社会というのは必然的に「進歩」していくものだ……と、中学生くらいの時は考えていました。
より「良い」社会制度は、より「悪い」社会制度よりも人々に支持され、競争力が強いので、紆余曲折はあるにせよ、長期的には人類社会は進歩していくはずだ、と。
民主国家でなくたって、民衆から支持されない政府はやがて覆るものだから……という。
まあ、素朴な社会進化論というか。
当時考えていた「良い」社会というのは、民主的で、平等で、人権を重んじる……、いや、今だってそれが理想の社会だと思ってはいますが。
さてしかし、高校時代にある本を読んだせいで、そういう楽観的だった自分が不安を抱くようになりました。
と言っても、社会学とかの本ではなくてですね。
この本の、「不意討ちバッタ」のエピソードです。
- 作者: 中村八束,不破泰
- 出版社/メーカー: 昭晃堂
- 発売日: 1991/03
- メディア: 単行本
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簡単に内容を紹介すると、タイトルこそ「コンピュータウイルス」ですが、ウイルスというより人工生命(AL)に関する議論が中心になっている気がします。
と言うか、コンピュータウイルスが、いずれ自己増殖・進化する一種の野良ALになるだろう、と考えているというか。
ともあれ、文系高校生の自分が本屋で立ち読みできたのだから、一般向けの本と言って良かろうと思います。
(もっとも、今となっては内容的に古いところが多いでしょうが)
さて、「不意討ちバッタ」というのは、この本で紹介されているALの一種、簡単な遺伝的アルゴリズムの実験です。
ざっとルールを説明しますが、遺伝的アルゴリズムとかに詳しい方には退屈かも知れませんので、そういう方は読み飛ばしてください。
*** ルール説明ここから ***
まず、マスで仕切られた2次元平面の上に、たくさんのバッタ(を表す記号)を配置します。
記号は「< > ^ v」の4種で、「バッタがどちらを向いているか」を表現しています。
各バッタは、ターンごとに「1歩前進・2歩前進・右旋回・左旋回・後ろ向き」のどれかの行動をとることができます。
(「2歩前進」というオプションがあるのが、「バッタ」と呼ぶ由来なんだと思います)
そして、あるバッタが、別なバッタの側面、または後方からぶつかった時、相手を「食べた」ことになり、食べられた方は消滅、食べた方は複数の「子孫」を残します。
各バッタは、自分を中心に周囲25マスの視界(下の図で明るくなっている部分)を有していて、直近のバッタが、自分から見てどの位置に、どの向きにいるかを認識します。
で、各バッタは、相手の向きや位置関係のパターンに対して「このような状況ではこのように行動する」という行動指針を“遺伝情報”として持っています。
「子孫」にはそれが引き継がれるわけです。
例えば上の図で、中央の青いバッタには、左上のバッタが見えています。
(認識するのは直近の一体だけらしい)
ここで「2歩前進」を選ぶと、相手に脇腹を襲われる危険があるので、それは自殺行為と言えます。
1歩前進して、相手を待ち伏せしても良いですが、そこまで相手が間抜けかどうか……?
最初、遺伝情報はランダムですから、各バッタは間抜けきわまる行動をとります。
しかし、「子孫」を残す際、遺伝情報は一定の確率で“突然変異”を起こし、親のものと微妙に書き変わります。
これによって、よりマシな行動をする個体が生き残り、徐々に賢い戦略を持ったバッタが増えていくわけです。
*** ルール説明ここまで ***
さて。
本を読んでいると、バッタが急激に「賢く」なっていく様や、ある戦略が発明されて普及した後、それに対抗する戦略が発明されるとともに衰えていく話など、なかなか面白いのですが。
しかし、高校生だった当時、強く印象に残ったのは、この章の最後の一節でした。
ある状況の下ではまことに面白くない動きが見られる。
隅の方に密度濃く群れたグループができ、完全に周期的な動きをし、そこに突入したバッタは全て殺し、また自己の中から出てきた変異種が変わった動きをするとそれも殺してしまうのだ(たまに群れを離れるものがあるとたちまち食べられてしまうほど1匹1匹は弱いのだが……)。
完全に統制された、同じ動きをする集団。
他所者や異端者は直ちに排除され、変化は起こりえない……。
それはいわば「ディストピアは誕生しうる」という、数学的証明のように思えたのです。
もちろん、これは社会学的な意図を持って行われた実験ではありません。
たかが文系高校生の感想ですから、我ながらツッコミどころも多々あります。
例えば、この実験では遺伝情報のパターンがかなり限られているので、そもそも「無限の進化」が可能なわけではない……いずれにせよ必ずどこかで頭打ちになってしまうのは必然だ、とか。
あるいは、仮に件の状況がディストピア的だとして、それでは互いに「不意討ち」を狙って争い合う状態は幸せなのか? 群れで行動するバッタこそ、「社会性」を獲得した、進歩したバッタなのではないか?
……というような。
しかし、ともあれ、同じルールの下で「バッタ」を動かしても、表れてくる状況は毎回異なる……つまり、「必然的」な結果など存在しないのは確かなわけです。
であるならば、仮に、人類社会とその歴史が「社会進化論」的に振る舞い、「良い」社会が「悪い」社会を淘汰する傾向が現実にあるとしても、必ずしも「社会改良は果てしなく続いていく」「時間の経過とともに、より理想的な社会が誕生する」……という結果になるとは限らないのではないか……?
遺伝的アルゴリズムなどの分野では、「狭い観測範囲では最適のように見えるが、本当に最適ではない解」を「局所最適解」というのだそうです。
プログラムは(そして我々も)「最適」な解が何であるかを事前に知っているわけではなく、いわば手探りで山を登っていくようにして「よりマシな答え」を探っていきます。
しかし、「手探り」できる範囲によりマシな解答がないからといって、現状が最善とは限りません。
上の図の人々は、自分たちのいる地点が「最高」だと信じています。
右に移動しても左に移動しても、そこより下がってしまうからです。
大局的に見れば、彼らのいる地点が「最高」ではないことは明らかです。
でも実際には、誰もそのような「神の視点」を有してはいません。
だから、一旦この状況に陥ると、そこから抜け出すのは非常に難しいのだそうです。
「ディストピア」というものが、このような、いわば社会進化論的な世界の「局所最適解」だとしたら、私たちの住む世界がそこに陥ってしまう、そしてそこから抜け出せなくなってしまう可能性は、常にあるのではないか……と。
こうして、高校時代に立ち読みした本のお陰で(本屋さんすみません、定価2060円(本体2000円)は、高校時代の私には大金でした……)、
「長期的に見れば必ず世の中は良くなっていくよ」
と、素朴に信じることはできなくなってしまったのです。
そして、遠い将来、あるいは今まさに、日本は(あるいは世界は)、脱出不能な「局所最適解」への道を歩みつつあるのではないか、という怖れが頭を離れません。
そのような事態を避けるにはどうすればいいのか?
それはもちろん、私たち一人一人の市民が、政治に関心を持ち、権力に対する監視を怠らず……などと言えば模範的なのかも知れません。
でも本当にそうなのでしょうか。
結局、我々は「バッタ」の一匹に過ぎません。
その限られた判断力では、総体としての人類社会の行く末がどうであるかなど知り得ようはずもないのではないか?
一匹のバッタが行動をちょっと変えたところで、社会進化の行く末に影響などない(あるいは、大きな影響を与えるとしても、それがどう転ぶかはわからない)のではないか……?
と、怪しまれてならないのです。
先日、ロイターの“コラム:プーチン大統領が見据える「新世界秩序」”なる記事を読みました。
http://jp.reuters.com/article/jp_column/idJPTYEA2R06220140328
筆者、Nina Khrushcheva氏は、「米ニューヨークにあるニュースクール大学の国際関係学教授」だそうです。
記事によれば、プーチン大統領は、ウクライナから領土を切り取り、シリアのアサド政権を支援しています。
さらに、国内ではマイノリティを弾圧し、国民には“ロシア国民”として愛国的かつ従順に団結せよ、と促しています。
そしてその目的は、反民主主義国家を新たな「東側」ブロックとしてまとめ上げ、そうして作りだした「新・冷戦構造」の盟主として君臨することではないか……と記事は推測します。
しかし、記事の最後に、筆者はこう書きます。
しかしながら、そのイデオロギーに未来はない。
1991年の旧ソ連崩壊以降、西側には矛盾や偽善もあったが、われわれの多くは、イデオロギーが渦巻いたり、司法制度や経済制度を軍が拒絶できる世界ではなく、安心と礼節のある世界に住んでいる。
大局的に見るなら、こちらの方がすべての人に恩恵をもたらす。残念ながら、プーチン大統領に同じことはできない。
そうなのでしょうか。
大局的に見れば、より良い社会制度は勝利するのだ……と、私たちは信じて良いのでしょうか?
本当にそうなら、私はとても安心するのですが。
余談。
件の本、カバー見返しを見ると、
「フロッピー・ディスク別売 8,450円」
の見出しの下に、
本書で話題にしたいくつかのプログラムを、フロッピーディスク(2HD、5インチ、3.5インチ、NEC9801シリーズ用)に入れて提供します。ただしウィルス関係のものは誤用される恐れが多いため、ソースは公開しませんし、無毒化ウィルスがプログラムに取り付く時は一々利用者の許可を求めるようになっています。また、改造すると動かないようにしてありますので、ご了承ください。
なる物々しい注意書きが。
5インチ。9801シリーズ。
最終章では、「どちらかというとSF的な話題」としつつ、敵国の「中枢コンピュータ」に侵入させられたウイルスが、有事の際にそれをダウンさせたり、情報を漏洩させたり、という話題が出てきます。
これがまた、現代的なアイデアとアナクロなハードウェアの交錯したレトロSF風味でなかなか味わいがあります。
戦争が始まるか、あるいはその可能性が高まったときはコンピュータの通信回線も切られてしまうのであろう。
したがって単なるコンピュータハックの手は使えないか効果が著しく弱められるかであろう。
それに反し、敵国にあらかじめ侵入させてあったウィルスは様々なチャネルを通じてコンピュータ側からの発信を試みる。
比較的盗聴しやすい電話回線やマイクロ回線を通じて重要データを流したり、ネットワークの故障や暴走を装って全ての端末に一見ランダムや記号列を表示させたり、ワークステーション内に仕掛けられた電波発信機にデータを流したり、ハッカーの手助けをしたり、レーザプリンタに何気なく刷り損じに見える紙を出して(必ずしもコンピュータに詳しくない)協力者に運び出させたりもできる。
また、ソフトウェア開発会社が自らの製品にウィルスを仕込み、自社製品の利用状況や不正コピーの監視に使う……などという、現代のスパイウェアのような話も。
一方で、ソーシャルハック的な話題にはほとんど触れていないのが、また時代だなあ、などと。
高校時代立ち読みしてインパクトを受けた本を大人になって購入したわけですが、時代を経てみるとまた違った感慨があるものでした。