あなたは、ある中堅企業に10年勤めていて、かなりの実績をあげていたとする。
その企業は、けっして待遇が良いわけではない。
残業は多いし、給料は同業他社と比較すると安い。
だが、基本的に情には厚く、辞めると自分から言わないかぎりは、ほぼ終身雇用が約束されている。
社内での人間関係も、いささか馴れ合いになってしまっているが、温かく、家族的な雰囲気だ。
居心地は、悪くない。
そんなあなたに、ある日、業界最大手からのヘッドハンティングの話が舞い込んだ。
やる仕事の内容は同じなのに、給料は現在よりも大幅に上がるし、仕事への世間の認知度もアップする。たぶん、女の子にもモテる。
だが、その企業は内部での競争が激しく、プレッシャーもきつい。
仕事ができないとわかれば、すぐに見捨てられる。
代わりは、いくらでもやってくるのだ。
他所から来た人間なら、生え抜きよりも、なおさら切り捨てられやすい。
これまでの仲間を、敵に回すことにもなる。
そして、この転職のチャンスは、いまを逃したら、もう無いかもしれない。
さて、あなたは、この大手企業に転職するだろうか?
自分自身のこととして考えると、僕はたぶん、この転職はしない。
待遇の良さや競争を勝ち抜くことよりも、居心地の良い環境のほうが優先順位が高いからだ。
もちろん、「中小企業だと自分や家族が食えないレベル」の話であれば、待遇を優先せざるをえないだろうけど。
ただし、転職する人がいるというのはよくわかる。
というか、「『普通』だったら、そうするかもしれないなあ」とも思う。
人生は一度しかないし、有限だ。
死ぬ間際になって、人が後悔するのは「挑戦したこと」ではなく、「挑戦しなかったこと」。
居心地の良い中小企業に愛着があっても、「これからの人生ずっと、同じような生活が続くのか……」と、倦怠感を抱くこともあるだろう。
自分の友人や家族から、「どうすればいい?」と相談されたら、「自分で決めるしかないよ」と言わざるをえない案件だ。
「どちらを選んでも、それからの自分次第なのだから」と。
昨日、大竹寛投手が、巨人へのFA移籍を表明した。
「地元の関東で野球がしたい」とのことだった。
今回の大竹投手のFAは、カープファンとして、戦力的には痛恨の極みだし、精神的には、人間不信に陥るレベルのものだった。
さんざん期待を持たされ、じらされた挙句に「やっぱり巨人」という、(大部分のカープファンにとっては)もっとも望まない結末だったし。
入団以来ずっとみてきた僕としては、「大竹は、ずっとカープの暗黒時代を支えてきた投手だし、2年間の怪我の間もカープはそんなに給料を下げたりもせずにリハビリを支えてきたのだから、まさかFAなんてしないだろう」と思いこんでいた。
大竹は若手の頃、不甲斐ないピッチングに、ひどい野次を浴びせられ、弁当を投げられたりもし、「はぶてるな!(不貞腐れるな、の広島弁)」の横断幕も掲げられたりもした。
どれもこれも、カープファンにとっては、大竹への期待と愛情が強すぎる、あるいは、あまりにも不甲斐ないチームへの苛立ちを、そのチームの柱である大竹にぶつけてしまったが故のことだった。
だが、本人は傷ついていたのかもしれない。
こういうのって、やった側はすぐに忘れてしまうけれど、やられた側は忘れないものだし。
去年、大竹をリリーフした今村が打たれ、勝ち星が消えてしまった夜、ベンチで、その今村を慰めていたのは、「被害者」であるはずの大竹だった。
大竹自身、リリーフの経験もあり、何度もそこで打たれてファンの罵声を浴びてきたから、あのときの今村の憔悴を他人事にはできなかったのだろうと思う。
優しい男なのだ、大竹寛は。
僕もひとりの中年社会人として、あるいは家庭人として、自分が大竹の立場だったら、どっちに転んだかわからないだろうな、とは思う。
大竹が親友だったら、「それでもカープに残るべきだ」とは言えない。いや、「移籍したほうが良いんじゃないか」と言ったかもしれない。
このFA移籍に対して、「ひどい話だ」と嘆き、大竹を責めている人は、カープファン以外には、ほとんど見かけない。
(巨人ばっかり金と人気で他球団の「宝物」を強奪するのは、大概にしろよ、という人は多いけれど)
巨人のやり方はどうかと思うが、同じ投手という仕事なのにこんなに給料が違って、環境もよくなり、チヤホヤされるところに行けるのなら、そりゃ行くよね、というくらいが「世間一般の見方」というものだろう。
こんなことを長々と書いている僕でさえ、涌井や久保の動向に関しては「ああそう」というくらいの興味しかないのだし。
おそらく、カープファンですら、「もし自分が大竹だったら」あるいは「大竹が友達か家族だったら」と想定すれば、「カープに残るかどうかは『情』と環境の変化に適応する自信の有無の問題」でしかないと考えざるをえないだろう。
選手寿命は短い。いまは以前ほど「スッパリ辞める」選手はいないけれど、それでも、40歳まで現役を続けられる選手は少ない。
おまけに、大竹は右肩に持病を抱えていて、その再発のリスクもある。
ならば、「今後のためにも、稼げるときに稼いでおきたい」あるいは「優勝してみたい」というのもわかる。
今年、カープははじめて、セリーグCSファイナルステージまで進出した。ファーストステージで2連勝したときには、この勢いで、巨人にも勝てるのでは……なんて期待もした。
だが、巨人の壁は高く、厚かった。3連敗のストレート負け。
緒戦に先発した大竹、そして、カープの選手たちは、見ていたファン以上に「巨人との力の差」を実感したのではないかと思う。
これは、カープが多少頑張っても、そう簡単に埋まるようなもんじゃないな、と。
そもそも、ペナントレースでは、3位とはいっても、負け越していたチームなのだし。
カープファンとしては「巨人に移籍して優勝するなんて、ヘリコプターで頂上に降りて『登山した』と言い張るようなものじゃないか」という気がする。
でも、「このまま歩いていても、たぶん、自分に残された時間では、頂上からの風景を見ることはできないだろう」と悟ってしまった人間が「ショートカットしてでも、頂上に行ってみたい」と考えるのは、むしろ、自然なことですらある。
さて、ここまで大竹の「選択」について、なるべく冷静に書いてきたつもりだ。
冷静に判断しようとすればするほど、「FA有理」そう考えざるをえない。
だが、カープファンとしての僕は、大竹の移籍を「しょうがない」「巨人でも頑張れ」などと思えないのだ、やはり。
頭の中に渦巻いているさまざまな罵詈雑言をここに書くべきではないのだろうが、「裏切り者!」というくらいが、渦巻いているなかで、いちばん穏健な言葉だということは、書き留めておく。
本当は、大竹は「自分にとってより良い環境を選択した」だけであり、「裏切った」わけではない。そう、頭では「わかっているつもり」なのだが。
何かのファンであるとか、応援しているというのは、ものすごくやっかいなものだな、とあらためて思うし、「他人に期待すること」の虚しさとか理不尽さとかを、あらためて意識せざるをえない。
僕は、大竹に対して、「自分だったらやらないこと」を「カープのためにやるべきだ」と言い、大竹がどこへ行こうが、贔屓のチームの戦力がダウンするだけなのに、こんなに腹を立て、悲しんでいる。
そもそも、カープがどんなに負けようが、僕の給料が減るわけではないし、妻が不倫をはじめるわけでもない。背中がかゆくなることすらない。
どちらかというと、カープが負けることよりも、それによってイライラして八つ当たりをすることのほうが、よっぽど周囲と自分自身に悪影響を及ぼす。
こんな気持ちになるのがイヤなら、巨人とかヤンキースのファンになればいい。
いやそれよりも、誰も、何も「応援」なんてしないほうがいい。
そんなことはわかっていても、なかなか「コミットしない」のは難しい。
人間というのは、本来はコミットする必要が無いものに、自分から触れにいき、「弱点」を増やしてしまう生き物なのだ。
人間はギャンブルで1万円を得たときの喜びよりも、1万円を失った悲しみのほうが、はるかに大きいのだそうだ。
にもかかわらず、人は、ギャンブルをなかなかやめられない。
1万円失った悲しみを埋めようとして、さらに1万円を失ってしまう。
考えてみれば、大竹が巨人に行ったところで、カープという野球選手にとって恵まれているとは言い難い環境で、10年以上も投げ続け、チームを支えてくれたという事実は変わらないのだ。
大竹があと何年現役を続けられるかはわからないが、今後どのチームに行ったとしても、カープでの通算在籍期間を超えることはないだろう。
にもかかわらず、カープでの大竹は、僕にとって「黒歴史」となった。
現役の最晩年に4年だけカープに在籍した石井琢朗は、カープファンのなかでは「英雄」なのに。
大竹だって、「順番」が逆なら、たぶん「英雄」になり、引退試合には大勢のファンが詰めかけたことだろうに。
一昨日行われた、楽天の優勝パレードには、21万4000人が集まったそうだ。
すごい歓声と、人々の笑顔。
束の間だけでも、東北の人々は勇気と元気をもらえたのではなかろうか。
ただ、その翌日の月曜日、「優勝パレードで元気をもらった」人々の多くが「もう月曜日か……働くのめんどくさいな……」と思いながら、家を出ていったのではないか、とも思う。
ファンというのは、本質的に、そういうものなのだ。
楽天が優勝すれば、選手たちの年俸は上がるだろうが、ファンの給料は変わらない。
選手がFAで出ていっても、ファンの日常に影響があるわけではない。
心のなか、以外には。
そして、そんな傷も、いつのまにか、塞がってしまうのだ。
あれだけ落ち込んだのが、ウソのように。
それは、ありがたくもあり、残酷でもある。
本当に「自分に直接関係がある事以外には、何も興味がない人生」を送れたらいいのになあ、と思う。
何かを応援するというのは、傷つけられるための準備をしているようなものだから。