「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第44回 三省堂活字をまもるために

筆者:
2020年4月1日

ベントン彫刻機による母型彫刻に着手した三省堂は、昭和6年(1931)から昭和20年(1945)にかけて、14年間で約38,500個の彫刻母型を完成させた(同社歴史資料の「三省堂パターン製作年代表」をみると、昭和21年以降もパターンの製作はつづけられている[注1])。明朝体漢字は「三省堂常用3000字」にしぼって彫刻をすすめたとはいえ、膨大な数の母型をあらたに彫る、一大事業だった。

 

「三省堂常用漢字3000字表」清刷り(部分/三省堂印刷蔵)

「三省堂常用漢字3000字表」清刷り(部分/三省堂印刷蔵)

 

しかし、昭和5年(1930)7月に三省堂の代表取締役社長に就任した亀井寅雄や、同社の活字を牽引していた今井直一には、胸をいためていることがあった。活字のコピー問題だ。

 

苦心さんたん、しかも莫大の費用と時間とをかけて作りあげた精巧無比の母型も、コッピーしようとすれば少し精度は劣るとしても、殆ど見分けのつかない程度に模造することが、すこぶる容易なのである。それは彫刻母型から鋳造した活字が手に入れば、これを種字として電胎母型を作ればよいのである。

今井直一「我が社の活字」(三省堂、1955/執筆は1950)[注2]

 

つまり、コピーしたい活字を買ってきて、それを種字として、従来の電胎母型の手法(職人が彫った種字から母型をつくっていた方法)で複製母型をつくれば、精度は落ちるものの、その活字書体風の活字をいくらでも鋳造することができるということだ。

 

8000字ほども漢字が必要といわれる日本語において、あらたな活字書体の母型をつくるということは、苦しまぎれにこうした「コピー母型」をつくる者が現れるほどに、難易度の高いことだった。

 

こうした活字盗用の話は、昭和10年(1935)の『印刷雑誌』の「活版および活版印刷動向座談会」ですでに見られる。

 

郡山(幸男/印刷雑誌社) よい字体を造るということに、活字屋さんの活路があるでしょうが、然しすぐに盗用されるんじゃ困りますね。

矢野(道也/内閣印刷局) 盗用は実際困る、私もどうしたら宜いか、確実には考えられないが、工業所有権法で保護されはせぬかと思って居るのだ。

藤田(茂一郎/藤田活版製造所) 工業所有権法によるという考えは、なるほど研究して見たいことです。私共は鋳造業者の工業組合又は商業組合で保護の方法はないかと思って居ります。

(中略)

佐々木(俊一/富士印刷) (略)今の有様では、母型屋が何軒あるか分らぬ、これが築地型[注3]といって拵えているものでも、一軒ずつ少しずつ変化してゆく、それで元の築地そのもののよい型が存してゆくわけにはゆかない。

「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』昭和10年(1935)5月号[注4]
※( )内の名前と所属は筆者注

 

内閣印刷局から市井の活版印刷所までが口をそろえて「活字の盗用問題」をとなえていることを見るに、盗用が一般的に議論されるほどに起きていたのだということがわかる。

 

また、昭和30年(1955)には、晃文堂社長の吉田市郎[注5]が『印刷雑誌』に「今年の活字業界の課題」という文章を寄稿し、活字の盗用問題にふれている。

 

 「活字を売る」ことは、とりもなおさず「書体を売る」ことと思います。日本で活字が売り出された当初活字店では自家工場で種字を彫刻し、母型も製作して、それぞれ独自の書体の活字を販売したので、築地体とか、秀英体といった名前が残ったわけです。しかし残念ながら、外国におけるパテントやコッピイライトのような活字書体の保護策が欠けているために、同じ書体が簡単に他社で複製販売され、さらに母型製造所と活字店とか現在のように分業になってしまいました。

(中略)非常に高価な努力によって活字書体を制作しても簡単に盗用されるために、活字書体の改良制作は全く一部の進歩的にして奇特な業者の犠牲的奉仕に委ねられていました。

吉田市郎「今年の活版業界の課題」『印刷雑誌』昭和30年(1955)2月号[注6]

 

さらには今井直一自身も、雑誌『印刷界』に昭和30年(1955)掲載された座談会「新時代の活字はこれでいいのか!」で、おおいなる嘆きを岩田母型製造所の岩田百蔵に投げかけている。

 

 今井 岩田さん、大いにお感じだろうと思うんですが、非常に時間と金をかけて一生懸命やっても、書体というものは主権が守られていないんですね。いつだったか津田(津田三省堂社長)さんが嘆いていましたよ。非常に苦心して作り、すっかり母型にして活字を売出す途端にみんなまねされてとられちゃった、種字を。そうなると元がとれない。(中略)それで発展しないんじゃないかと思う。やはり、実用新案か特許かなにか知りませんが何か保護してくれなくちゃ……。

「新時代の活字はこれでいいのか!」『印刷界』昭和30年(1955)1月号[注7]

 

最初の引用と、次のふたつの引用とのあいだには、20年の開きがある。こうして見ていくと、活字の盗用は、自社のオリジナル書体をもつ母型業者、活字業者、印刷会社の頭を悩ませつづけた問題だったようだ。

 

三省堂のオリジナル書体をまもりたい。その気持ちがつよかった社長・亀井寅雄は、今井直一に、三省堂の活字は社内での印刷でのみ使用し、これを社外に出すことを禁じて「門外不出」とした。今井直一いわく〈門外不出の活字が、もし他社に使用されていたならば、それは盗用したものと断定し、抗議することができる〉[注8]からだ。

 

このため今井は、ベントン彫刻機の置かれた「彫刻室」を関係者以外立ち入り禁止、社員にすらも非公開の部屋とした。昭和21年(1946)ごろに三省堂に入社し、のちに母型彫刻、書体設計にたずさわるようになった書体設計士の杉本幸治も「母型を彫る機械の現場は工場長直轄の組織で、社員といえどもなかに入れなかった。ベントン彫刻機は、三省堂にとって『門外不出』の存在でした」とかつて話していた。[注9]

(つづく)

 

[注]

  1. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.31
  2. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.29
  3. 築地型:東京築地活版製造所の明朝体のこと。「築地体」とよばれた。秀英舎(現・大日本印刷)の「秀英体」とならび、日本の明朝体の二大潮流といわれる。
  4. 「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』昭和10年(1935)5月号(印刷雑誌社)P.18
  5. 吉田市郎(よしだ・いちろう/1921-2014)晃文堂 社長、リョービ印刷機販売 代表取締役、リョービイマジクス 代表取締役。同氏については、朗文堂・片塩二朗氏による「花筏」に詳しい。
    「タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星 : 吉田市郎氏が逝去されました」 http://www.robundo.com/robundo/column/?p=7097
  6. 吉田市郎「今年の活版業界の課題」『印刷雑誌』昭和30年(1955)2月号(印刷雑誌社)P.1
  7. 「新時代の活字はこれでいいのか!」『印刷界』昭和30年(1955)1月号(日本印刷新聞社)P.9
  8. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.29
  9. 筆者による杉本幸治へのインタビュー(2009年1月30日)より

[参考文献]

  • 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)
  • 『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)
  • 朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス、2008)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』昭和10年(1935)5月号(印刷雑誌社)
  • 吉田市郎「今年の活版業界の課題」『印刷雑誌』昭和30年(1955)2月号(印刷雑誌社)
  • 「新時代の活字はこれでいいのか!」『印刷界』昭和30年(1955)1月号(日本印刷新聞社)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。