フェミニズムと優生思想が接近した「危うい過去」から学べること
未来を見据えたフェミニストになるため奇妙なフェミニズムの潮流
私は長いことフェミニストをやっている。フェミニストであることを後悔したことは一度もない。そして、歴史上フェミニズムが経験した失敗とか、今だと素っ頓狂に思える今は廃れた理論などについて学ぶのが昔から好きだ。
そんなのはおかしいと思うあなたは、視野が狭すぎる。先達がどういうところで失敗したのかについて学ぶのは、今後の戦略を考える上で重要なことだし、内省のきっかけにもなる。
私はふだん演劇史を研究しているが、少しでも歴史にかかわることを研究したことがある人なら、過去に向き合うことの重要性を知っているだろう。「都合の悪いことには目を向けない」という否認主義的な歴史修正主義は人を幼稚にする。フェミニズムについても同じだ。
一方で、私は自分があまり歴史家らしくないと思うこともある。というのも、私は科学史学会というところに所属しているのだが、科学思想の歴史を研究している人たちというのはとてもストイックで、現代人の感覚で昔の人の理論を断罪したり、笑ったりすることにはとても抵抗があるらしい。
つまり、どんなに奇っ怪に見える考え方でも提示された時点ではある程度筋が通ったものだったはずだ、というのが科学や思想の歴史を学ぶ学徒の考え方なのだ。
私は文化を対象に歴史を研究しているが、この基準で言うとあまり良い歴史家ではない。妙なものを見つけると笑ってしまうからだ。そして、私がとても奇妙だと思っている歴史上のフェミニズムの潮流がある。それが優生思想と接近したフェミニズムだ。
優生思想というのは19世紀末にイギリスのフランシス・ゴルトンなどの科学者が中心になって広めた潮流だ。植物や動物の品種改良のような発想を人間にもあてはめ、生殖のコントロールによって優秀な人類を作ろうというような発想である。
優れた両親に優れた子供を生んでもらうことで種族としての人類を改良しようとする積極的な優生思想と、世間の役に立たないと思われる人間が子供を生めないようにすることで「劣った」人間の再生産を阻もうとする消極的な優生思想がある。
そして、これについて真面目に掘り下げていくと、だんだん笑えなくなってくる。フェミニズムと優生思想については政治運動の文脈からとりあげられることが多いが、この記事ではちょっと角度を変えて、文学の観点から考えていきたい。
求む、スーパーマンの子種!
(宇宙に向かって叫んで)「父親を!超人を生む父親を!」
上に引用したのは、1903年にジョージ・バーナード・ショーが書いた芝居『人と超人』第3幕で、ヒロインであるアンの分身のような立場であるアナが言う台詞だ。この場面はいわゆるドリームシークエンスで、登場人物たちの夢という設定になっている。アナは、来たるべき時代に備えていい男をつかまえ、超人を生まなければと決意する。
「超人」はドイツの哲学者ニーチェの概念で、キリスト教的道徳などにとらわれない力を持つ完成された人間の理想像を指す。私は初めてこの戯曲を読んだ時、いきなりアナが素っ頓狂なことを言い始めるので、思わず笑ってしまった。
原文では「超人」が「スーパーマン」‘superman’になっており、ご丁寧に「宇宙に向かって叫んで」というト書きまでついているので、まるでアナがスーパーヒーローの精子を探す旅に出るみたいで、余計おかしい。
笑いをおさえて真面目に考えてみると、この場面の背景としては、ニーチェの思想の他にフェミニズムと優生思想が存在する。立派な男女の結びつきにより超人を生もうという『人と超人』の発想は、積極的な優生思想の影響を受けたものだ。