よだかの星的問題
原作は⇒よだかの星 宮沢賢治
普通はこう⇒宮沢賢治の「よだかのほし」を読んで - BIGLOBEなんでも相談室
ワタシ的にはというか、ティーンエージのころのよだかの星的問題としては、「生きている、動物として存在しているのがたまらなく不快・不愉快」問題だった。
生きているのが残酷だし、生そのもの意志そのものが残酷。
もっとも残酷を最小限に生きるのが倫理というのはあたまではわかっていても、そこまでして生きるかオレ?青年だった。
私は宮沢賢治はあまり好きではないのだけど、この手のよだかの星的問題は、人間の倫理性にとってどうしようもない問題かな。
どうでもいいが、昨日の天地人で、兼次と主君が秀吉に殺害されたら義のために上杉家は兵を起こし、永久の義の名声を残せ、うるうるというのがあって、しょーもねーなあ、いつまで大東亜戦争やってんだおめーらと思った。
しかし、このうるうる心性もなにか関連はあるのだろう。
自分が生きていたのは、死が怖かったことと、死を美化するのをやめたこと。よだかの星的問題は死の美化に超越を持ち込むあたりがきわめて不愉快、と変わった。
逆にキリスト教がしみじみしてきたのは、主イエス・キリストは惨めそのものの死であったなということ。あれに栄光を読む信仰者はいるし、信仰者というのはそういうものかもしれないが、イエスの死のみじめさ、神から見放された絶望というのは、私にとっては生きるかな、という力になった。