水の神様を訪ねる 112 山田堰と堀川用水の水神社

山田堰展望台の公園内にあった「周辺史跡等案内図」に「水神社」を見つけました。

 

享保七(1722)年、取水口を現在の位置に変更するための水門工事の安全を祈願して建立されました。

計画の段階で、大きな堰だから水神社があるはずと思って地図を探したのですが表示されていませんでした。山側にある「恵蘇八幡宮」が水神社だろうかと想像していましたが、たしかに公園のすぐ先の河岸に鎮守の森らしい場所があります。

 

山田堰の石畳の先に水門があり、そこに大きな木に囲まれた社殿がありました。

筑後川の流れと山田堰から取水するようすが一望できます。

境内にはいくつかの説明板と大きな石碑がありました。

 

*山田井堰と堀川用水*

 

  山田井堰

 寛文3年(西暦1663年)筑後川に石堰を築き、樋をかけ、堀川を作り、筑後川の豊かな水を引き、150haの開田を行った。逐次改良を加え、寛政2年(西暦1790年)古賀百工が藩命により、筑後川に巨石を投じ、石畳の堰を作る大工事を行う。堰総面積25,370㎡、取水量も豊富で現在663haの水田に灌漑している。

 この山田井堰は、先人の偉大なる治水、水利技術を伝える貴重な存在で長い年月の内、幾多の大洪水で崩壊と復旧を繰り返した歴史的な遺産である。

近年では、昭和55年(西暦1980年)、昭和63年(西暦1988年)に集中豪雨により延8,199㎡が崩壊、流出したが、その都度、原型復旧で改修工事がなされた。水の最も取り入れやすい位置は、災害を最も受けやすい所で最近特に堰頭部の老朽化が目立ち、堰体崩壊のおそれがあるので国や県に要請協力を求め、農業用河川工作物応急対策事業により、県営で平成10年(西暦1998年)に空石積をすべて練石積に、現地石をすべて流用し、原型復旧により完成、往年の姿を保存する事が出来た。全国に類のない石堰で、改修になった堰より取水された水は末長く関係市町村の美田をうるおす事であろう。

  平成11年3月

 

出かけた頃はまだ用水路名がマップには表示されていなかったので、この説明板でわかりました。

   日本疏水百選 堀川用水

 山田堰は、大石堰、恵利堰と並ぶ筑後川三大堰のひとつで「傾斜堰床式石張石(けいしゃせきしょうしきいしばりぜき)」といい、寛政2年(1790年)に完成した日本では他にない石張り堰です。この堰の特徴は、取水量を増やし、激流と水圧に耐え得るための匠の技が随所に施されていることです。この地の庄屋、古賀百工(こがひゃっこう)が農民等とともに築造した山田堰は、朝倉地域の農業史を物語っており、この偉業と美しい田園を次世代に引き継ぎたいものです。

 水神社から山田堰を眺めると3つの水路があります。手前から砂利吐き口・中舟通し・南舟通しです。その昔、舟通しに帆掛け舟が往来し、いかだが下った情景を今に伝えます。

 この堰付近は、斉明・天智天皇にまつわる多くの伝承等も残っており、いつ訪れても彩られた四季を感じ、ゆっくり散策が楽しめます。

  平成19年5月31日  朝倉市観光協会

 

どちらも簡潔でいて、目の前の風景を理解する深い文章ですね。

 

*大きな石碑が3つ*

 

見上げるような石碑がありました。

一つは明治21年11月に建てられたもので、難しい漢文ですが、山田堰と堀川用水によって何百人もの農民が恩恵を受けていた歴史と、明治7年(1874)に起きた洪水によって堰が壊れその修復の経緯が書かれたものでしょうか。

 

真ん中の石碑は昭和25年(1950)建立の「古賀百工翁頌徳碑  建設大臣 一松定吉謹書」です。

下大庭庄屋古賀義重通称十作老後百工と称し徳次に住む 父は万右衛門重厚母は徳渕村空閑弥右衛門の女なり 翁常に灌漑治水の事に意を注ぎ新堀川の開鑿及び山田井堰改築の大業を完成し後世をして堀川の恩人と仰かしむ亦宜なる哉 惟ふに寛文三年堀川開通により廣漠たる原野に百五十町歩の美田生じ爾後十数回に亘る改修と共に漸次其の反別も増加したりとは云へ未だ全原野の一部を潤すに過ぎざりき 翁庄屋となるや一生を治水に捧げんと決意し宝暦九年藩許を得て水門の幅員を拡張し翌十年大川井手及び柴田橋より下流両側の笠上げ腹付けを断行し更に同年より明和元年に至る五ヶ年の日子を費やして突分より中村方面に通ずる用水路を増設し灌漑反別一躍三百七十余町歩となれり 当時測量術の幼稚にして翁此の業を督するや或は高張提灯を灯し或は盆に水を盛り高低を測れり 翁の苦心盍し言語に絶せしものなるべし次で寛政二年翁の熱意と才能を認められ山田井堰大改修の藩命を受く 翁乃ち粉骨砕心遂に此の雄大なる工事を達成せり 業成翁常に開拓の進むを見るを楽みとし寛政十年五月廿四日八十一才を以て永眠す○(読めず)して釈秀円となす今や山田井堰完成以来○○○○(読めず)後まで郷閭を潤すなり翁の功績眞に偉大なりと謂ふべし

○○○○(読めず)する郷民相回り翁の偉霊を水神社に合祀し且つ碑を建て以て永く後昆に傳へ併せて大福村字上楽の○域〇〇拡張子敬虔の誠を諭さんと云事

昭和二十五年三月五日  朝倉村三ヶ村堀川土木組合建之

 

残念ながら光に反射して読めない箇所がありました。

石碑を写真で記録に残すのは難しいですね。

この水神社は古賀百工翁を祀ったものだとわかりました。

 

そしてもう一つの石碑にも「水害復旧碑」とありました。

 

 

*「生涯をかんがい工事に尽くす」*

 

帰宅して検索すると、さすが農林水産省ですね、記録がありました。

 

福岡県 堀川の恩人 古賀百工

生涯をかんがい工事に尽くす

福岡県朝倉市 1718年(享保3年)〜1798年(寛政10年)

 

筑後川中流域に位置する朝倉

 

1662~3年(寛文2~3年)に大かんばつが起こり、これを契機として筑後川から水を引くための用水工事が行われ、翌年には150町歩余りの水田を潤す「堀川用水」が完成しました。それ以降も、改良改造がくわえられましたが、水田面積の増加に伴い、堀川用水のかんがい能力は限界に達して、堀川用水の恩恵をあずからないところでは、常に干ばつに悩まされることとなり、年貢米も納められない厳しい状況となっていました。

下大庭村(現在の朝倉町)庄屋古賀百工は、解決策として、堀川用水の拡張を藩に願い出ます。事前に提灯やタライを使った高低差等の測量を行い、綿密に練った計画をもって願いでたことから、藩もこれを認め、5年後には「新堀川用水」は完成しました。

百工70才の時、根本的に水害、干害から住民・土地を守るためには、筑後川取入口の全面改修が必要であるとの思いから、筑後川本流山田堰の大改修の計画を立てます。しかし、これにも難題がありました。湿害を被るとして、工事に反対の農民もいたのです。百工は、日夜全力を挙げて説得にあたりました。まさに命をかけてこの事業を実現しようとする百工の思いは藩に届き、ついに1790年(寛政2年)完全な山田堰は完成することとなりました。

百工は山田堰の完成後8年経った1798年(寛政10年)81才でなくなりますが、その生涯は、かんがい工事に全てを尽くしたものでした。

 

(「土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと〜」)

 

水不足のために用水を引けば解決するのではなく、排水もまた必要になる場所との調整でしょうか。

 

人を神として祀る

私の地図の中に、また一つそういう場所が増えました。

そして終戦直後の1950年(昭和25)に、あえて「人を神として祀る」場所を造ったのは、社会に生きる希望や夢が欠けた時代の葛藤の表現でもあるのだろうか。

そんなことを考えました。

 

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

 

 

生活のあれこれ 69 置き配とオートロック、何の権限があって国交省が決めるのか

生活が危険にさらされたり事故につながりそうなことでも、簡単な「実証実験」とやらで国がサラッと決めてしまうことが増えたような気がするこの頃。

 

またまた驚くニュースが。

「置き配」利用拡大へ支援、配達員によるマンションのオートロックの開錠を共通化・・・防犯上のリスクは」

(2025年9月13日、読売新聞)

 国土交通省は、荷物を玄関先に預ける「置き配」の活用を進めるため、オートロック付きマンションへの配達を効率化する支援に乗り出す。配達員が共同玄関を開錠できる共通のシステム開発費用を補助する。再配達を減らして人手不足に対応するのが狙いで、国交省は防犯上のリスクも踏まえ制度設計を急ぐ。

 マンションには、配達員が荷物の伝票番号を機器に入力すれば、オートロックを解錠できるシステムを導入している物件もある。しかし仕様はバラバラで、ヤマト運輸や佐川急便など大手宅配業者に限っている場合が多い。配達員が入れるマンションと入れないマンションが混在し、再配達の削減効果は限られている。(以下、略。強調は引用者による)

 

「置き配」はあの新型コロナウイルス感染拡大の時に、対面で受け取ることを避けるために在宅している住人がマンションの玄関のロックを解除するためだったと記憶しています。

 

私の住宅は宅配ボックスがあるので無関係でしたが、最近、同じ階の家の前に置き配を見かけるようになりました。在宅している隣人が解錠したのであれば、配達直後に家の中に荷物を取り込むはずですが、次の日まで置きっぱなしということもあります。

居住階には防犯カメラはないので、もしその荷物がなくなったら住人の私も疑われるのかな、それは勘弁と嫌な気持ちでした。

できれば、集合住宅で廊下に荷物を置きっぱなしの置き配は禁止してほしいくらいです。

 

管理会社からは何も連絡はなかったのですが、もしかして、すでに大手業者の解錠を許可しているということでしょうか。

それなら、オートロックの意味がなくなるのに。さらに「置き配」を進めるとは、いったいなんの権限があって国交省はそんなことを実行してしまえるのでしょうか

 

コメントには配送業者さんの反対の声もあって、そうだろうなと納得しました。

配送業者の労力のことも考えてほしいですね。最近も荷物用エレベーターの占拠の件で配送業者が叩かれていましたが、今の労働環境と給与水準では宅配の労働力確保が今のままでは難しくなりそうです。タワマンなどの個別配送はもうやめて、管理室留めやオートロックドア外での宅配ボックス設置やコンビニでの宅配ボックス設置など、検討は配送業者の負担軽減の観点も取り入れてほしいです。

 

まさに。

在宅の家だけでなく、不在の家まで結局エレベーターを使って行ったり来たりしなければならなくなるわけで。

少なくともオートロックの場合は必ず宅配ボックス(数も住人分はほしい)を義務付ける。

それでいいのではないかと思いますけれど。

国家権力を使うのなら、そちらの方が国民の生活のためになりそうですね。

 

その安全のために、多少家賃が高くてもオートロックと、不在時に対応できる宅配ボックスがある家を選んだのですけれど。

意味ないじゃんと思います。

 

どちらを向いているのだろう国交省は、と思ったらこんな意見が。

どこを見て政策を検討しているのかよくわかる。国交省は結局運送業者しか念頭にない。再配達率の高止まりが流通、運輸の効率を下げているのは明らかだが、防犯のためにオートロックを導入してきているのに、それに「穴」を開けようとしているわけだ。再配達問題の解決にはこんな手しかないわけではないはず。諸外国のように初回に不在なら不在票を入れ、集配所に取りに来る(無料)か有償での再配達依頼を選ばせるようにすればいい。1回のラストワンマイルのコストも2回、3回目のコストも同じわけがない。受益者が負担するという当たり前の制度に変更すべき。

 

宅配という便利な仕組みができてだいぶ経ちましたが、最初は時間予約もできずやむなく再配達をお願いしたりすることもありました。

しだいにメールで業者さんに不在を知らせることができたり、予約配達が増えたり、宅配ボックスが普及したり、業者さん側も受け取る側も双方で工夫しながらの今があると思いますけれどね。

そういう成り立ちが、「自由経済」とか「資本主義」だと思っていました。

 

置き配をしなくて済むだけの十分な数の宅配ボックスが設置されれば、相当改善されるような気がするのですけれど。

 

生活の実際を知らない人たちが、「配達率の高止まり、流通、運輸の効率を下げている」という見方で、強制的に生活を変えることを平気でするのだ。

最近の政治はこういう風潮が多いですね。

国民不在の政治・経済ですからね。

 

それにしてもリスクマネージメントが医療よりも先に発展した国交省で、こんなリスクへの認識だとは。あな恐ろしや。

 

 

*おまけ*

なんでこんなに早急に物事が決まるのだろう。何事にもそのあたりを最近強く感じるのですが、夕方のテレビニュースを見ていたら、ドアフォーンメーカーがすでに「新しい技術」を売り込んでいるような印象。こういうのにすぐ取り込まれるのではなく、生活に与える影響を調整するのが政治家や官僚の皆さんのお仕事だと思うのですけれど。

で、反応が大き過ぎたのか「SNSで間違った情報」とか訂正していますけれど、それも失礼な話ですね。

 

 

*おまけのおまけ*

そのニュースの中で、「置き配にしてくれると下まで取りに行かなくていいから楽」という声を紹介していました。それだったらオートロックでない物件に住むと良いのでは。

 

自分の便利だけを考えて個々の責任とか相手への配慮とか薄れた時代だなあと思うし、以前だったらこんな「声」はニュースで紹介しなかったのに。

街中でのインタビューを安易に「世の中の声」としてニュースに取り入れるのも減らして欲しいし、その決まっていく裏側を追跡してほしいものですね。

 

 

 

 

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散歩をする 580 原鶴分水路から山田堰へ

予定していたバスが行ってしまったので、本当は歩くはずではなかった区間の散歩へと重い腰をあげました。

 

次の目的地の山田堰は原鶴大橋から見えた、ゆったりと蛇行する筑後川が小高い場所で流れを変えるあたりの向こう側で、ここからは約2.5kmです。

距離はそれほどでもないのですが、5月初旬なのに真夏のような日差しになり、そして歩道がない区間がありそうなことが不安の種でした。

先に進まなければこの日の宿泊地の柳川に向かうのに、またJRうきは駅に引き返すしかありません。

 

でもやはり筑後川を眺めてみたい、念願の山田堰も見ないままで帰るなんてありえないと歩き始めました。

原鶴分水路の橋からは、水のない放水路の先にゆったりと筑後川本流が流れているのが見えました。地図では「原鶴鵜の火橋」と表示されていますが、このあたりでも鵜飼があるのでしょうか。

 

橋を渡ると国道386号線と合流し、それまでほとんど車のいない道から交通量が多い道になりました。

筑後次郎と呼ばれるくらいの流れですから高い堤防か川面よりも高い場所に道路があると想像していましたが、両岸ともに川とそれほど変わらない位置から美しい川面を眺めながら歩くことができました。

川沿いの倉庫のような場所の間に筑後川へ向けて石段があって、すぐそばに水が見えます。川とともに生活している場所でしょうか。美しいけれど、濁流になった時は石段の上まで水に浸かりそうな近さです。

 

歩道の有無まで表示されるようになったマップの通り、忽然と歩道が消えてただの白線になりました。

暑いので日傘をさしたいけれど、かするように車が通るし、川風も強くなってきました。

えいっと、汗が噴き出る中、ただただ歩きます。

時々、筑後川の美しい水面に目をやり、背後から車の気配があると川沿いギリギリに立ち止まって車を行かせ、後で見たらこの区間全くメモがありませんでした。

ヒヤヒヤしながらだいぶ歩いたような気がするのですが、地図で見るとわずか200mほどでした。山が川へと迫り出していて、道路を作るのも大変な場所だったのかもしれません。

 

人家が見えて、また片側だけですがここからは歩道がありほっとしました。

暑い中、道路の改修工事をされています。いったん、筑後川から少し離れて上り道になり、大分自動車道を越えて小さな北川の橋を渡ると、あの原鶴大橋から見えていた小高い場所がぐんと近づいてきました。

 

もう一度大分自動車道をくぐると少しだけまた歩道がない区間ですが、その向こうに筑後川が見え始めました。川幅は広く、そして浅瀬の中に石畳が見えました。

いよいよ山田堰です。

 

*山田堰展望台*

 

わずかに勾配のある道の先に、河岸に森が見えてきました。地図には「山田堰展望台」とあるので、小高い場所から眺めるのだろうと想像していたら、川のすぐそばに展望台がありました。

 

東から西へ、緩やかなS字に筑後川が蛇行しています。そこに山田堰があり、上流から下流への川面全体を眺めることができました。

左岸側から右岸へと石畳が広がり、右岸に近い場所で石畳の途中が切れて本流が流れています。

石畳はそのまま右岸の用水路へと筑後川の水を誘導してるようです。

 

石畳に水がぶつかる音は静かで、しばらくその水音に聴き入りました。

左岸がわの山並みと、白い石畳と真っ青な筑後川の水。

美しい風景です。

吉野川の第十堰を思い出しました。

 

公園の片隅に石碑がありました。

中村哲氏<いのち>のことば

 100の診療所より1本の用水路

 山田堰は、1790年に古賀百工翁が築造し、地元朝倉の農地を潤し続けている世界かんがい遺産です。

 中村哲氏は、この山田堰を参考にアフガニスタンにて用水路を建設し、現地農業の基盤を作りました。時代、場所を超えて多くの人に恵みをもたらしが中村哲氏の功績を称え記念碑を建立いたします。

 

以前、1984年にアフガニスタンの医療援助活動を始めた氏の活動報告会を仲間内で開いてお会いしたことがありました。

1980年代、まだ海外医療救援団体(NGO)なんて変わった人がやるものぐらいの時代でしたし、何をしたら良いのか手探りでした。日本の医療をそのまま持っていっても現地では意味がない、という当たり前のことに葛藤するような黎明期ですね。

その試行錯誤から1本の用水路で生活を支える援助になったのだろうと、時折伝わるニュースを受け止めていましたが、2019年の訃報に際し、その1本の用水路もまた現地ではさまざまな争いを生んでいたのだろうかと思いを馳せていました。

 

同じ頃から日本各地の川や用水路を訪ね歩くようになり、世界かんがい施設遺産を知りました。

日本各地の用水路もまた長い長い水争いや災害を乗り越えて現代の農業へと続いていること、その用水路建設への昔の人たちの思いが今の豊かな生活へとつながっていることに、この歳になって初めて認識することばかりでした。

 

まことに1本の用水路は大事だと、また山田堰の美しい石畳をしばらく眺めました。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

水のあれこれ 431 筑紫次郎の原鶴分水路へ

いよいよ筑後川にかかる原鶴大橋を渡ります。

 

堤防道路から見えたのは、予想よりも川幅も水流も少ない筑後川でしたが、なんといっても日本三大暴れ川のひとつですからね。最近は年々、大きな橋を歩くのに足がすくむようになりました。

 

当日の写真を見返すと、橋のたもとで大石水道を振り返って1枚写真を撮っていました。

よく見ると「角間天秤」の案内板とともに石積みの分水路が写っていました。美しい場所です。

 

さあ、いざ筑後川を渡りましょう。歩行者専用の橋からは下流への流れが見えます。堤防ギリギリまで水面がゆったりと流れ、真正面の小高い山にぶつかるようにそこから流れを変えています。あの少し先が、山田堰のあたりでしょうか。

 

筑後川右岸には温泉街が続き、住宅地を200mほど歩くとまた堤防が見えます。

あそこが地図で見つけた放水路に違いありません。

そして、そこから山田堰方面へのバスに乗る予定です。

と、目の前をバスが通過して行きました。あらかじめマップのバス停の時刻表を確認し、さらにバス会社のサイトでも確認したのに、何か勘違いしてしまったようです。

ああ。

この日は朝から日田市内を歩き、JRうきは駅からここまで歩いたのでちょっと疲れましたが、もう山田堰まで歩くことが確定しました。

 

土手を上ると原鶴放水路を見渡せる場所で、バス停は小さな小屋になっているので少し休憩することにしました。

 

地図では筑後川右岸の出っ張ったところに原鶴温泉があり、その「羽」をこの放水路が断ち切っているように見えます。

想像した通り、水が全く流れていないまっすぐな茶色の場所でした。

 

 

*「原鶴分水路」*

 

地図では「原鶴放水路グラウンド」と表示されていますが、筑後川河川事務所の説明では「原鶴分水路」になっていました。

 

  原鶴分水路

昭和28年6月の大洪水は、過去の出水を大きく上回り、随所で破堤決壊して、筑後川全域にわたり惨たんたる災害をもたらし、なかでも原鶴地区の被害はじん大なものであった。

これを契機として改修計画の改訂が行われたが、当地区の計画高水流量6,200㎥/secに対し、現河道の流下能力は狭さく部のため4,600㎥/sec程度であり、その対策としては種々比較検討された。検討の結果、水理、施工、工事費および観光地(温泉)としての現場を考慮して分水路により対処することになった。

用地取得は昭和43年度から着手し、先行取得によって同48年にはほぼ終了した。工事は同47年より橋梁工事に着手、昭和54年に分水路事業は完成した。

国土交通省九州地方整備局 筑後川河川事務所)

 

私が生まれる前の古今未曾有とされる豪雨は、筑後川流域に大きな被害をもたらしたようです。

その後、1957年(昭和32)に筑後川水系治水基本計画ができ、ダムや洪水時に放水する分水路などが計画され、私が小学生の頃にこの地域の用地取得、そして完成したのは1979年(昭和54)というと私が高校を卒業したあとですから、治水は本当に気が遠くなる時間が必要ですね。

 

そして「大石分水路」「千年分水路」も筑後川左岸側に造られたようです。

もう一度地図を見ると、確かにありました。

 

想像したほど怖くないと思いながら原鶴大橋を渡ったけれど、この辺りは中流域の中でも川幅が狭く蛇行していて、かつては氾濫しやすかった場所かもしれません。

 

 

*「10年間に4回も浸水」*

 

放水路によって温泉街の生活も生業も守られるようになったのだろうと思っていたら、「原鶴温泉の老舗旅館・・・10年間に4回も浸水」という記事がありました。

いつの記事だろうと思ったら、なんと2025年6月9日付でした。

 

原鶴温泉の老舗旅館・・・10年間に4回も浸水 待ち望んだ地区のポンプ施設完成 「安心して生活できる」豪雨時の排水能力は6倍超えに 福岡

 

8日に梅雨入りした九州北部地方では11日にかけて大雨となるおそれもあり、気象台が注意を呼びかけています。

こうした中、9日午後3時半から福岡県朝倉市原鶴温泉地区で行われた式典。

長らく待ち望まれていた浸水対策設備が完成しました。

 

原鶴温泉旅館組合 井上善博組合長

「このポンプ施設の完成により、豪雨時の排水能力が大きく向上改善し、今後は安心して日々の暮らしや仕事を続けることができます」

この原鶴地区といえば…。

 

泰泉閣 林里美室長(2023年)

「ここに冷蔵庫が並んでたけど、なぎ倒されるくらいで、私のこの辺くらいまできてたと思います。お庭を見ながら、特別なお部屋ということで作っている。まさかここもつかるとは…。」

原鶴温泉地区を代表する老舗旅館「泰泉閣」。

2年前の大雨で、大規模な浸水被害に見舞われ1カ月の休業を余儀なくされました。

泰泉閣が浸水被害を受けたのは、それまでの10年で実に4回。

被害が頻発する理由は…。

 

◆泰泉閣 林里美室長(2023年)

「水がここに流れて、放水路を水にはけさせる役割。とてもこんな大きさとか深さじゃ水がはけないので、ここが調整していれば、うちはつかることはないが…。

 

原鶴温泉地区は九州最大の1級河川・筑後川と、洪水を防ぐために人工で作られたいわゆる分水路に囲まれています。

大雨の際は、地区内にある調整池の水をポンプを使って排出する必要がありますが、これまでは排水が追い付かず調整池からたびたび水があふれて、浸水被害をもたらしていたのです。

そこで今回、導入されたのが…。

 

記者リポート

「きょうからこの調整池に設置されたのがこちら6台のポンプ。従来の6倍を超える量の排水が可能になるということです」

1分あたりで排水できる量はこれまでの16トンから98トンと大幅に増えました。

さらに排水能力を高めるため、調整池への流入口を1ヵ所から3ヵ所に増やす工事も進められていて、まもなく完了する予定です。

 

朝倉市建設課 西田茂課長

「床上浸水をゼロにするために計画しているので、一番は床上浸水がゼロになることを期待」

 

泰泉閣 林恭一郎社長

「ここ数年続けざまに浸水被害にあっていましたので、毎年この時期が来るのが恐怖心すらありましたが、このポンプが設置されることで旅館も地域に住んでいる方も安心して生活ができるようになると思います」

各地で進められている大雨対策。

10日は福岡でも警報級の大雨となるおそれがあり、気象台が警戒を呼びかけています。

(「福岡TNCニュース」)

 

訪ねた時の美しい風景から一転して、大雨の時には放水路と本流の濁流にはさまれて中洲となる地域。

日本では、水源となる山地等から海などに注ぐまでの距離が短い川が多く、それによって流れが速い川が多い。そのような川でひとたび増水すると、その増水分を吸収・緩和できるバッファが少ないことから、堤防の越水・決壊等を招くことが往々にしてあり、そのため、「暴れ川」という川が多い。

Wikipedia「暴れ川」)

 

ひとたび増水すると生活への被害は甚大だけれど、その恵みも大きく、古えから水を利用したいという願いが続いている。

川を訪ね歩くようになった数年前に、「暴れ川」に名前があることが不思議に感じたのですが、「筑紫次郎」と呼ぶことで災害への恐怖や憎悪だけでない何かがあるのかもしれませんね。

 

 

 

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落ち着いた街 87 大石水道ができて361年後の風景

計画の段階では、筑後川に合流する川のそばに水神社と用水路があるのでちょっと見てみよう、そして筑後川を歩いて渡って山田堰へ行こうと、あまり深く考えないで訪ねてみた場所でしたが境内の下を大石水道が流れ、そしてこの地域の農政に貢献された人の記録を知ることができました。

 

さて、地図ではこの場所に「長野水神社」と「水神社」の二つが表示されているのですが、もう一つの水神社はなさそうです。

まあいいか、先を急ごうと、筑後川の堤防道路を目指しました。

 

堤防道路の左手には幅数メートルはあるでしょうか、広い水路がゆったりと少し蛇行しながら流れていて、その左岸にもう一つ社殿があるのが見えました。

どうやら地図とは場所がずれているのですが、あれがもう一つの水神社のようです。

訪ねるには時間が足りなくなりそうで、堤防道路へと上りました。

 

筑後川が悠々と流れているのが見えます。五月晴れの真っ青な空と真っ青な筑後川、そして緑の山並み、鳥肌が立つような美しさでした。

そして反対側には、先ほどの幹線水路がゆったりと流れ、その向こうにこれから田植えの時期を迎える水田と集落が散在している、これまた美しい風景です。

 

これは幸せな散歩だと思っていたら、この堤防道路は交通量の多い県道81号線で、前から後ろから車がひっきりなしにスピードを出して来ます。

歩道は申し訳なさそうに白線が引いてあるだけですが、車専用道路ではなさそうです。車が来るたびに立ち止まって「(こんなところを歩いてすみません。お先にどうぞ)」と会釈をして先に行ってもらったのでした。

そして柵がないので左によれば幹線水路へ、右へよれば筑後川の河川敷へと転落しそうになり、しだいに川風も強くなってきました。

美しい風景を楽しむどころか生きた心地がしないまま1kmほど歩くと、ようやく道路から集落へと入る道がありました。

ふ〜っ、助かりました。

 

堤防道路の下へ下りると、先ほどの水路が大きく曲がり、昔ながらの家々のすぐそばを流れています。水深は数十センチあるかないかぐらいで、水は澄んでごみ一つない水面です。

しばらく水路沿いに歩くとまた堤防道路へと上がる道になり、その先にある原鶴大橋を渡って筑後川右岸へと行く予定です。

 

この水路沿いをもっと歩いてみたいなと後ろ髪をひかれながら、西へと大きく向きを変える水路から離れて、原鶴大橋へと向いました。

 

 

*水をはかり分ける角間天秤だった*

 

訪ねた頃にまだマップでは表示されていなかったこの水路名ですが、最近、「北新川」と表示されるようになりました。

そしてちょうど西へ大きく曲がるあたりで、南新川ともう一つ3本の水路に分かれているようです。

 

「大石長野水道の開削と五庄屋」を読んでいて、「あ、この場所だ」とわかりました。

大石から流れ下った水はいったん隈上川に注ぎ、二つの水が合流して、西岸に設けられた水門で調節され、西の方へ流れ下って行く。隈上川はいつも水量が少ないが、一度雨が降ると急に増水して水勢が強くなる。そのため平水の時は堰を越えて筑後川に放水されるようになっている。長野の水門をくぐった水は、筑後川左岸堤防に沿って西下すること470間、角間村で南北両幹線水路に分かれる。この地点を、後世の人は水をはかり分ける意味で角間天秤と呼んでいる

(強調は引用者による)

 

そして現代の地図では「堤防道路の内側の水路」にしか見えないのですが、この開削のためにこんな過酷なことが行われていたことを、帰宅してから知ることになりました。

 

 監督に当たった作事方丹羽頼母は、見ただけでもぞっとするような5人分のはりつけ道具を取り寄せて、長野村の出入り口の人目につきやすい場所に建て並べ、万一工事が不成功に終わったならば、必ず五庄屋を刑罰に処するぞという気勢を示した。人々は、これに激励されて、「庄屋どんを殺すな」とばかり、土石の打起し、運搬と極寒の最中汗みずくで働いた。

 

若い頃なら「昔はなんとひどいことを」くらいの感想で終わっていたかもしれないのですが、年を経るにしたがって、その中の1人に自分の人生を重ねるようになってきました。

「命の重さ」なんて簡単に表現できない、何かもっと違う深淵に落ちて行くようなそんな感じです。

間違った権力を持った側の残酷さや傲慢さに対してでしょうか。

 

 

*さらに現代へ*

 

 

長野水神社にあった「竣工碑」の碑文を、帰宅したらゆっくり読もうと写真に収めました。

   碑 文

 寛文四年(一六六四)、五人の庄屋の発起に始まる灌漑水路建設はこの地に新しい生命線を創造、人々は長くその恩恵を敬仰してきたところであった。

 この後、筑後川中流域は大石・山田・恵利の三堰掛りい一円の先覚的な用水灌漑の歴史を背景に、代々優れた水田経営を続けてきたが、従来の水路は破損しやすく、施設も旧式で、補修や浚渫など多くの労力を要していた。

 このため、国営による筑後川中流域農業水利事業が計画され、一帯の約六千四百ヘクタールの耕地を対象とした大工事を昭和五十六年後の平成八年の春、漸く完工に至った。

 そのうち、我が大石堰掛りの灌漑面積は二千二百七十五ヘクタール、総工費七十一億八千万円、用水路延長は二一・九キロメートルに及ぶ史上最大の事業規模となり、新構造水路のほか自動機器設置など管理を合理化し、近代的な営農の基礎を固めて、今後の飛躍に備えた。更に用水路の持つ歴史的景観に配慮した国・県営事業の玉石積護岸・遊歩道・水辺広場等、愛される親水空間としての環境整備にも寄与する等々、このようにして本事業は寛文以来の連綿と続く産業興隆・生活向上の源泉としての役目を受け継ぐことができたのである。

 幸いにしてこの事業の推進に当たっては、関係各位の真摯なご協力を戴き、少なからぬ困難を乗り越えての完成は誠にご同慶の至り、衷心より深く感謝に堪えない。

 ここに我々一同は、この業績の存続がいつまでも郷土にもたらすよう祈り、あわせて先賢の協同精神が今なお生きている証しとして、三百有余年前の父祖同盟約のこの聖地に、喜びの碑を建てるものである。

 平成九年三月吉日  浮羽郡 大石堰土地改良区

 

(強調は引用者による)

 

 

 

あの日に写した水路と社殿そして角間天秤のあたりは、五庄屋と人々が命を賭けた水路開削から361年後の落ち着いた風景でした。

 

そして全国各地の田んぼや水路のそばにあるこうした石碑に、「連綿と続く産業興隆・生活向上の源泉としての役目」や「先賢の協同精神」が記録されているのを読むと、奈良時代の財力や労力を寄進した知識と呼ばれた人々のことを思い出しました。

 

今、また新たな農業の大変な時代に入っているけれど、きっと連綿とつづく何かによって乗り越えて、やはり美しい田園風景が永劫続くだろうと思えてきました。

それを壊したい人たちは「もう日本の農業は続かないんじゃないか」とさかんに脅かしますけれどね。

私たちの生きる糧を作ってくださる人たちを大事にしない国は、滅びの道のように見えてきました。

 

 

 

 

「落ち着いた街」まとめはこちら

 

 

 

 

水のあれこれ 430 手に取るようにわかる大石長野水道の歴史

5月初旬の筑後川から遠賀(おんが)川の散歩の記録だったのに、うきは市の長野水神社にあった銅像の碑文からすっかり現代へと寄り道をしてしまいました。

 

さて、2003年(平成15)に建立された「長野水神社の由来」とは別に、大きな鳥居のそばに大石水道の「守護神」である旨が書かれた「由緒」の説明がありました。

 

もう少しこの灌漑用水の歴史を知りたいなと検索したら、1984年の農業土木学会誌に詳細が書かれていました。沿革の詳しい年表から当時の人たちの様子、さまざまな困難をどう克服したかなど、圧倒される記録でした。6ページに及ぶものですが、転記しておこうと思います。

 

「農業土木を支えてきた人々 大石長野水道の開削と五庄屋」

 

Ⅰ. はじめに   

 大石長野水道は、九州の屋根九重山阿蘇外輪山の熊本県阿蘇郡南小国町にその源を発し、大分県日田盆地において玖珠川と合流し大河となって筑後佐賀平野を緩やかに流れ有明海に注ぐ九州第一の河川、筑後川のほぼ中流部、福岡・大分県両県の境にある夜明ダムから、下流5kmほどの地点にある大石堰から左岸側に取水している用水路である。

 用水は、2門の取り入れ口から取水され、大石導水路を経て、北・南幹線用水路に分かれ、さらに流下して、雲雀幹線用水路等に分かれ、大石堰土地改良区の2,2284haを感慨しており、その水路総延長は148kmに及んでいる。

 大石堰本体は度重なる水害を受けながらも、その都度修復されてきたが、昭和28年6月に襲った大水害によって壊滅する大きな打撃を受けた。この災害の復旧には、技術の粋が集められ、きそこうじに潜函工を施し、河床洗掘りに対する安全を図り、また、堰体表面を流石による衝撃から防止するため、堰頂部に角切石張工を施す等、万全の復旧工事がなされ、その後の洪水にはびくともせず今日に至っている。

 用水路については、昭和26年度から県営灌漑排水事業で、漏水防止を主体としたコンクリートライニングを実施しているが、ほかは小規模な部分改修で、現在の水路は随所に築造当時の面影を残している。

 近年、生活水準の向上、多様化等による水需要の増に迫られ、とくに筑後川水系における水資源の開発が強く叫ばれているが、異常気象による極端な筑後川流量の減による農業用水の不足を見ることはあっても、大石堰掛りでは他地域でみられるような干ばつ被害は少ない。

 また、用水路が途中家並の中を流れており、地域の農地を潤すばかりでなく地域住民の生活とも切り離せないものとなっている。

 今をさかのぼる320年前の夏梅村庄屋栗林次兵衛たち5庄屋の提唱による水道開削に対して地域住民の感謝の気持ちは限りない。5庄屋に対しては、有馬藩、あるいは県から賞詞、懸賞が与えられているが、大石導水路の横に建てられている長野水神社は、明治15年10月に創建され「水波賣乃神(みずはのめのかみ)」を祭ったものであるが、堰築の守護神としてひそかに首唱5庄屋の霊を合わせ祭ったと言われていたが、大正元年10月29日県知事の許可を受け、長野水神社の祭神として正式に合祀されている。毎年4月8日には、水神祭がとり行われ、その年の方策と水の恵を祈る人でにぎわいを見せている。        

 

Ⅱ. 疏水請願と五庄屋

 筑後川沿岸の浮羽郡地方は、今では地味豊で水に恵まれ水田が連なり、極度な干ばつ年を除き農家は水の心配もなく営農にいそしむことができているが、今からおよそ320年前までは、水利施設が不備で、水田は低い湿地帯だけに限られ、そのうえ干ばつや水害を受けやすい水田が多く、平野の大部分は藪や林におおわれ、全く耕作に適さなかった地帯であった。このため住民は、畑作を主として生計を立てていたらしく、このような状態は筑後川沿岸だけに限られていたことではなく、大きな川に沿った地域で水利工事の行われていなかったころは、どこでも同じ状態であった。

 生葉郡包末村(現浮羽郡吉井町千年)から西、竹野郡との境にある部落は、筑後川のほとりにありながら水利の便が悪く、水田が少なく中には全く水田のない部落さえあって、農民の困苦はひどいものであった。

 やむなく祖先伝来の土地を見限って、他に安住の地を求めて移る者さえあった。当時の文書に亡所とあるのはこれをいったものである。

 このような状況に、夏梅村庄屋栗林次兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、管村庄屋猪山作之丞の5人の庄屋(現吉井町)は心を痛め、時々集まっては、目の前に流れている筑後川の水をなんとかしてこの平野に引く工夫はないかと協議した。その結果得られた案は、ここから10kmばかり上流の左岸長瀬(現浮羽町)の入江から水を取入れることにして、そこに水門を設け溝を掘り川水を引くことであった。そして、それが成功すれば畑を水田にし、今までの水田の水不足を補うことができ、農民の生活は楽になり、亡所するものもなくなり、ひいては有馬藩の税収も大いに増すことになるであろうと考えた。

 寛文3年(1663年)の夏は日照り続きで、5庄屋はいよいよ水利工事の急を痛感した。その年の秋、郡奉行所高村権内が郡内を見まわり、5人のうちの1人高田村の庄屋山下助左衛門の家に泊まった。5庄屋はこの時とばかりうちそろって奉行の前に出て、農民の苦しんでいる状況を訴え、かねての計画案を申し述べ、是非ともお許しを得たいと熱心に願い出た。一部始終を聞き終わった郡奉行は、「よい思いつきではあるが、事はまことに重大である。しかし藩の財政にも大きく響く問題であるから、お取上げにならないものでもあるまい。その方共の申立ては、まだ机上の空論に過ぎないように思われるので、実地について調査検討し、設計書見積書を作って願出るように」と励ました。

 そこで5庄屋は、今後どんな困難にぶつかろうとも命がけでこの願いを貫きとおすことを固く申し合わせ、誓いの詞をしたため血判を押して一大決心のほどを表した。その後、調査を急ぎ溝の間数、幅、深さ、つぶれ地、所要人夫等、詳細な設計書、水路図、見積書を作り、大庄屋田代又左衛門に申出て、藩庁に出願する手続きをしようとしたやさき、このことを伝え聞いた同じ田代組の支配下にあった金本村庄屋金子次郎兵衛等の7カ村五人の庄屋が、われわれの村も是非これに加えてもらいたいと申し出た。しかし、栗林次兵衛たち5庄屋は、われわれは死を期してやっていることであるから、他人に迷惑をかけるのは不本意であるときっぱりこれを断ったが、これらの村々とても水の欲しさにかわりはないので、前の5庄屋の村だけに水を引くことは身勝手すぎるとして、逆に出願阻止運動をはじめ、一時は険悪な空気がただよった。しかし、田代又左衛門が、この人々の間にたちいろいろと調停に務めたので、やっと両方の気持ちが解けた。その時、竹野郡千代久村しょうら大熊太兵衛も無理に加入を申し出た。こうして結局13カ村11庄屋は、寛文3年(1663年)9月24日に水道工事請願書に名を連ね、設計書、水路図を添えて田代大庄屋の奥書を付け、高村郡奉行を経て久留米の藩庁に願い出た。この時の藩主は藩祖有馬豊から第4代目の頼利で、当時未だ12歳の幼君であった。

 

Ⅲ. 疏水反対

 やれやれと思う間もなく、思いがけない大難題が起こった。水道筋に当たる布留川(現浮羽郡)等11カ村の庄屋がそろって異議を申立て、大石村から溝を掘って筑後川の水を引き入れたならば、平素は良いとしても、いったん大洪水にあった時は、われわれの村の田畑は多大の損害を受ける危険にさらされると主張した。これに溝口等の3カ村の庄屋も同調して郡内の騒ぎはいよいよ大きくなった。高村郡奉行は実地調査のため現地におもむき、この争いと全く無関係の東原口村の庄屋国武太兵衛の家に泊まった。古川、長野、福久、角間、小江5カ村の庄屋が、反対派の代表となって郡奉行の宿に出願し、猛烈な反対陳情を行った。

 出願11庄屋はこれに対応して、「設計通り工事を進めても、決して損害は及ぼさないと信ずる。万一損害を与えた場合は、誓ってわれわれが責任を負い、どんなお仕置を受けてもいとわない」と書面で弁明したので、反対派も手の下しようがなくなった。さらに郡奉行国友彦太夫が実地調査に来た。藩論は工事許可に傾いてはいたが、このまれな大事業を行うに当たって、もし失敗でもしたら、物笑いの種となって藩の威信にもかかわるので、軽々しくは許されず、幾度も首唱5庄屋を呼び出した。召し出される度に、かねて命がけの覚悟でいるので何のはばかるところもなく、堂々と所信を述べて目的貫徹に努めた。高村郡奉行からも度々催促したが、藩の態度は依然として決まらず、ちょうどその時普請奉行山村源太夫の郡内見廻りがあったので、5庄屋はこれまでの計画についての実地調査を願った。源太夫は親しく調査の上帰城して、詳しくこれを重臣有馬内記に報告した。内記は源太夫の外に重臣馬淵嘉兵衛を加えて、3人で協議を行なった。

 こうしてやっと藩論が動き、治水工事に最も詳しい普請奉行、丹波頼母重次(にわたのむしげつぐ)を派遣して実地調査に当たらせることになった。重次は大工棟梁平三郎をつれて水路の実測をし、帰藩して「こんな大事業をとても庄屋などの手で成し遂げ得るものではない。よろしく藩の事業とされたい」との意見を上申した。

 この丹波頼母重次は、河内の城主で2万石を領した新左衛門の子孫で、浪々の身でいた37歳の年にその人物を見込んで、禄高400石で有馬家初代の豊氏に召し抱えられている。重次の人となりは、豪まいで機略に富み、建築土木の仕事に精通していたので、普請奉行に抜てきされた。今日の土木部長といったような役である。功を重ねて次第に加増され、後には1,500石となっている。

 

Ⅳ. 工事許可

 いよいよ藩営として着工に決定。寛文3年(1663年)12月、11庄屋の切なる願いはやっと聞届けられた。許可と同時に藩庁から「今度の水路工事について、その道筋に当たる木や竹の伐り払い、あるいは家屋の取除き等に対しては、絶対に異議申立てを許さない」という厳重な命令が布達された。

 郡奉行は、まず11庄屋を呼出し「願書の設計に基づいて水路を掘り終えたあかつき、もし水が流れて来なかったならば、お前たちの責任はどうしても逃れることはできない。不幸にして左様な事態に立至ったならば、気の毒ながら出願の11庄屋全部、はりつけの極刑に処せられることは必定である。今までの断言から察しても、その場に及んでもよもや不服はあるまい。どうじゃ」と決めつけた。この時首唱5庄屋が進み出て、「不幸にして不成功に終わり、すべてが無駄骨折りとなるようなことがありましたならば、どうぞ私共を厳罰に処して世間にお示しください。甘んじて刑罰に服し、御上や世の人々にお詫びいたします」と覚悟のほどを示して固く誓った。それから郡奉行の指図で準備にかかり、夏梅むら栗林次兵衛ほか3人の庄屋は大石村に、その他は各所に詰めることとなった。人夫は上3郡(生葉、竹の、山本郡)から出し、1日500人づつとし、願村からは別に自費で出夫した。人夫のまかないや、資材調達の諸経費の出納は、願村の庄屋がその処理に当たった。

 

Ⅴ. 着工

 丹羽頼母は藩命によって最高監督者となり、郡奉行国友彦太夫、下奉行青沼市左衛門ほか7名と、御鉄砲衆の足軽30人を引き連れて現地に入り、長野等に分宿した。寛文4年(1664年)正月11日に工事を起こした。同時に大石村弓立神社神官安達作之丞は、3日2夜にわたる工事成就の祈願祭執行を命ぜられ、おごそかにこれを勤めた。

 工事のあらましは、長瀬の下の入江から下流に向かって溝を掘り、取入口に水門を築いて扉を設け、水量の調節をはかる。溝幅は約2間で、西へ下ること1,650間、長野で隈上川に合流する。その間に早川その他の小さな流れを縫い、2カ所に放水路を設けた。早川との合流点には、中央に幅2間3合、高さ4尺の板堰を設け、その左右に各幅3間3合、長さ6間半の石堰兼放水路を設けて水量を調節し、また、この合流点のすぐ下流の本溝にも板の仮堰がされるようにし、本溝さらえや修理の時だけ使用するようになっている。

 大石から流れ下った水はいったん隈上川に注ぎ、二つの水が合流して、西岸に設けられた水門で調節され、西の方に流れ下って行く。隈上川はいつも水量は少ないが、一度雨が降ると急に増水して水勢が強くなる。そのため平水の時は、その水も利用できるように低い堰を設けて、増水時の余水は堰を越えて筑後川に放水されるようになっている。長野の水門をくぐった水は、筑後川左岸堤防に沿って西下すること470間、角間村で南北両幹線水路に分かれる。この地点を、後世の人は水をはかり分ける意味で角間天秤と呼んでいる。

 

 監督に当たった作事方丹羽頼母は見ただけでもぞっとするような5人分のはりつけ道具を取り寄せて、長野村の出入り口の人目につきやすい場所に建て並べ、万一工事が不成功に終わったならば、必ず5庄屋を刑罰にするぞという気勢を示した。人々は、これに激励されて、「庄屋どんを殺すな」とばかり、土石の打起し、運搬と国幹の最中汗みずくで働いた。そのため工事は意外にはかどり、予定より早く寛文4年3月中旬には見事に目的を達成した。灌漑面積は、生葉郡で70町歩余り、竹野郡で5町6畝1歩に及んでいる。起工から竣工までわずかに60日余り、人夫はおよそ延4万人を要した。

 願出村11庄屋はいうまでもなく、農民はこおどりし、お互いに手を取り肩を抱き、涙を流して喜び合った。早速郡奉行の命令で、5個のはりつけ台は、人々の喜びどよめく中で焼き捨てられた。絶えず人々の心をおどかしたこの不吉な刑具も、悪魔の舌のような不気味な炎をあげて焼け失せた。

 古老の話によると、用水路を大石から西に掘り進んで、早川谷を横切ることになった時、ためしに水を新溝に注ぎ込んでみたところ、水は大石の方に向かって非常な勢いで逆流し始めたので人々は驚いた。中でも5庄屋は色を失い、そのしおれ方は、はたで見るのも気の毒なほどであった。その晩からこっそりと志波の金比羅様に丑の刻参りを初めて、工事の成功を祈ったということである。

 また、こんな話もある。工事が終わって通水式をしたところが、水門からは十分水が流れ込んでいるのに、新溝の漏水がひどくてやっと400間ほど流れると、もう水は全くつきてしまう有様に、5庄屋は落胆して三度の食事ものどを通らず、夜もろくに眠れないほど心配した。しかし、数日して大雨が降り川の水が増し、新溝も十分に潤い、やっと水が流れ始め5庄屋は救われた、と。

 寛文4年の秋、郡奉行は清宗村庄屋本松平右衛門を呼び、この用水によって収穫の増加した石高調査を命じた。平右衛門は早速調査をし、報告した。

 

Ⅵ. 拡張工事

 今まで畑が主であったこの地方に、果たして筑後川から水が弾けるがどうかは久しい間の疑問であったが、いったんこうして解決を見た後は、大いに水田拡張の気運が高まり、寛文4年の秋には、竹野郡古賀津留(津留は水田の意味)の今泉村庄屋日野九郎右衛門ほか8カ村の庄屋が結束して、大石水道および用水路の拡張工事を出願した。

 藩庁では、普請奉行岡田弥五右衛門と高村権内とを遣わして、実地調査に当たらせた。これを伝え聞いてさらに、包末村庄屋宇野市兵衛等4カ村の庄屋が、桜馬場溝、兼広溝を掘らせてもらいたいと、相次いで出願したので、両奉行はどうしたものかと評議した。そこに先に願い出ていた、今泉村の庄屋たち9カ村8庄屋から「後から願い出た包末村等5カ村の庄屋は、最初この水道工事の出願があった時、猛烈な反対をした人たちである。古賀津留方面の灌漑ができない前には、決してお許しにならないように願います」と強硬な反対を示した。しかし、同じ藩民を等しく潤すことであり、藩の財政を殖やすことになるからと、どちらも許可された。

 藩からは前回と同様に丹波頼母、高村権内、国友彦太夫以下奉行小頭8名と、銃卒30余名を現場に派遣し、寛文5年(1665年)正月14日に第2期工事を起こした。願村の庄屋はもちろん、生葉郡内全庄屋を呼び集めて、工事の部署を割当て監督を命じた。人夫も前回と同じ1日500人ずつを総郡から出すことになった。国友彦太夫は長野にあって万事を指揮し、首唱5庄屋農地、清宗村本松平右衛門と、須賀村猪山作之丞とは大石で水門の改造についての意見を述べる役に当たり、夏梅村栗林次兵衛、高田村山下助左衛門、今竹村重富平左衛門は顧問になるとともに、願村出夫の監督に当たった。願村13諸王やはできる限り多量の水を引きたいと設計を立てた。もとの水門は大石も長野も1門であったのを2門にしてその扉は双開式とした。

 水門から下流の溝は、全線2倍の広さに拡張された。水門に用いられた石材の主要なものは、藩命によって大野原、山北、隈上、朝田方面に散在していた古墳から運んで来た。この時多くの古墳が壊されたことは、考古学上惜しまれることであったが、国利民福の目的のためには当時としてはやむを得ない措置であろう

 当時の控帳に工事の苦労がしのばれる。「水道かぶせ石2枚吉井町へ石橋かこひ有之を引寄候事」とあり、鉄筋コンクリートのなかった当時、水路のかぶせ医師に使う平らな自然石の巨大なものになると、そうざらにあるものではなく、方々捜しまわって石橋に使ってある石材まで徴発して遠方から運んで来たことがわかる。また「柱石3本、万力石1本百人宛にて引寄申候事」と搬出には藩の材木運搬掛久右衛門、八郎右衛門の2人が当たり、大石水道へは原口を通り、長野水道へは隈上川の中を引いて来たが、いかに苦労したかは想像以上であろう。

 こうして、その年の4月に竣工し、、元に数倍する水が得られ畑田(畑を水田に転換)400~500町歩を灌漑することができるようになった。寛文5年4月、重臣有馬内記は郡奉行の案内で、水道工事の現況検閲を行い高田村庄屋山下助左衛門の宅に休憩した。その時5庄屋を呼び、「水道工事が見事に成功して藩の財政に寄与し、農村振興上好成績を収め得たことは満足の至りである」と賞詞を与えた。

 寛文6年(1666年)の春には、雲雀津留各村から「畑田に灌漑したいので、溝筋を延ばして水を分けていただきたい」と請願があり、翌寛文7年(1677年)には、恵利津留の村々からも分水の請願があり拡散工事がなされ、今日の大石堰土地改良区が管理している施設規模となっている。

 

Ⅶ. 大石堰築造

 筑後川本流に堰を築造するのは、当時としては極めて困難な大事業であったのに、その工事の状況等を示す記録がない。大工事の場合はたいてい工事責任者、人夫、経費、資材等を記録してあるものであるが、大石堰においては発見されていない。後年、寛保3年(1743年)に「3月10人引きの山石400個を簗瀬の東北端岸下の空洞所へ充填したり」という記録があり、それにしても放り込んだ石も莫大な数であったと思われる。

 大石堰は、延宝2年(1674年)生葉郡13カ村の願によって、簗瀬堰が築造された。大石、古川二村の対岸は筑前領林田村で、その間を横断している簗瀬堰(昭和28年6月26日の大水害で決壊し、昭和31年1月復旧され全く面目を一新し以前の面影はほとんどなくなっている)は、ながさ219間、仮船通しの長さ108間、本船通しの長さ104間、西梁の手長さ18間、東梁の手長さ20間、堰の基点から仮船通しの西の端までが4間2合、仮船通し口の幅6間8合、中石垣かが63間5合、本船通し口の幅が5間5ごう、そこから西梁の手までが33間5合、西梁の手から詰枠の突端までが45間5合、堰詰枠が60間となっている。平水の時は堰面は水に没しモグリ越流となる。昭和4年ごろの実測によると、仮船通し以東の面積は5町5反24歩である。延宝当時の数字はわからないが、後の時代に拡張されたことも考えられる。

 大石堰が面目を新たにし、今日の姿をしているのは、昭和28年水害の復旧工事によるものである。その復旧工事の経過と概要は次のとおりである。

 昭和29年1月11日に起工式が挙行され、工事は福岡県営事業として実施された。工事施工は大林組と生葉土木工興業が行ったが、渇水期に工事を進め、雨期前に終わらせるため工事場は不夜城の観を呈し、昼夜兼行の突貫工事が進められた。

 工事は、昭和30年4月までに主要部分を完了したが、全体の完了を30年度末としていた。昭和31年1月12日に竣工式が挙行され、午前10時に大石水神社前で奉告祭が行われ、来ひんとして5庄屋遺族も出席した。県からは工事経過が報告され、堰体は種々検討の結果、災害前の工法を根本的に変えた重力式コンクリートとして設計され、事業費は3億4千万円で、堰長208m、堰高3m、堰幅70m、船通し2か所、魚道1か所、護床工7,500㎡、護岸工274m、潜函工18基(190m)で、護床工はコンクリートブロック打込みの木工沈床工法を採った。本堰の特徴としては被災の原因が井堰下流の河床低下にたいしても安全な工法を採った。また、堰体表面を流石、流木の衝撃被害から護るため、堰体に角切石張工2,300㎡を施した。工事は、幸いに天候にも恵まれ、関係者の努力により予定通りに工事が進行したが、これは5庄屋の御守護があったのではないかと報告は結んでいる。

 大石長野水道に関わる主な事項を掲げれば、表-1のとおりである。(*表は略)

 

Ⅷ. おわりに

 大石用水は、筑後川中流域でも上流に位置するため、下流側の他の用水掛りに比べて有利といえるが、これまで述べた首唱5庄屋たち先人の偉業と、これを引き継ぎ今日まで守り育ててきた人々の労苦は、なみたいていのものではなかったことが手に取るようにわかる。

 筑後川水系の水開発が進み、水資源が有限なものと認識されつつある現在、苦労して確保した水の有効利用をはかることは、何をおいても重要なことである。

 昭和56年度から着手されている国営筑後川中流域で大石堰関係の用水路が整備されることになっているが、まだ緒についたばかりである。事業に対する地元の期待は大きく今日の行財政厳しいさ中であるが、筑後川中流地区の一日も早い完成を祈り、筆を置きたい。

 

福岡県筑後川水系農地開発事務所 西村昭造(しょうぞう)氏

「農業土木学会誌 第52巻 第10号」

(強調は引用者による)

 

 

地図で見つけた場所になんとなく惹かれて出かけたのですが、一本の用水路に壮絶な歴史がありました。

住民の生活や事業に対する責任は、現代とは比べ物にならないほど重いものだったのでしょうか。

 

 

そして1984年にこれが書かれたようですが、その13年後に国営事業が竣工した時の碑文が、長野水神社にあったこととつながりました。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

生活のあれこれ 68 玉虫色の「政治家ごっこ」に翻弄される生活

昨年10月の衆議院選挙もそして今年の参議院選挙も選挙公報を隅々まで読み、Wikipediaで候補者や政党の歴史を読み、選挙の争点についてもニュース記事を読み比べながら一生懸命考えました。

 

政党の変遷もねじれているので、元を正すと同じところに行き着いてしまうのではという一抹の不安もありましたが、とりあえず公約を読み一票を投じました。

どの政党にも納得はいかないけれど、今を変えるために「民主主義の一票を棄権してはいけない」、そんな感じ。

 

働けど働けど、なんだか他の国と比べても苦しくなっていく生活をなんとかしてほしいし、今の政治家になりたい人のための政治、富を得たい人が動かす政治がそれまで築いてきたものを平気で壊すような世の中を変えなければ禍根を残しますからね。

 

少数与党になり、少し風が吹いたと思ったのも束の間、凪の毎日になってしまいました。

搾り取られすぎたものを見直すために、なんで野党の皆さんは今、動かないのだろう。

選挙前の方がもっと議論が活発だったのに。

米の問題だって、税の問題だって、国民の生活のためにやることはいっぱいあるはず。

 

これからはイデオロギーの対立ではなく、話し合いによって解決策をすり合わせいく方向に変わるのかと希望を持っていたのですが、なんだか雲行きが怪しいような。

一大政党にでもなってしまったのではないかと。

 

 

*「骨太の政策取り組みたい」*

 

まさか裏での画策で骨抜きになってしまったのだろうかと思っていたら、こんな記事が目に入りました。

思わず「えっ」と声が出ました。

 

立憲・本庄新政調会長「骨太の政策取り組みたい」当選2回で抜擢の"政策通"

(TBS NEWS DIG、2025年9月11日)

 

きょう、立憲民主党政調会長に就任した本庄知史衆議院議員「中長期の骨太の政策についても、腰を据えて、しっかりと取り組んでいきたい」と話ました。

 

立憲民主党 本庄知史 新政調会長

立憲民主党がどういう国、社会を目指しているのかということをよく問われます。そういった中長期の骨太の政策についても、これは腰を据えて、しっかりと取り組んでいきたい

立憲民主党政調会長に就任した本庄氏は抱負についてこのように述べた上で、自由や多様性を尊重するといった「我が党の政策理念は今もなお色あせていない」と強調しました。

 

また、衆参両院で少数与党となる中、他の野党との連携について「どうすれば政策の実現という解を見出せるのか。そういう視点で虚心坦懐に話を伺っていきたい」と話しました。

 

本庄議員は、岡田克也外務大臣の秘書などを経て、2021年の衆議院選挙で初当選しました。現在は2期目の若手ながら政策通として知られています。

 

野田代表は会見で「政策通であると同時に、いろんなことをよくわかっている人」と抜擢の理由を説明しました。

 

記事中に2回も書かれている「骨太の」って、「しっかりした」という意味ですか?それとも・・・。

政策通なら、自民党の骨太を知らないはずはないですしね。

 

 

*3ヶ月前にはこんな表明をしていたらしい*

 

「骨太、立憲」で検索したら、立憲民主党のホームページに2025年6月13日付のこんな記録がありました。

 

【談話】「経済財政運営と改革の基本方針2025」(骨太の方針)の閣議決定にあたって

                             重徳和彦

 

政府は本日、「経済財政運営と改革の基本方針2025」(骨太の方針)を閣議決定した。

 「賃上げを起点とした成長型経済」の実現という目標は、我々も共有するところであるが、この間、十分に賃金が上がらず、非正規雇用が増え、格差が拡大し続けたのは、自民党政権のマクロ経済政策や雇用政策の失敗に他ならない。実際に、諸外国では労働生産性の向上に伴い実質賃金が上昇してきたが、我が国においては、過去30年間で労働生産性は約3割上昇したものの、実質賃金は横ばいである。一方で、トリクルダウンを志向したアベノミクスの影響もあり、企業収益と株主還元額は過去最高を更新し続けている。

 我が党は、参院選公約として、「賃上げ・雇用を中心とする経済政策」への大転換を掲げている。企業利益は賃金に真っ先に回る経済をつくり、働き方や処遇の不当な格差を解消する労働法生の整備等により、賃金と「じぶん時間」が個人消費に回り、売り上げが伸び、投資が活性化する好循環を実現していく所存である。

 

 なお、今回の「骨太の方針」では、「減税政策よりも賃上げ政策」とのフレーズが掲げられているが、この両者は相反するものではない。物価高から国民生活を守るには、あらゆる政策を適時適切に動員すべきなのであって、このフレーズは政策手段を自ら縛り、無策に陥っている政権の現状を象徴しているかのようである。財源を示さない無責任な減税は論外だが、財源を探す努力もせずに頭から減税を否定することを「責任」とは言わない。

 我々は、食料品消費税をゼロ%にしても、ガソリンの暫定税率廃止にしても、財源を確保した上で提案している。立憲民主党こそが本物の責任政党であるということを改めて宣言し、引き続き「責任ある減税」の実現を政府・与党に求めていく

 

 また、プライマリーバランス基礎的財政収支)の黒字化目標を後退させたことも、深刻な問題である。野党の減税政策については財政規律を理由に批判しておきながら、政府は毎年度、不要不急で水ぶくれの巨額な補正予算を編成して、結局、自ら目標を後退させている。我が党は行財政監視の役割を一層強め、将来世代への責任を果たしていく所存でだる。

 

 各論については、例えば「医療・介護・保育・福祉等の人材確保に向けて、・・・公定価格の引き上げを始めとする処遇改善を進める」とあるが、これは我々が長年主張してきたもので、周回遅れではあるものの、一定の評価はできる。安心な地域社会の基盤として不可欠な職種を支えるために、来年度予算で確実に結果を出すことを強く求める。

 また、地方再生については、11年前に石破総理が初代地方創生担当大臣に就任されて以降、結果として、地方の人口減少は加速化している。「令和の日本列島改造」などと銘打つ前に、まずは政府の取り組みが成果を上げなかった理由を検証すべきだ。

 

 立憲民主党は、来る参議院議員選挙において、自民党政権の経済・財政政策に変わる選択肢を明確に国民に示していく

 

一見、骨太の方針に異議を唱えているようで、よく読むともっと厳格に求めているようです。

 

そうだったのか、立憲民主党自民党以上に選挙で選ばれたわけでもない集団が勝手に政策を決め、具体策を財務省が決める骨太を推進していたことがはっきりわかりました。

 

選挙広報にも明確にしてくださったらよかったのに。

そしてコメ先物取引も2000年代に民主党が勧めていたことをもっと早くに知っていたら・・・。

まあ、その後自民党や維新や国民民主に移ったり、政党に関係なく統一教会と関わっている議員さん裏金とかパーティ資金の議員さんがだんまりなのもねじれすぎて、政党間のちがいなんてもう何がなんだかですね。

 

 

要は政治家にしがみつきたい人をふるいにかけられない状態なのだと。

自分は政治家に相応しいとか政策通だとか、ほんと、国民の生活を知らないのに恥ずかしい世界ですね。

 

*おまけ*

 

労働生産性」も労働市場と同じく嫌な言葉だなあと思って、上記の文章を読みました。

天候や災害に左右される一次産業や、「儲けることが目的ではない」医療や介護や福祉の世界には関係のない言葉ですからね。

そうか、だから資本家にいいように貶められ、労働の対価を勝手に下げてさらに人の財産をむしりとるのか。

 

そこに今気づいて怒っている人が多い世の中なのだと思いますけれどね。

 

政治家の皆さんの「自分の労働生産性は高い」「自分は搾り取られる側にはならない」という根拠のない自信はどこから来るのだろう。

 

 

 

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記録のあれこれ 226 「ぶっ壊す」権力者ごっこの記録

コメ先物取引とは何か検索していると「ゲシュタポ」と呼ばれる人が決まる人事とか「否定するやからは、無知蒙昧で金融も経済も知らない」と激越したといった闘争的な話で、いったい誰が国民の生活を考えてくれているのだろうとこの世の中に嫌気がさしてきそうです。

 

それでも、まだ検索すればそういう記事も読めるだけ自由が残っていると思うことにしましょうか。

 

農水省事務次官と「農水省をぶっ壊す」ための「改革」*

 

さて、もうひとつ気になった記事があって、これは手元に置いておくだけにしようと思ったのですが、首相退陣のニュースの経緯を聞いて覚書として記録しておくことにしました。

 

ほんと、この国は怖いですね。

 

 

「トッパモン」奥原が農水省をぶっ壊す!

霞ヶ関の常識を軽々と飛び越える奥原事務次官が、時代遅れの既得権に切り込む「活劇」の始まり!

(2018年1月号 FACTA ONLINE)

 

陽気な男ではない。同僚に向かって「政策のアイデアもない、議論もできない奴と会うのは時間の無駄」と言い放つ仕事の鬼。農林水産事務次官、奥原正明(61、79年入省)。守旧派からは蛇蝎の如く嫌われるが、そんな悪評も彼にとっては勲章農協をねじ伏せ、掟破りの安倍官邸介入人事で事務次官のポストをもぎ取った農政改革とは口先ばかりで腰の重い農水省を内側から揺さぶり、うるさい自民党農水族は官邸の「眼光」で黙らせる。霞ヶ関の常識を軽々と飛び越える「トッパモン」の奥原が、時代遅れの既得権に切り込む、まさに「活劇」だ。

 

菅長官が「奥原しかいない」

 

東大法学部時代は昭和の高度経済成長期に全国で発生した公害問題を解決しようと弁護士を志していた。ところが、卒業する頃には公害訴訟も峠を越し、自分の出番はないと踏んだ奥原は、霞ヶ関に足を向ける。コメの流通や価格を国が管理する食糧管理制度、減反政策など迷走する当時の農業政策に憂憤を感じて、農水省の門を叩いた。

キャリア官僚として秘書課長、農地改革や農協グループを所管する経営局長など要職を歴任したものの、次官レースは省内の保守本流を歩いた同期のエース、本川一善(前次官)が常に一歩リード。本川が農水次官に就任した2015年夏に奥原は霞ヶ関の慣例に従い、退官すると思われた。

ところが、である。奥原には安倍政権が立ち向かう岩盤規制改革の先頭に立ち農協(JA)グループの総本山・JA全中つぶしをやり遂げた功績があり、菅義偉官房長官の覚えがめでたいことは、霞ヶ関で知らぬものがない。16年夏、在任期間が1年に満たない本川のクビが飛び、次官の座に奥原が就いた。「農協改革をやれるのはケンカ屋の奥原しかいない」という菅長官の抜擢だった。「官邸におもねって次官のイスを奪った」(農水次官OB)と罵詈雑言を浴びても、本人はどこ吹く風。文字通り内閣人事局を統括する菅長官の「強権人事」だった。

菅長官からJA改革第2弾を託された奥原は小泉進次郎衆議院議員を神輿に担ぎ、農産物の流通を牛耳るJA全農に照準を合わせた。結果はご存じの通り。全農が改革に抵抗するたびに、国民的人気者の進次郎に批判させ、世論を誘導。「サンドバック」状態になった全農は、割高な価格で農家に売りつけていた農薬や肥料の値下げだけでなく、サボっていた農産物輸出に取り組むことを確約させられた。

「奥原ショック」は続く。次の標的は、身内の官僚組織だ。17年7月、奥原の後釜を狙う事務次官候補4名(肩書は当時)をまとめて葬り去った。1年後輩の今井敏林野庁長官(80年入省)と、佐藤一雄水産庁長官(81年)を退官させ、筆頭局長ポストの官房長の任にあった荒川隆(82年)を農村振興局長に格下げ。83年のエースと目された今城健晴消費・安全局長も、酪農改革を巡り、政府の規制改革推進会議を取り仕切る金丸恭文議長代理(フューチャー会長)と対立した咎で、まさかの退官の憂き目に遭った。

旧態依然とした農林水産業を近代的な産業に生まれ変わらせるのが奥原の悲願であり、次にメスを入れるのは林業と水産だ。まず、「儲かる林業を標榜し、やる気のある事業者の経営大規模化を推進する。財源には18年度の税制改革で誕生する森林環境税を回す。林業に続く水産改革こそが、奥原にとって農協改革と並ぶ「戦場」になりそうだ。焦点は「水産業への企業参入の促進」。つまり、漁業権を企業に開放し、自由な発想に基づく公平な競争を促し、衰退が止まらない水産業の再生を図る目論見だ。

水産改革はもちろん、「ハマの秩序を乱す」と叫ぶ全国漁業協同組合連合会JF全漁連)とぶつかる。その拒絶反応は、株式会社の農地取得を拒むJAグループと相似形である。JF側にも言い分はあろうが、現状はあまりに杜撰で不透明。例えば、外部企業が漁業権を取得した時、地元漁協に支払う漁業権の行使料や協賛金の額が「相手によって何倍も異なることがある」(規制改革推進会議関係者)という。「漁協の総会で自由に金額を決められるから、まさにやりたい放題。陸の上で同じことをやればボッタクリだ」と政府関係者は批判し、規制改革会議でも厳しく追求されている

 

農協の次は漁協とケンカ

 

そもそも海洋基本法で海は国民皆のものと定められているにもかかわらず、JFが独占的に利用する有り様は、国民の目には「既得権」としか映らない

現状を打破し、新勢力を呼び込む苦労は並大抵ではないが、既得権に切り込むケンカは奥原の得意とするところ。JFをJA(農協)と置き換えてみれば、これから何が始まるか、容易に予想がつく。

技官集団の水産庁プロパーは奥原改革に対して前向きではない。だが、7月の幹部人事で事務系キャリアが独占してきた水産庁長官ポストを初めて技官に回し、北大水産学部出身の長谷成人を抜擢した。もちろん、「オレに協力しろ」という、奥原からのメッセージに他ならない。

奥原が思い描く改革を軌道に乗せるには「2~3年は必要」(内閣府幹部)。通常なら次官就任から2年が過ぎる来夏に退くのが官僚組織の常道だが、奥原には霞ヶ関の常識は通用しない。水産改革を片付けてから、おもむろに後任にバトンを渡すとの見方が、省内に広がっている。

ある中堅幹部は「あと3年は時間を続投してもおかしくない雰囲気」と言う。仮に、あと3年次官を続けたら、その在任期間は5年に達する。霞ヶ関事務次官が在任5年居座った例は過去になく、「常識的にはあり得ないが、奥原の話を聞いていると、在任5年でも辞めないかもしれない」(農水省OB)。

後ろ盾の菅長官(=安倍官邸)は、先の衆院選大勝で政治的な推進力をました。18年秋の安倍首相の自民党総裁3選もほぼ確実。奥原の後顧に憂いはない。何せ後継者の次官候補を4人も飛ばした今、奥原に代わる幹部人材が、省内に見当たらない。

奥原の使命は岩盤規制の突破だけではない。総仕上げは、農水省という官僚組織の改革だ。

族議員と一体化した守旧派利権を打破し、21世紀の成長産業たる農林水産業をリードする役所に生まれ変わることができるか。常日頃、「自分にしかできない仕事をやれ!」と、部下を叱咤する奥原の真価が問われるのは、これからだ。

(強調は引用者による)

 

上げているのか下げているのかよくわからない記事ですが、結局この半年以後、2年の任期で退官したようです。

 

族議員」とか「守旧派」「既得権益」、それに対して「自由」「改革」「生まれ変わる」という対立はなんとなく心に残ってしまいますね。

でもよくよく読むと、日々仕事に勤しみ生活を築いているごく普通の人にはその「改革」の手法は怖すぎますね。

分野は違えども、職場のこうした権力闘争は身近に経験していますからね。

 

ゲシュタポ」なんて名誉毀損で訴えられそうな記事がずっと公開されているのはなぜだろうと思ったのですが、「悪評も彼にとっては勲章」というあたりなのでしょうか。あな恐ろしや。

 

最近は、「改革」と聞くと合理性も知性も感じられない嫌な言葉になりました。

ああ、いつもの権力者ごっこだ、と政治家の皆さんや官僚の皆さんへの信頼も地に落ちた感じ。

 

それにしても、もし在任5年になっていたら、無主物にも「自由な発想に基づく公平な競争」とやらで本当に日本の漁業は壊滅していたかもしれないと、ちょっと鳥肌が立ちました。

せっかく資源管理の方法が確立しても、横からさらっていくハゲタカが現れそうですからね。

あるいはこうした人が公害問題に関わっていたら・・・。

 

 

*きっとあの裏にもこんな強権政治が*

 

2010年代からの政治の裏側を知るにつけ、ずっとこの国で繰り返されてきた「国会議員と汚職事件」とも違う不気味さを感じることがありました。

 

それは特に、情報がお金になるポイントサービスがマイナンバーと連動することを聞いた2016年ごろからです。

その数年後、国と「私の存在証明」の公的な契約としてのマイナンバーカードだったはずなのに、いつの間にか私企業が入って2万円相当のポイントがもらえるという理解を超えた状況になりました。

 

そしてとうとう自分の存在の証明のためには実印のような情報を詰め込んだカードになり、それなのに「読み取り機」が必要というこちら側の主体性も奪われるものになり、任意取得だったはずなのに健康保険証を廃止して外堀を埋め始めたあたり、何かが変わってしまったように感じていました。

 

きっとこれもまた、「改革」を是とするゲシュタポ的な人が暗躍したのかもしれないと、妄想ですけれど。

そして自分はその「改革」の権力者に相応しいという思い込みの強い人は、最近は時代遅れに見えるし、ハラスメントであっという間にその地位を失う時代に入りました。

 

裸の王様に服を着せるのは難しいけれど、社会もまたその失敗を繰り返さないようにする動きができてくるのだと信じたいこの頃です。

 

*おまけ*

そうそう、「こんな保険証が欲しかった」でも、「ぶっ壊すようなやり方の政府のことが心配」と書いていたのでした。

 

 

 

 

 

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事実とは何か 121 「強い農業」と「農業改革」とは何か

「改革」と聞くと、漠然とながらも不安になるこの頃。

10年前の「農業改革」とは何だったのでしょう。

 

小泉進次郎・自民農林部会長「人寄せパンダ」を卒業?農業改革で手腕アピール 周囲から「出来レース」の陰口も・・・

(2016年12月2日、産経新聞小川真由美「政界徒然草」)

 

 政府と自民党の利害が激突した農業改革は、JAグループで商社機能を担う全国農業協同組合連合会連合会(JA全農)に組織刷新など年次計画の策定させることで決着した。調整に奔走した自民党小泉進次郎農林部会長は「農業界の風景は変わった」と自らの手腕をアピールするが、政府が求めた全農改革の肝心な部分は党の農林族に押し切られ大半が見送られた。党内には「人気とりの出来レース」と小泉氏を揶揄する声がくすぶり、全農改革は骨抜きになる懸念が残る。小泉氏の目指す農業改革はむしろ今後が正念場だ。

 「今回は鍛えられましたね。本当に」。小泉氏は11月25日、党の改革案が了承された農業関係合同会議終了後、記者団に、達成感と安堵感がない交ぜになったような表情でこう述べた。

 さらに、党内手続の経緯に触れ「苦渋の決断がいくつもあった。大きな団体を相手にして切り込んでいこうと、その世界に踏み込んだ者しかわからない、包囲網の張られ方がある。そのすさまじさ、一夜にして状況が一変する怖さがあった」と振り返った。

 小泉氏の言葉から、農林族やJAとの激しい攻防を乗り切り、人寄せパンダから脱して政治家として一皮剥けたという強烈な自負を感じさせた。

 政府と自民党が農業改革をめぐりガチンコ対決となった背景には、農業を成長戦略のエンジンに転換させたい政府の思惑がある。

 日銀の金融政策はマイナス金利の導入に伴う銀行収益の圧迫などが目立ち始め、手詰まり感は強い。消費の弱さと企業収益のもたつきで税収も伸び悩み、大胆な財政出動もままならない。

 4年前の政権発足直後から、安倍晋三政権はアベノミクスの第一の矢と第二の矢で経済を急回復させたが、第三の矢である成長戦略で目立った成果は出せていない。成長の起爆剤と見込んでいた環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)も、トランプ次期米大統領のTPP撤退宣言で米国を含めた発効は困難な情勢だ。

 経済成長の目玉が見当たらない政権にとって、海外での和食人気など伸びしろの大きい農業を「きつい、汚い、もうからない農業」から「稼ぐ農業」へ転換するのは喫緊の課題だ。 

 実際、安倍政権は平成26年にコメの生産量を減らす生産調整(減反政策)の廃止、27年は全国農業協同組合中央会(全中)の地域農協への監査・指導権の廃止など権限縮小を決めるなど、農家の収益力向上に剥けた環境整備を着実に進めてきた。

 そして今年、小泉氏は改革のターゲットを農機具や肥料などの仕入れと販売、農産物の委託販売を担う全農に定めた

 全農は取扱高が約5兆円と大手勝者に匹敵する巨大組織で、生産資材の価格や農産物の流通加工構造に絶大な権限を持つ。だが、本来全農はそのスケールメリットを生かし、農家に資材を安く販売するどころか、実際は資材を農家に売る際の手数料を主な収益源としているため高い資材を農家に販売してきた。農作物の販売も委託販売のため売れ残りのリスクは農家が背負う。

 

 小泉氏は、こうした全農の体制こそ農家の経営の自由を奪う存在だと判断。安倍首相も「全農改革は農業の構造改革の試金石だ」と小泉氏にエールを送った。

 「農業は素人」だと自覚する小泉氏が、全農や農林族の反発を自ら招くような急進的な改革を主張できたのは、今年の農林水産省次官で、省内きっての農業改革派である奥原正明経営局長を起用し、小泉氏をサポートするよう指示した菅義偉官房長官の後ろ盾があったからだろう。

 今秋、菅氏は周囲に「思い切って(改革を)やるように(小泉氏に)言った」と話し、「俺は農家の長男だ。改革ができないとは言わせない」とも語っていた。

 だが、最終局面で小泉氏に難題が降りかかる。

 11月11日、政府の規制改革推進会議の農業部会が小泉氏も「高すぎるボール」と驚く提言を公表した。農協に対し、生産資材購買事業の「1年以内」の縮小や農産物の委託販売の「1年以内の廃止」、金融事業を営む地域農協の数を「3年を目処に半減ーと、全農に対し期限を切った改革を迫る内容だった。

 推進会議のメンバーの一人は「個人的に全農は廃止してもいい」と明言する。民間団体である全農の経営に政府が介入することはできないにも関わらず、あえて全農に急伸的な改革を求めたのは、「1年でできないのは百も承知。こちらの本気度を示す狙いだった」(政府関係者)と話す。

 実は11日午前、小泉氏は自民党本部での全国女性議員政策研究会で講演し、党の農業改革について「相手方(=JA側)は気づいていないが、連日党内の実力者と夜ごはんを食べ、泣きついていることが全部耳に入っている」と胸を張り、党内調整に自信を示していた。小泉氏にとって規制改革推進会議の提言は、警戒していたJAだけでなく、改革の必要性で足並みを揃えていた身内からの不意打ちだったとも言える。

 この提言に対し、JAの支援を受ける議員は猛反発した。17日の農業関連合同会議では45人の議員が2時間以上にわたり「政府と全面対決だ」「地方創生に逆行」と声を荒げ、部屋には怒号が響き渡った。

 事態の沈静化に乗り出したのは二階俊博幹事長だった。21日にJAが開いた緊急集会で二階氏は「われわれと農業者が対立すると日本も党も持たない。戦う相手があれば一緒に戦いましょう」と規制改革会議の提言に反対の意向を示した。結局、党の示した農業改革は、生産資材の購買事業や農産物の買い取りに関しては年限は外され、農協の収益源である金融事業については言及すらなかった

 あるベテラン議員は「小泉氏の人気頼みで理想を追うのは結構だが、選挙で自民党が負けるリスクを彼は背負えるのか」と不快感を示す。7月の参院選で東北6県(いずれも改選数1)のうち5県で敗北するなど、農業改革へのアレルギーは根強い。

 

二階氏は25日、党の改革案が決まった直後、「われわれの背後には、たんぼで、山で、働いてくれている日本の多くの、本当にまじめな農民の方々が多くいらっしゃることを片時も忘れてはならない」と強調した。二階氏には政権の実績づくりのために農業改革を急げば、選挙で敗れ、党の基盤が根幹から揺るぎかねないとの判断があったと思われる。

 小泉氏は、党の改革提言について、「新しい組織に生まれ変わるつもりで」という全農改革に対する首相の言葉を盛り込み、目標数値を含めた年次計画を公表することを求めた部分を「僕が一番こだわった」と胸を張る。そして、「これが必ず、今後の自己改革を進める中でピン留めとして効いてくる」と断言する。

 だが、西川公也農林・食料戦略調査会長は党の案が固まった24日、記者団に全農改革の進捗状況の検証について「進行管理は農水省中心にやってほしいし、われわれは農林水産省と一緒に実行していくよう努力する」と明言した。

 全農関係者は「奥原次官が辞めればこちらのペースだ」とほくそ笑む。JA、農水省という選挙と経済政策でタッグを組んできた3者はいわば身内であり、全農の自己改革が実効性を伴うかは不透明だ。

 高い知名度を生かし、全農改革の必要性を国民に知らしめた小泉氏の功績は大きい。ただ、自民党の支援団体として長年蜜月関係にあるJAグループにメスを入れることは自民党にとって諸刃の矢だ。

 全農の外堀は着実に埋まったとはいえ、安倍政権のこれまでの農業改革と比べ今回の成果は乏しい印象は拭えない。小泉氏の国民的人気と改革への情熱を持ってしても、農業改革が一筋縄ではいかないことが明らかになった。

 農政新時代には「農業の現場が改革の旗手になる」(小泉氏)ことが欠かせない。改革の旗手という看板倒れに終わらないためにも、小泉氏には今回のタフな経験を生かし、JAや改革に慎重な農家にも理解を得る不断の努力を続けてほしい。

 

 

奥原正彦氏をググったら、「奥原正彦・小泉進次郎」という検索タイトルがあったのでクリックしたところこの記事が出てきました。

「人寄せパンダ」とか「出来レース」から、今年5月の舞台裏かと思って日付を二度見したのでした。

 

*10年前の私怨は今も続くらしい*

 

「強い農業」で初めて知った名前が出てきたもう一つの記事がありました。

こちらは10年前の話かと思ったらつい最近のことのようです。

 

小泉進次郎と「コメ既得権」の死闘が始まった・・・コメ価格高騰の元凶「ガチガチ族議員」の実名と、裏で進次郎を支える「財務省の企み」

(2025年6月11日、週刊現代より抜粋)

 

そして「抵抗勢力」との対決へ

 「小泉劇場」の再現となれば、世論の支持が一層高まり、次期首相の座が近づくジャンピングボードになる可能性もある。

 側近は最近、小泉農林部会長時代に農協改革に共に奔走した奥原正明・元農水事務次官接触し、アドバイスを求めたという。「改革派官僚」を自任する奥原氏は農林族やJAから天敵視される人物だけに、チーム小泉として参加することになれば、コメ政策をめぐるバトルは一気に本格化するだろう

 小泉氏は農相就任直前の「週刊現代」6月9日号のインタビューで「これだけコメの価格が高騰しているのに、生産者団体や農協などの既得権益に気を遣い、消費者目線を軽視してきた」と従来の政府・自民党の対応を批判。「コメ増産を訴えてきた石破首相は、今こそ消費者目線の農政改革を大胆に打ち出すべきだ」と進言していたが、今や自分が改革の先導役として矢面に立たされた格好だ。

 「(コメ高騰対策)は思う存分やってもらって構わないが、小泉さんが農業の現場を全て知っているわけではない。間違った改革をすれば、食の安全保障に影響するので、我々もよく見ておかなければならない」

森山氏をはじめ農林族は、小泉農相の暴走への警戒感を隠さない。国政選挙の集票マシーンで、農水官僚OBの天下り先の供給源ともなっているJAは、郵政における郵便局長会と並んで絶大な政治的影響力を持つ存在だ。

 小泉氏は父に倣って、これら抵抗勢力と徹底的に対決できるか。政治家として勝負の時を迎えているようだ。

 

この記事を見つけて読んだ数時間後、石破首相辞職のニュースが流れました。

その前日に菅元首相と小泉農相が官邸を訪ねて説得したとか。

たしか先週までは米の増産という歴史的な大転換を決めた石破首相を支えるようなことを言っていたのですけれど。

 

 

*この10年ほどの「強い農業」とか「農業改革」ってなんだろう*

 

この10年の「農業改革」とはなんだろうと思った時に、「株式化」なのだとわかりました。

 

協同組合というみんなで豊かになろうというシステムは嫌いで、「株式」という形で大きな資金に食い込もうとすることを目的としているのだ、と。

 

そうそう、医療でも10年ほど前に国民皆保険の見直しや「病院の株式会社化」、医療は利益を生む産業足り得るべきという考えを持つ人がいましたね。

 

民間の団体なのに、協同組合には政府が強い権限で介入する。

それが新しい資本主義とか骨太の本性のようで「自由」とは名ばかりだし、輸出に強い農業を目論む人と内需拡大とはつくづく相性が悪そうですね。

 

 

*おまけ*

 

「われわれの背後には、たんぼで、山で、働いてくれている日本の多くの、本当にまじめな農民の方々が多くいらっしゃることを片時も忘れてはならない」

感動する言葉ですね。

その方が同じことをその8年前に医療現場に向かって言ってくださっていたら。

 

そして政治家の皆さんが、全ての実業に対してそう思ってくださったら、そして私怨や私利に囚われることなく国民の生活の問題解決のために働いてくださったら、「〇〇族議員」なんて呼ばれずに済むことでしょう

 

 

 

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米のあれこれ 133 コメ現物市場「みらい米市場」

昨年夏にいきなりお米の価格が上がり始め棚からも消えてしまった時に、どうやってお米の価格が決められてどんな流通なのか全く知らなかったことを痛感しました。

その時にこちらの記事で引用したNHKのニュースにあるように、「主食用のコメの価格をめぐっては、JAなどの集荷業者と、卸売業者の相対で決まるのが主流」で、それに対して現物を扱わない「コメ先物取引があることを知りました。

 

*「現物市場開設」と「先物取引の必要性」*

 

最近、時間ができたのでコメ先物取引の議論の歴史を検索していろいろなニュースを読んでいます。

その中で、こんな記事を見つけました。

 

堂島取引所、コメ先物の本上場を申請 市場復活なるか

(2024年2月21日 ニッキン)

 

 「コメ先物市場復活」への議論が動き出した。堂島取引所は2月21日、農林水産省経済産業省に対し、米の指数先物商品の上場認可を申請。両省の審査を経て、6月にも認可結果が通知される。コメ先物市場の歴史は、2023年11月に取引終了となった新潟コシEXWをもって途絶えていた。足元で米の現物市場が誕生し、リスクヘッジの手段として先物取引の必要性が高まっていることが、本上場申請の背景にあるようだ

 同取引所は、認可された場合、新たなコメ先物市場を開設する。農水省が毎月公表する米の相対取引契約の平均価格をもとに算出した指数先物商品を組成し、同市場に上場させる考え。組成する商品の詳細は、正式な認可をもって公表する。市場参加者は、卸売業をはじめとした実需者や商品先物取引業者などが想定されている。同取引所の担当者は、「トレードの世界の中で我々が指標を提示することで、日本の米を世界へより広げることに貢献できる」と話す。

 

本上場不認可で上場廃止の過去

 

 同取引所による米先物取引の本上場申請は、21年7月以来となる。当時、大阪堂島商品取引所(現堂島取引所)は、「新潟コシ」など5銘柄を期限付きの試験上場で取引していた。取引継続には試験上場期間の延長申請が必要だったが、延長申請せずに本上場申請一本にかけた。

 恒久的に取引できるようになる「本上場」の申請は過去2回にわたり不認可となっていた。所管の農水省からは取引量の少なさが指摘されていたが、21年6月の1日平均出来高は約6000枚と過去最高を記録。当時の中塚一宏社長は、「認可されない理由がない」と自信を示していた。

 だが、同省から告げられたのは、「不認可」の通知。意見聴取の場では、取引量は基準を満たしたと判断されたものの、取引に参加する業者が伸びていないことなどが指摘された。結果として、試験上場で取引していたコメ先物銘柄は上場廃止の道を歩むことになった。

 

現物市場開設は追い風になるか

 

 今回、堂島取引所が本上場申請に踏み込んだ背景には、米の現物市場の存在がある。23年10月、オンライン上でオークションや価格交渉を通じて売買できる「みらい米市場」が開設。農協などを介さずに米が取引できる現物市場の出現により、先物取引の必要性が高まった。21年7月の本上場申請時とは異なる環境が、認可申請を後押しする材料となったようだ。

 農水省は24年1月、「米の将来価格に関する実務者勉強会」の取りまとめを発表。現物相対取引や現物市場取引と先物取引などを組み合わせて活用することで、「各事業者が将来の価格変動に対するリスク抑制を行う場合の選択肢が広がる」と明記した

 坂本哲志農林水産相は2月6日の記者会見で、同取引所から上場申請があった場合、「十分な取引量が見込めるか、生産・流通を円滑にするため必要かつ適当かといった点について、慎重に判断をしていかなければいけない」と述べた

(強調は引用者による)

 

コメの現物市場開設のために、現物を扱わないコメ先物取引が必要になる。

その目的は、国民の日常生活のためというよりは「日本のコメを世界へ広げる」ため。

 

私の理解を超えているのですが、こういう経緯で、一旦「完全撤退」としたコメ先物取引が、昨年8月に本上場されたのだと私の年表が少し正確になりました

 

 

*みらい米市場「際立つ取引低調ぶり」*

 

「23年10月、オンライン上でオークションや価格交渉を通じて売買できる『みらい米市場』が開設。農協などを介さずに米が取引できる現物市場」はどんなものなのだろうと検索すると、1年後にはかなり厳しい評価が書かれていました。

 

「市場として機能していない」 コメ現物市場「みらい米市場」開設1年 際立つ取引低調ぶり

(2024年10月17日、産経新聞

 

 コメの売り手と買い手がオンラインで取引する現物市場「みらい米市場」が開設されてから16日で1年を迎えた。しかし、この間に成立した取引は20件にも満たず、目標から乖離した低調ぶりが際立つ。今夏のコメ不足で十分な量のコメが出品されなかったことが主因ともされるが、専門家からは「市場として機能していない」といった厳しい指摘も聞かれる。

 

成立取引は目標の1%

 

 みらい米市場は、公益財団法人「流通経済研究所」を中心にコメ卸大手など16社が出資して開設された。JAグループなどの集荷団体と卸業者などの相対取引で決まることが多いコメの価格形成を透明化するため、生産コストではなく需給に応じた価格指標の構築を目標に、農林水産省が開設を主導した。取引は専用サイトを通じ、生産者などの売り手が最低価格や期限を決めてコメを出品し、卸・小売業者や外食産業者などが入札して購入する仕組みを整えた。

 市場開設当初は、約50の事業者が取引に参加するなど順調な立ち上がりを見せていた。ただ、市場参加の登録事業者数がこの1年間で190を超えたものの。初年度(法人を設立した令和5年8月〜6年6月末)に成立した取引はわずか12件(約200トン分)。6年10月16日までの成立分を合計しても20件に満たず、初年度の取引量は目標に掲げた2万トンの1%程度にとどまった。

 肥料などを極力使わない「特別栽培米」が1俵(60キログラム)2万〜2万5000円程度と一般的なコメの相対価格よりも4000円〜9000円も高く売られ、売り手と買い手のニーズが合致しないケースも目立った。低迷した原因として、市場の折笠俊輔社長は「今年の米不足でコメ需要が急増し、この市場に出回るコメが不足した」と説明する。「自治体などからコメのテストマーケティングとして、みらい米市場を活用したいとの問い合わせもある」と強調し、巻き返しを図る考えを示すが、公転の材料が乏しい状況に変わりはない。

 

コメ現物市場「必要性ない」

 

 なぜ、市場は機能しなかったのか。宇都宮大の小川真如助教(農業経済学)は、政府が強く関与する生産調整が根本的な原因だと分析する。小川氏は「生産調整によって米は基本的にすでに需給調整した状態で作られており、みらい米市場が目指す(需給に応じた)新たなコメの価格指標・相場の構築は難しく、不整合な部分がある」と説明する。

 小川氏は江戸時代のコメの現物市場と異なり、「売り手と買い手が自然と集まりたくなる場所になっていない」と、その"必要性のなさ”も訴える。「少量取引では、わざわざ取引量が少なく実績に乏しい『みらい米市場』に頼らなくても、より信頼できる取引手段が他にもある。大量取引では、そもそも現在の相対取引に対する優位性が見出せない」と厳しく指摘する。(西村利也)

(強調は引用者による)

 

 

 

*今までは夢のような主食の安定した取引手段だったのだ*

 

 

私はそんなグルメでもないので、そこそこの値段のお米を買っていた時もほぼハズレがなく美味しかったし、最近はもっぱらパックご飯で、有名なメーカーでもなくPB商品ですがほんと美味しいです。

何よりも、非常時でもお米を探し回って農村まで買い出しにいかなくても、近くの店頭に年中安定した価格で在庫もほぼ途切れることなくあったし、さまざまな価格帯の国産米を自由に買えたこと、そしてJAを通さなくても直接農家さんとやりとりしたい人たちのための自由もできた、なんとすごいことでしょう。

そしてわずか30年ほどで、海外産のお米も普通に見かけるようになり、消費者のさまざまな選択ができるようになっていました。

あとは、農業から安定した収入を得られるように、そしてどの国の生産者も輸出入のシステムの中で搾取されないように国民みんなで知恵を出し合うことでしょうか。

私たちの生活の根幹である食糧を生み出す仕事ですからね。

 

この1年間で色々とお米の流通を勉強するようになって、生産から冷温保存、加工そして流通まで、本当にすばらしいことが実現していた時代だったのだとしみじみ感謝が湧いてきました。

 

「政府が強く関与する生産調整が(みらい米市場が機能しなかった)根本的な原因」と書かれていますが、それはすでに「より信頼できる手段」で生産者から消費者までつながっていたからではないか、そう思えてきました。

 

必要とされていなかったのに、なぜか農林水産省はこの現物市場を開設し、そのために「先物取引の必要性が高まった」と本上場を認めた。

誰もこれに触れないし、責任も追及しようとはしないのも腑におちないですね。

 

 

今までの夢のようだった安定したお米の流通手段を失うことなく、さらに生産者の方々にもきちんと対価が支払われる方法があれば良いのに。

失って初めて知ることになっているような、そんな昨今ですね。

 

 

 

 

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