琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

なぜ『俺の邪悪なメモ』は失われたのか?

※以下の内容は、すべて僕の主観と想像に基づくもので、「それってお前の主観!」とか言われても「その通りだ」としかお答えしようがありませんであらかじめお断りしておきます。


参考リンク(1):新人賞をとって、ミステリー作家になりました。(「俺の邪悪なメモ」跡地)


参考リンク(2):404 Blog Not Found:過去作を抹消する新人作家?


「参考リンク(2)」のdankogaiさんのエントリのブックマークには、例のごとく「弾劾」が溢れているのですが、最初にこの「過去ログ消去騒動」を知ったときには、僕も「これから作家としてやっていくのなら、なんでせっかくの人気ブログを消しちゃうんだろう?」って思ったんですよ、純粋に商売として考えてみても。
TENGAの話とかが恥ずかしいんじゃないか、とか、昔の「青い文章」を読まれるのに耐えられないんじゃないか、とか、ミステリの大きな賞を獲ってデビューするのだから、いままでの自分を「リセット」して「きれいな新人作家」として生きていこうとしているんじゃないか、とかいろいろ想像してみたんですが、正直、どれもあんまりピンとこない。
まあ、「人生イヤになった」とか「なんかやる気が出ない」というような理由で、プライベートモードにしてしまう僕が、偉そうに言うことじゃないんですが。


ただ、これからプロ作家としてやっていく上で、「人気ブログをやっている」という事実そのものは、絶対にマイナスにはならないと思うんですよね、基本的には。
これだけミステリ作家がいて、新人賞がたくさんあるのに、いま、本はそんなに売れているわけではありません。
それでも、「ミステリ」というジャンルは、日本の小説界のなかでは、まだ比較的「売れやすい」ジャンルで、結局のところ、エンターテインメントで「小説」を書いて食べていこうという新人は、ミステリかライトノベルを書くしかありません。
とはいえ、これだけ毎年新人賞を受賞した作家がたくさんいて、その一方で、東野圭吾さんや宮部みゆきさんや深町秋生さんは、そう簡単にはセンターの座を明け渡してくれない。
まあ、死屍累々、なわけですよミステリ界も。
東野圭吾さんが新人賞を獲った時代でも、「新人賞を獲った人への最初のアドバイス」が「新人賞を獲ったからといって、いまの定職を絶対に辞めるな」だったわけですから。


そんな競争のなかで、人気ブログを持っているというのは、他者と「差別化」するための武器になります。
昔のラジオのDJみたいなもので、すでに「固定ファン」がついてくれているブログを持っていると、自分の宣伝だってしやすいはず。
若くて可愛い女性であるとか、もともと有名人であるとか、なにか特殊な職業や経歴を持っているとか、そういう「フック」がある人は、やっぱり有利ではあります。
「とりあえずは、手にとって読んでもらえないと、はじまらない」のだから。
それこそ、「使えるものは、なんでも利用すべき」。


「あの人気作家が、昔のブログでTENGAの話を!」なんていうのは、確かに気恥ずかしいかもしれないけれど、今の世の中、福山雅治だってエロトークで好感度をアップしています。
ぶっちゃけ、「ネットでTENGAの話をしていたこと」よりも、「賞を獲って鳴り物入りでデビューするから、過去にTENGAを語ったことを無しにしようとする」ほうが、よっぽどカッコ悪いと思う。
だいたいさ、あれだけネットをやってきた人なら(そして、自身「このブログのログで必要なものがあれば、各自保存しておいてください」とまで言及していた人なら)、過去ログを消しても、過去は消えないということは百も承知なはず。


一昔前、ブログの書籍化が流行っていた時期は、「あなたのブログを書籍化しませんか?ただし、過去ログは消してくださいね。タダで読めると誰も本を買ってくれませんから」なんていう「自称出版社からのおすすめ」がありました。
まあ、大部分のブログの運営者は、これまで読んでくれていた人が過去ログを読み続けられることの重要性を認識していましたから、その手の申し出は拒否することが多かったようですけど。
ただし、今回は、「ブログの内容の書籍化」ではないので、「そういう問題」でもなさそうです。


では、なぜ「はてな史」に残るであろうサイトの過去ログは、消されなければならなかったのか?
それはおそらく、「有望な新人作家」として売り出す側(=出版社)の判断なのではないか、と僕は推測しています。
本の出版に際して、さまざまなメディアに「露出」できるのも、罪山さん自身の力だけではなく、出版社によるプロモーションの成果であるわけで。
たぶん、光文社だって、ブログも「利用できるのなら利用したかった」はず。
面白いブログでしたしね。
でも、内容をチェックしていった結果、「葉真中顕って、こんなことをブログに以前、書いてたんだぜ」って言われると面倒なことになりそうな記述があった(たぶんそれも1ヵ所や2ヵ所ではない)、ということなのでしょう。
それは、ウソを書いているとか、悪い事を書いているというのではなくて、「作家という『公人』の発言としては、揉め事のタネになる恐れがある」という程度のものかもしれません。
出版社側が狭量であるというのではなく、商業出版としては、やっぱり、宣伝費を使って推す「期待の新人作家」が「炎上案件」をたくさん抱えていると困る、というのは、致し方ないところかと。
そこで、人気ブログのメリットと、火種になるデメリットを天秤にかけた末、「過去ログ消去」を要請したのだけれど、罪山さんはいきなりこれまでのエントリを全部消すことには抵抗があった。
そこで、しばらく「告知期間」を置いたあとの消去、というのが妥協点となったのだと思われます。


(すみません、見てきたかのように書いてますが、僕の勝手な推量ですからね、繰り返しておきますが)


こういう流れを考えると、どうも、『俺の邪悪なメモ』が過去ログも含めて消えてしまった理由は、直接的には「一押しの新人作家にトラブルが起こるのを避けたい出版者側の判断」ではないかと思われます。
そのような判断がなされた要因は、「ある人が過去にやってきたことを掘り起こして晒し上げ、叩く材料にする傾向」であり、それは、ネットで過去の検索が容易になることにより、この10年いっそう強まってきた流れではあります。
もちろん、政治家や経営者などは、こういう「掘り起こし」に昔から晒されてきましたが、今は、「ちょっと有名になった人」にも、「検証」が行われるようになりました。
罪山さんは、自分がいままでブログでしてきたことを、今後は「公人」として引き受ける立場になるわけです。


ある意味、『俺の邪悪なメモ』が消えてしまった、あるいは消されざるをえなかったのは、罪山さんがブログで「断罪」していくことに喝采をおくっていた、我々のせいなのかもしれません。


誤解がないように言っておきますが、僕はこれまでの罪山さんの姿勢を批判しているのではなく、「公人」にとってのネットという世界が、どんどん自由が利きにくくなっていることを感じているだけです。


個人的には、そういう出版社サイドの不安は「杞憂」じゃないか、という気もするんですよ。
馳星周さんが『ポプコム』で「レーニン」名義で美少女ゲームを紹介していたり、中村うさぎさんが『コンプティーク』の「イボンヌ木村」だったり、というのは、むしろ大部分の人には「微笑ましい歴史」として認識されていると思われます。
当時マイコンゲーム雑誌で書いていた人たちは、ある意味、時代の先端にいたのだろうし、いまブログを書いている人のなかにも、そういう人はいる。


「ディープなネットユーザー」は好意的でも、世間一般の人たちは嫌悪感を抱くような事例はたくさんあるし、その逆も然り。
先日の「遠隔操作事件」の容疑者逮捕と、それに関する報道など、その代表的なものです。
『俺の邪悪なメモ』の記事には、ネットユーザーは喝采するけれど、「一般人」は眉をしかめるようなものも少なくない、と、「一般人」に本を売らなければならない出版社の人は判断したのでしょう。


まあ、過去ログ消したって、批判したい人は、魚拓でもなんでも持ち出してくるんでしょうけどね。
もちろん、罪山さんだってそれはわかっているけれど、大人の「仁義」みたいなもので、出版社側の要請に対応せざるをえなかったのではないかなあ。


というわけで、勝手な推測を、つらつらと書き進めてきましたが、バレンタインデーの苛立ちをぶつけているということで、お許しいただければ幸いです。


最後に、ひとりのブロガーとして。
こうして「出世」していく人がいるのは、羨ましいんですよやっぱり。
僕は本が好きなので、自分の本を出して、モノを書いて生きている人に憧れます。


罪山さんのような人気ブロガーでも、結局のところ、「書くことを仕事にする」ためには、ミステリの新人賞に応募して、本を出すという道を選んだ。
「プロブロガー」と呼ばれる人の多くは、自分のブログで本などを売って、アフィリエイトの収入で生計を立てています。
残念ながら、どんなに面白いブログを書いている人でも、ブログを書くだけで食べていくことはできない。
ブロガーにとっての「ゴール」とは何なのか?
みんなが「プロ作家」や「アフィリエイトで食べていくこと」を目指すしかないのか?
もちろん、他の仕事を持っている人が、趣味として書くブログは、これからも生き続けるはず、なのです。
それでも、アクセス数が増えると嬉しい、から、それだけでは物足りなくなって、「何か」に換えたくなってくるのも理解はできます。


僕自身は、ブログの最大のメリットというか、ブログがもっとも世界を変えたことは、「お金にならない文章、商業ベースに乗らない文章を、不特定多数の人に自発的に届けられるようになったこと」だと思っています。
でもそこで、「やっぱりお金にしたい」ということになると、そのメリットは失われてしまう。
お金をもらえる文章は、お金をくれる人を「意識」せずにはいられない。
(まあ、大部分は「お金にすることは難しい」のですけどね)


僕も『ロスト・ケア』を読んでみたいと思います。
その一方で、罪山さんのような「ブロガー」が、「作家」として生きることによって、「ブログに書かれるはずだった、お金にはならないけれど、それだけに愛すべき文章」が失われてしまうことを、寂しく感じてもいるのです。

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