激な思想の広がりの背景には、大きな社会不安が認められるだろう。「不安」がテーマであるならば、「エビデンス」を最初に持ち出すよりも、相手の言葉やその話し方、要するに「言葉」より「心」に注意したほうがいいだろう。
話している相手がなぜそのように思ったのか、相手の心(具体的には不安な気持ち)を丁寧に聞き、読み解いていくことではじめて、言葉の壁で武装したその内側にある当人の心にアクセスできる。そこからはじめて心がほぐれ、お互いの気持ちを共有し、少しずつ共通のエビデンスに合意できる可能性が生じるだろう。
例えば、自分は悪くないと思っていても、謝罪を強要されて謝った経験は誰にでもあるだろう。このように、私たちは日々の生活の中で心の内に不安や不満を溜め込んでいる。鬱屈された気持ちを吐き出さなければ、他者の声にも、自分の内なる声にも耳を傾けることは難しい。
自らの声に耳をすますという意味では、犯罪者の更生に関わった故・岡本茂樹氏(臨床教育博士)の実体験を踏まえた著書『反省させると犯罪者になります』が参考になる。犯罪者は常に謝罪を要求される中で、裁判や刑務所では減刑を狙って謝った「ふり」をすることがある。しかしそれは、本人のためにも社会のためにもなっていない。被害者や、自身のこれまでの人生に対する負の感情など、心の底に秘めた気持ちを吐き出さなければ、自分の気持ちと向き合うこと、ひいては本当の謝罪、更生の道をひらくことは困難であると岡本氏は述べる。
筆者は心の声を聞くことが、遠回りであっても対話につながると述べたいのであって、安易に陰謀論と犯罪を結びつけたいわけではない。陰謀論者との対話は反論や否定から入るのではなく、粘り強く相手と触れ合うことが重要だ。
対話による相互点検
本稿で述べてきたことは、陰謀論にハマっていると思われる読者の友人や、あるいは他者から「あなたは陰謀論にハマっているぞ」と言われ、それに疑問を感じている人こそ実践してほしい。信頼できる人との対話の中で、陰謀論から距離を取らせたり、あるいは自分が陰謀論にハマっていることに気づくことができるかもしれない。
ただし、他者に深く向き合ったり、あるいは自分と深く向き合ってくれる家族、親友はそう都合よくはいない。その事実こそが、陰謀論の蔓延を物語っているのかもしれない。不安が続く限り、陰謀論は今後も一定の割合で広がるだろう。大切な他者のため、あるいは自らの点検のためにも、信頼できる他者と定期的に会話することが必要であろう。