物を書くということと、書いて食うということについては
私は書きたくない、というのが正直なところ。
書くというのは、私にとっては、ごにょごにょ。
ブログとか日記を書くということは、私にとっては、ま、特に考えないでそうしている。
この手の物は誰かが読むというものではなく、自分という人間が書かずにはいられないお病気みたいなもので、そんなもの。でも、まったく読む人のことを考えてないわけではない。
で、生活というのは、つまり、働くということは、これは、難しいね。
具を作って人様の役に立つか、ずるこく人様の上前をはねるか、その2つだけ。
これを書くということに繋げるというのは、ある面で原則論で言うなら、好きなことで食えるということでもあるのだろうけど、ま、難しい。実現が難しいというのではなくて、それをどう考えるかが難しい。
幸運とか才能とかあるといいのでしょうけどね。
ありますかね?
努力とかで補えるものでしょうかね? ま、わかんないです。
漱石とか読んでいて、それから大正、昭和、戦後の歴史を見ていると、文壇というか出版文化というが突出した時代だったし、それに対して金銭的なフィードバックが効いた。これが未だに残っているといえば残っている。が、これに被さるように電通ビジネスというか、テレビというメディアの広告っていう感じで資本主義の寄生虫ビジネスがうまく動いてビックマネーが動くようになった。
現在はその第三の転換期なんだろうけど、金銭的な部分がうまく動かない。ビジネスモデルがうまくいかない。先進的な米国でもそうではないかな。PDF出版とか成功しているふうでもないし。
平野啓一郎や綿矢りさとか今後食っていけるのでしょうか? っていうか、彼ら自身がその名を出版ビジネスのメディア化されていることを知らないわけもないでしょう。で、不幸なことにその彼らが文学とはなにかをまったく直感しないわけではない。
で、だ。
この転換期というのは、まあ、そういう時代だよ。書くというのと食えるというのはそううまいビジネスでもない。作家になるかテレビで広告の上澄み飲むかのほうが道路はできている。で、それが仕事と思って進む人がいてもいいのではないか。
ただ、書くという人間は、なんかもっと、どろっというか人間に本質的な何かなんで、そういう部分の人間というのは、最低生きて書いていればいいのだと思う。
うまく言えないけど、人いうのは人なんで、べたに生きているわけで、書くというのはそのべた性のなかで本当は問われる。
でも、なかなか書く人はそこがわかんないんだよね。
もっと孤独なもんだよ。
運・不運とか才能・凡庸とか、そういう差異をぶっとばすくらい孤独なもの。死と笑いの中間に爆走したりうずくまったりする何か。