5月初旬の筑後川から遠賀(おんが)川の散歩の記録だったのに、うきは市の長野水神社にあった銅像の碑文からすっかり現代へと寄り道をしてしまいました。
さて、2003年(平成15)に建立された「長野水神社の由来」とは別に、大きな鳥居のそばに大石水道の「守護神」である旨が書かれた「由緒」の説明がありました。
もう少しこの灌漑用水の歴史を知りたいなと検索したら、1984年の農業土木学会誌に詳細が書かれていました。沿革の詳しい年表から当時の人たちの様子、さまざまな困難をどう克服したかなど、圧倒される記録でした。6ページに及ぶものですが、転記しておこうと思います。
「農業土木を支えてきた人々 大石長野水道の開削と五庄屋」
Ⅰ. はじめに
大石長野水道は、九州の屋根九重山・阿蘇外輪山の熊本県阿蘇郡南小国町にその源を発し、大分県日田盆地において玖珠川と合流し大河となって筑後・佐賀平野を緩やかに流れ有明海に注ぐ九州第一の河川、筑後川のほぼ中流部、福岡・大分県両県の境にある夜明ダムから、下流5kmほどの地点にある大石堰から左岸側に取水している用水路である。
用水は、2門の取り入れ口から取水され、大石導水路を経て、北・南幹線用水路に分かれ、さらに流下して、雲雀幹線用水路等に分かれ、大石堰土地改良区の2,2284haを感慨しており、その水路総延長は148kmに及んでいる。
大石堰本体は度重なる水害を受けながらも、その都度修復されてきたが、昭和28年6月に襲った大水害によって壊滅する大きな打撃を受けた。この災害の復旧には、技術の粋が集められ、きそこうじに潜函工を施し、河床洗掘りに対する安全を図り、また、堰体表面を流石による衝撃から防止するため、堰頂部に角切石張工を施す等、万全の復旧工事がなされ、その後の洪水にはびくともせず今日に至っている。
用水路については、昭和26年度から県営灌漑排水事業で、漏水防止を主体としたコンクリートライニングを実施しているが、ほかは小規模な部分改修で、現在の水路は随所に築造当時の面影を残している。
近年、生活水準の向上、多様化等による水需要の増に迫られ、とくに筑後川水系における水資源の開発が強く叫ばれているが、異常気象による極端な筑後川流量の減による農業用水の不足を見ることはあっても、大石堰掛りでは他地域でみられるような干ばつ被害は少ない。
また、用水路が途中家並の中を流れており、地域の農地を潤すばかりでなく地域住民の生活とも切り離せないものとなっている。
今をさかのぼる320年前の夏梅村庄屋栗林次兵衛たち5庄屋の提唱による水道開削に対して地域住民の感謝の気持ちは限りない。5庄屋に対しては、有馬藩、あるいは県から賞詞、懸賞が与えられているが、大石導水路の横に建てられている長野水神社は、明治15年10月に創建され「水波賣乃神(みずはのめのかみ)」を祭ったものであるが、堰築の守護神としてひそかに首唱5庄屋の霊を合わせ祭ったと言われていたが、大正元年10月29日県知事の許可を受け、長野水神社の祭神として正式に合祀されている。毎年4月8日には、水神祭がとり行われ、その年の方策と水の恵を祈る人でにぎわいを見せている。
Ⅱ. 疏水請願と五庄屋
筑後川沿岸の浮羽郡地方は、今では地味豊で水に恵まれ水田が連なり、極度な干ばつ年を除き農家は水の心配もなく営農にいそしむことができているが、今からおよそ320年前までは、水利施設が不備で、水田は低い湿地帯だけに限られ、そのうえ干ばつや水害を受けやすい水田が多く、平野の大部分は藪や林におおわれ、全く耕作に適さなかった地帯であった。このため住民は、畑作を主として生計を立てていたらしく、このような状態は筑後川沿岸だけに限られていたことではなく、大きな川に沿った地域で水利工事の行われていなかったころは、どこでも同じ状態であった。
生葉郡包末村(現浮羽郡吉井町千年)から西、竹野郡との境にある部落は、筑後川のほとりにありながら水利の便が悪く、水田が少なく中には全く水田のない部落さえあって、農民の困苦はひどいものであった。
やむなく祖先伝来の土地を見限って、他に安住の地を求めて移る者さえあった。当時の文書に亡所とあるのはこれをいったものである。
このような状況に、夏梅村庄屋栗林次兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、管村庄屋猪山作之丞の5人の庄屋(現吉井町)は心を痛め、時々集まっては、目の前に流れている筑後川の水をなんとかしてこの平野に引く工夫はないかと協議した。その結果得られた案は、ここから10kmばかり上流の左岸長瀬(現浮羽町)の入江から水を取入れることにして、そこに水門を設け溝を掘り川水を引くことであった。そして、それが成功すれば畑を水田にし、今までの水田の水不足を補うことができ、農民の生活は楽になり、亡所するものもなくなり、ひいては有馬藩の税収も大いに増すことになるであろうと考えた。
寛文3年(1663年)の夏は日照り続きで、5庄屋はいよいよ水利工事の急を痛感した。その年の秋、郡奉行所高村権内が郡内を見まわり、5人のうちの1人高田村の庄屋山下助左衛門の家に泊まった。5庄屋はこの時とばかりうちそろって奉行の前に出て、農民の苦しんでいる状況を訴え、かねての計画案を申し述べ、是非ともお許しを得たいと熱心に願い出た。一部始終を聞き終わった郡奉行は、「よい思いつきではあるが、事はまことに重大である。しかし藩の財政にも大きく響く問題であるから、お取上げにならないものでもあるまい。その方共の申立ては、まだ机上の空論に過ぎないように思われるので、実地について調査検討し、設計書見積書を作って願出るように」と励ました。
そこで5庄屋は、今後どんな困難にぶつかろうとも命がけでこの願いを貫きとおすことを固く申し合わせ、誓いの詞をしたため血判を押して一大決心のほどを表した。その後、調査を急ぎ溝の間数、幅、深さ、つぶれ地、所要人夫等、詳細な設計書、水路図、見積書を作り、大庄屋田代又左衛門に申出て、藩庁に出願する手続きをしようとしたやさき、このことを伝え聞いた同じ田代組の支配下にあった金本村庄屋金子次郎兵衛等の7カ村五人の庄屋が、われわれの村も是非これに加えてもらいたいと申し出た。しかし、栗林次兵衛たち5庄屋は、われわれは死を期してやっていることであるから、他人に迷惑をかけるのは不本意であるときっぱりこれを断ったが、これらの村々とても水の欲しさにかわりはないので、前の5庄屋の村だけに水を引くことは身勝手すぎるとして、逆に出願阻止運動をはじめ、一時は険悪な空気がただよった。しかし、田代又左衛門が、この人々の間にたちいろいろと調停に務めたので、やっと両方の気持ちが解けた。その時、竹野郡千代久村しょうら大熊太兵衛も無理に加入を申し出た。こうして結局13カ村11庄屋は、寛文3年(1663年)9月24日に水道工事請願書に名を連ね、設計書、水路図を添えて田代大庄屋の奥書を付け、高村郡奉行を経て久留米の藩庁に願い出た。この時の藩主は藩祖有馬豊から第4代目の頼利で、当時未だ12歳の幼君であった。
Ⅲ. 疏水反対
やれやれと思う間もなく、思いがけない大難題が起こった。水道筋に当たる布留川(現浮羽郡)等11カ村の庄屋がそろって異議を申立て、大石村から溝を掘って筑後川の水を引き入れたならば、平素は良いとしても、いったん大洪水にあった時は、われわれの村の田畑は多大の損害を受ける危険にさらされると主張した。これに溝口等の3カ村の庄屋も同調して郡内の騒ぎはいよいよ大きくなった。高村郡奉行は実地調査のため現地におもむき、この争いと全く無関係の東原口村の庄屋国武太兵衛の家に泊まった。古川、長野、福久、角間、小江5カ村の庄屋が、反対派の代表となって郡奉行の宿に出願し、猛烈な反対陳情を行った。
出願11庄屋はこれに対応して、「設計通り工事を進めても、決して損害は及ぼさないと信ずる。万一損害を与えた場合は、誓ってわれわれが責任を負い、どんなお仕置を受けてもいとわない」と書面で弁明したので、反対派も手の下しようがなくなった。さらに郡奉行国友彦太夫が実地調査に来た。藩論は工事許可に傾いてはいたが、このまれな大事業を行うに当たって、もし失敗でもしたら、物笑いの種となって藩の威信にもかかわるので、軽々しくは許されず、幾度も首唱5庄屋を呼び出した。召し出される度に、かねて命がけの覚悟でいるので何のはばかるところもなく、堂々と所信を述べて目的貫徹に努めた。高村郡奉行からも度々催促したが、藩の態度は依然として決まらず、ちょうどその時普請奉行山村源太夫の郡内見廻りがあったので、5庄屋はこれまでの計画についての実地調査を願った。源太夫は親しく調査の上帰城して、詳しくこれを重臣有馬内記に報告した。内記は源太夫の外に重臣馬淵嘉兵衛を加えて、3人で協議を行なった。
こうしてやっと藩論が動き、治水工事に最も詳しい普請奉行、丹波頼母重次(にわたのむしげつぐ)を派遣して実地調査に当たらせることになった。重次は大工棟梁平三郎をつれて水路の実測をし、帰藩して「こんな大事業をとても庄屋などの手で成し遂げ得るものではない。よろしく藩の事業とされたい」との意見を上申した。
この丹波頼母重次は、河内の城主で2万石を領した新左衛門の子孫で、浪々の身でいた37歳の年にその人物を見込んで、禄高400石で有馬家初代の豊氏に召し抱えられている。重次の人となりは、豪まいで機略に富み、建築土木の仕事に精通していたので、普請奉行に抜てきされた。今日の土木部長といったような役である。功を重ねて次第に加増され、後には1,500石となっている。
Ⅳ. 工事許可
いよいよ藩営として着工に決定。寛文3年(1663年)12月、11庄屋の切なる願いはやっと聞届けられた。許可と同時に藩庁から「今度の水路工事について、その道筋に当たる木や竹の伐り払い、あるいは家屋の取除き等に対しては、絶対に異議申立てを許さない」という厳重な命令が布達された。
郡奉行は、まず11庄屋を呼出し「願書の設計に基づいて水路を掘り終えたあかつき、もし水が流れて来なかったならば、お前たちの責任はどうしても逃れることはできない。不幸にして左様な事態に立至ったならば、気の毒ながら出願の11庄屋全部、はりつけの極刑に処せられることは必定である。今までの断言から察しても、その場に及んでもよもや不服はあるまい。どうじゃ」と決めつけた。この時首唱5庄屋が進み出て、「不幸にして不成功に終わり、すべてが無駄骨折りとなるようなことがありましたならば、どうぞ私共を厳罰に処して世間にお示しください。甘んじて刑罰に服し、御上や世の人々にお詫びいたします」と覚悟のほどを示して固く誓った。それから郡奉行の指図で準備にかかり、夏梅むら栗林次兵衛ほか3人の庄屋は大石村に、その他は各所に詰めることとなった。人夫は上3郡(生葉、竹の、山本郡)から出し、1日500人づつとし、願村からは別に自費で出夫した。人夫のまかないや、資材調達の諸経費の出納は、願村の庄屋がその処理に当たった。
Ⅴ. 着工
丹羽頼母は藩命によって最高監督者となり、郡奉行国友彦太夫、下奉行青沼市左衛門ほか7名と、御鉄砲衆の足軽30人を引き連れて現地に入り、長野等に分宿した。寛文4年(1664年)正月11日に工事を起こした。同時に大石村弓立神社神官安達作之丞は、3日2夜にわたる工事成就の祈願祭執行を命ぜられ、おごそかにこれを勤めた。
工事のあらましは、長瀬の下の入江から下流に向かって溝を掘り、取入口に水門を築いて扉を設け、水量の調節をはかる。溝幅は約2間で、西へ下ること1,650間、長野で隈上川に合流する。その間に早川その他の小さな流れを縫い、2カ所に放水路を設けた。早川との合流点には、中央に幅2間3合、高さ4尺の板堰を設け、その左右に各幅3間3合、長さ6間半の石堰兼放水路を設けて水量を調節し、また、この合流点のすぐ下流の本溝にも板の仮堰がされるようにし、本溝さらえや修理の時だけ使用するようになっている。
大石から流れ下った水はいったん隈上川に注ぎ、二つの水が合流して、西岸に設けられた水門で調節され、西の方に流れ下って行く。隈上川はいつも水量は少ないが、一度雨が降ると急に増水して水勢が強くなる。そのため平水の時は、その水も利用できるように低い堰を設けて、増水時の余水は堰を越えて筑後川に放水されるようになっている。長野の水門をくぐった水は、筑後川左岸堤防に沿って西下すること470間、角間村で南北両幹線水路に分かれる。この地点を、後世の人は水をはかり分ける意味で角間天秤と呼んでいる。
監督に当たった作事方丹羽頼母は見ただけでもぞっとするような5人分のはりつけ道具を取り寄せて、長野村の出入り口の人目につきやすい場所に建て並べ、万一工事が不成功に終わったならば、必ず5庄屋を刑罰にするぞという気勢を示した。人々は、これに激励されて、「庄屋どんを殺すな」とばかり、土石の打起し、運搬と国幹の最中汗みずくで働いた。そのため工事は意外にはかどり、予定より早く寛文4年3月中旬には見事に目的を達成した。灌漑面積は、生葉郡で70町歩余り、竹野郡で5町6畝1歩に及んでいる。起工から竣工までわずかに60日余り、人夫はおよそ延4万人を要した。
願出村11庄屋はいうまでもなく、農民はこおどりし、お互いに手を取り肩を抱き、涙を流して喜び合った。早速郡奉行の命令で、5個のはりつけ台は、人々の喜びどよめく中で焼き捨てられた。絶えず人々の心をおどかしたこの不吉な刑具も、悪魔の舌のような不気味な炎をあげて焼け失せた。
古老の話によると、用水路を大石から西に掘り進んで、早川谷を横切ることになった時、ためしに水を新溝に注ぎ込んでみたところ、水は大石の方に向かって非常な勢いで逆流し始めたので人々は驚いた。中でも5庄屋は色を失い、そのしおれ方は、はたで見るのも気の毒なほどであった。その晩からこっそりと志波の金比羅様に丑の刻参りを初めて、工事の成功を祈ったということである。
また、こんな話もある。工事が終わって通水式をしたところが、水門からは十分水が流れ込んでいるのに、新溝の漏水がひどくてやっと400間ほど流れると、もう水は全くつきてしまう有様に、5庄屋は落胆して三度の食事ものどを通らず、夜もろくに眠れないほど心配した。しかし、数日して大雨が降り川の水が増し、新溝も十分に潤い、やっと水が流れ始め5庄屋は救われた、と。
寛文4年の秋、郡奉行は清宗村庄屋本松平右衛門を呼び、この用水によって収穫の増加した石高調査を命じた。平右衛門は早速調査をし、報告した。
Ⅵ. 拡張工事
今まで畑が主であったこの地方に、果たして筑後川から水が弾けるがどうかは久しい間の疑問であったが、いったんこうして解決を見た後は、大いに水田拡張の気運が高まり、寛文4年の秋には、竹野郡古賀津留(津留は水田の意味)の今泉村庄屋日野九郎右衛門ほか8カ村の庄屋が結束して、大石水道および用水路の拡張工事を出願した。
藩庁では、普請奉行岡田弥五右衛門と高村権内とを遣わして、実地調査に当たらせた。これを伝え聞いてさらに、包末村庄屋宇野市兵衛等4カ村の庄屋が、桜馬場溝、兼広溝を掘らせてもらいたいと、相次いで出願したので、両奉行はどうしたものかと評議した。そこに先に願い出ていた、今泉村の庄屋たち9カ村8庄屋から「後から願い出た包末村等5カ村の庄屋は、最初この水道工事の出願があった時、猛烈な反対をした人たちである。古賀津留方面の灌漑ができない前には、決してお許しにならないように願います」と強硬な反対を示した。しかし、同じ藩民を等しく潤すことであり、藩の財政を殖やすことになるからと、どちらも許可された。
藩からは前回と同様に丹波頼母、高村権内、国友彦太夫以下奉行小頭8名と、銃卒30余名を現場に派遣し、寛文5年(1665年)正月14日に第2期工事を起こした。願村の庄屋はもちろん、生葉郡内全庄屋を呼び集めて、工事の部署を割当て監督を命じた。人夫も前回と同じ1日500人ずつを総郡から出すことになった。国友彦太夫は長野にあって万事を指揮し、首唱5庄屋農地、清宗村本松平右衛門と、須賀村猪山作之丞とは大石で水門の改造についての意見を述べる役に当たり、夏梅村栗林次兵衛、高田村山下助左衛門、今竹村重富平左衛門は顧問になるとともに、願村出夫の監督に当たった。願村13諸王やはできる限り多量の水を引きたいと設計を立てた。もとの水門は大石も長野も1門であったのを2門にしてその扉は双開式とした。
水門から下流の溝は、全線2倍の広さに拡張された。水門に用いられた石材の主要なものは、藩命によって大野原、山北、隈上、朝田方面に散在していた古墳から運んで来た。この時多くの古墳が壊されたことは、考古学上惜しまれることであったが、国利民福の目的のためには当時としてはやむを得ない措置であろう。
当時の控帳に工事の苦労がしのばれる。「水道かぶせ石2枚吉井町へ石橋かこひ有之を引寄候事」とあり、鉄筋コンクリートのなかった当時、水路のかぶせ医師に使う平らな自然石の巨大なものになると、そうざらにあるものではなく、方々捜しまわって石橋に使ってある石材まで徴発して遠方から運んで来たことがわかる。また「柱石3本、万力石1本百人宛にて引寄申候事」と搬出には藩の材木運搬掛久右衛門、八郎右衛門の2人が当たり、大石水道へは原口を通り、長野水道へは隈上川の中を引いて来たが、いかに苦労したかは想像以上であろう。
こうして、その年の4月に竣工し、、元に数倍する水が得られ畑田(畑を水田に転換)400~500町歩を灌漑することができるようになった。寛文5年4月、重臣有馬内記は郡奉行の案内で、水道工事の現況検閲を行い高田村庄屋山下助左衛門の宅に休憩した。その時5庄屋を呼び、「水道工事が見事に成功して藩の財政に寄与し、農村振興上好成績を収め得たことは満足の至りである」と賞詞を与えた。
寛文6年(1666年)の春には、雲雀津留各村から「畑田に灌漑したいので、溝筋を延ばして水を分けていただきたい」と請願があり、翌寛文7年(1677年)には、恵利津留の村々からも分水の請願があり拡散工事がなされ、今日の大石堰土地改良区が管理している施設規模となっている。
Ⅶ. 大石堰築造
筑後川本流に堰を築造するのは、当時としては極めて困難な大事業であったのに、その工事の状況等を示す記録がない。大工事の場合はたいてい工事責任者、人夫、経費、資材等を記録してあるものであるが、大石堰においては発見されていない。後年、寛保3年(1743年)に「3月10人引きの山石400個を簗瀬の東北端岸下の空洞所へ充填したり」という記録があり、それにしても放り込んだ石も莫大な数であったと思われる。
大石堰は、延宝2年(1674年)生葉郡13カ村の願によって、簗瀬堰が築造された。大石、古川二村の対岸は筑前領林田村で、その間を横断している簗瀬堰(昭和28年6月26日の大水害で決壊し、昭和31年1月復旧され全く面目を一新し以前の面影はほとんどなくなっている)は、ながさ219間、仮船通しの長さ108間、本船通しの長さ104間、西梁の手長さ18間、東梁の手長さ20間、堰の基点から仮船通しの西の端までが4間2合、仮船通し口の幅6間8合、中石垣かが63間5合、本船通し口の幅が5間5ごう、そこから西梁の手までが33間5合、西梁の手から詰枠の突端までが45間5合、堰詰枠が60間となっている。平水の時は堰面は水に没しモグリ越流となる。昭和4年ごろの実測によると、仮船通し以東の面積は5町5反24歩である。延宝当時の数字はわからないが、後の時代に拡張されたことも考えられる。
大石堰が面目を新たにし、今日の姿をしているのは、昭和28年水害の復旧工事によるものである。その復旧工事の経過と概要は次のとおりである。
昭和29年1月11日に起工式が挙行され、工事は福岡県営事業として実施された。工事施工は大林組と生葉土木工興業が行ったが、渇水期に工事を進め、雨期前に終わらせるため工事場は不夜城の観を呈し、昼夜兼行の突貫工事が進められた。
工事は、昭和30年4月までに主要部分を完了したが、全体の完了を30年度末としていた。昭和31年1月12日に竣工式が挙行され、午前10時に大石水神社前で奉告祭が行われ、来ひんとして5庄屋遺族も出席した。県からは工事経過が報告され、堰体は種々検討の結果、災害前の工法を根本的に変えた重力式コンクリートとして設計され、事業費は3億4千万円で、堰長208m、堰高3m、堰幅70m、船通し2か所、魚道1か所、護床工7,500㎡、護岸工274m、潜函工18基(190m)で、護床工はコンクリートブロック打込みの木工沈床工法を採った。本堰の特徴としては被災の原因が井堰下流の河床低下にたいしても安全な工法を採った。また、堰体表面を流石、流木の衝撃被害から護るため、堰体に角切石張工2,300㎡を施した。工事は、幸いに天候にも恵まれ、関係者の努力により予定通りに工事が進行したが、これは5庄屋の御守護があったのではないかと報告は結んでいる。
大石長野水道に関わる主な事項を掲げれば、表-1のとおりである。(*表は略)
Ⅷ. おわりに
大石用水は、筑後川中流域でも上流に位置するため、下流側の他の用水掛りに比べて有利といえるが、これまで述べた首唱5庄屋たち先人の偉業と、これを引き継ぎ今日まで守り育ててきた人々の労苦は、なみたいていのものではなかったことが手に取るようにわかる。
筑後川水系の水開発が進み、水資源が有限なものと認識されつつある現在、苦労して確保した水の有効利用をはかることは、何をおいても重要なことである。
昭和56年度から着手されている国営筑後川中流域で大石堰関係の用水路が整備されることになっているが、まだ緒についたばかりである。事業に対する地元の期待は大きく今日の行財政厳しいさ中であるが、筑後川中流地区の一日も早い完成を祈り、筆を置きたい。
福岡県筑後川水系農地開発事務所 西村昭造(しょうぞう)氏
「農業土木学会誌 第52巻 第10号」
(強調は引用者による)
地図で見つけた場所になんとなく惹かれて出かけたのですが、一本の用水路に壮絶な歴史がありました。
住民の生活や事業に対する責任は、現代とは比べ物にならないほど重いものだったのでしょうか。
そして1984年にこれが書かれたようですが、その13年後に国営事業が竣工した時の碑文が、長野水神社にあったこととつながりました。
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