ハクチカラ 単語

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ハクチカラ

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ハクチカラとは、1953年生まれの競走馬
日本生産として初めて海外遠征を敢行し、見事重賞制覇を果たした事で有名。1984年顕彰馬に選出されている。

な勝ち
1956年:東京優駿競走(八大競走)、カブトヤマ記念
1957年:天皇賞(秋)(八大競走)、有馬記念(八大競走)、目黒記念(春)東京盃日本経済賞毎日王冠目黒記念(秋)
1959年:ワシントンバースデーハンデキャップ

概要

トビサクラ  ダイオライトという血統。アメリカの競馬ファンは皆さんと同じように「???」と首を傾げたに違いない。ただし、当時の日本流血脈が集まっており、当時としては良血であっただろう。なにせダービー賞金が200万円の時代に300万円で売れたんだそうである。

実際トビサクラは自身は6戦3勝、重賞勝ちしという今一な成績だが[1]プリメロアイルランドダービーセントレジャーの二冠を制し、種牡馬としてはリーディングサイヤーこそ取れなかったもののトサミドリを筆頭に数多くの活躍を輩出した名で、1つ下の全には戦後最初の農林省賞典四歳馬(現菊花賞)を制したアヅマライがいるという当時としてはなかなかの良血である。

また競走馬名フアイライト)も通算成績29戦3勝、重賞勝ちしとパッとしないが、ダイオライト英2000ギニー覇者かつ日本リーディングサイヤー4回、三冠馬セントライトという大種牡馬競走馬クレオパトラトマス)は帝室御賞典を旧四歳ながら3戦3勝で制した名、そして昇の1つ下の全競走馬名ハマカゼ)は桜花賞と、当時の日本では最高峰の血統であったことがうかがえる。

栗毛でなかなか男前なである。結構大きなに見えるがどうだったのだろうか。当時は体重の発表がいので良く分からないが。

デビューから5連勝を飾っているので最初から相当強かったようだ。これなら当然クラシックに期待が掛かるところだったが、皐月賞は体調不良で12着惨敗。捲土重来を期してダービーへ向かう。不良馬場で落事故もあり、ハクチカラ自身も途中で落鉄に見舞われるなどしいレースだったが、3身抜け出して圧勝。見事ダービーとなった。ただオープン競走は勝つものの本番の菊花賞中山グランプリは5着に敗れている。

になってから本格化したようで、目黒記念日経賞毎日王冠天皇賞有馬記念などを勝ち捲る。当時は天皇賞が勝ち抜け制で出るレースがなくなったせいもあって、5歳になったハクチカラはアメリカ遠征を企てるのである。

ところが、これが容易な話ではかったのである。

なにせ当時はプロペラ機(DC-7とか)の時代である。これでアメリカまで行こうというのだ。競走馬を乗せて大洋を横断するなんてこととは、まだアメリカでも行われたことがかった位なのである。

まず、飛行機にどうやって乗せるのかが問題となった。コンテナ?ないない。スロープ?あるわけない。

仕方がいから、ハクチカラをゴンドラったのである。クレーンで。おいおい。前例がい作業は難航し、かわいそうにハクチカラは3時間もゴンドラゆらゆら揺られる羽になった。

この時の飛行機はチャーター機で、座席は全部取り外されていた。それだって、現在新幹線車両より狭いくらいの機内間しかかったと考えて良いだろう。この狭い間でが暴れたらどうにもならない。有体に言って飛行機ごと落ちる。故に、機長には「が暴れたら射殺してかまわん」という許可が与えられており、関係者も同意をめられたという。

そんなこんなで漸くアメリカへと赴いたハクチカラ。ちなみに、DC-7ならアメリカまで21時間掛ったである。いやいや、お疲れ様ですと言いたくなる。この前代未聞の飛行機輸送。環境変。サラブレッドがこれでなんともかったら逆におかしいだろう。

案の定、ハクチカラは走を続けた。5歳時には6戦0勝である。一緒に渡していた保田隆芳騎手の入ビザは切れてしまい、関係者も意気消沈。もう帰ろうかという話もあったのだが、現地でハクチカラを担当した調教師が「もうちょっといた方が良い。必ず良くなるから」というので、ハクチカラだけアメリカに残ることとなった。

果たして、ハクチカラは6歳になってから好走を始め、3・2・5・4着と来た次のワシントンバースデイハンディキャップ最低人気レイモンドヨーク騎手上のハクチカラはしかマイペース逃げて、直線もそのままアニサドの猛追を振り切って優勝日本生産日本調教初の海外重賞勝利を成し遂げたのである。この時の一番人気は名ラウンドテーブルでこのとの斤量差は11.5kgあったという(ラウンドテーブルレース中故障)。

ちなみにこの時の賞金5万ドルというのは単純計算して5万×3601800万円となり、ハクチカラが日本で稼いだ20勝分の賞金(1656万円)をえてしまう。当時の日本競馬の賞金額が低かった、というよりは、日本アメリカにこれぐらい力の差があった時代だったのだと言えるだろう。

ハクチカラの次に海外日本生産にして日本調教アメリカ競馬重賞勝利するのは、2004年フェスティバルを待たなければならない。正に、歴史的快挙であった。

ハクチカラはこれで力を使い果たしたか、6戦して勝てず、引退日本に戻って種牡馬になった。

のだが、当時の内種牡馬の冷遇っぷりは酷く、おまけにハクチカラが繋養されていたのは産地の中心とは言えない青森だった。種付け相手のほとんどがアラブだったというのだから活躍なんて出る訳もい。

挙句に、1968年になってインドに寄贈されてまたを渡る羽になったのである。

しかしインドでは活躍を出し、かなり大事にされたらしい。最後に栄に包まれて、ハクチカラはインドで26歳で死亡現在でもインドにはハクチカラの血を引くが走っているのだという。

血統表

トビサクラ
1942 栗毛
*プリメロ
1931 鹿毛
Blandford Swynford
Blanche
Athasi Farasi
Athgreany
*フライアースメード
1931 鹿毛
Friar Marcus Cicero
Prim Nun
Tetrarch Girl The Tetrarch
Affinity

1944 栗毛
FNo.16-h
*ダイオライト
1927 黒鹿毛
Diophon Grand Parade
Donnetta
Needle Rock Rock Sand
Needlepoint
月城
1932 黒鹿毛
Campfire Olambala
Nightfall
* Gnome
Tuscan Maiden
競走馬の4代血統表

クロス:Orby 5×5(6.25%)

関連動画

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関連項目

JRA顕彰馬
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイヂヒカリ - ハクチカラ -
セイユウ - コダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー -
トウショウボーイ - テンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ -
オグリキャップ - メジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー -
テイエムオペラオー - キングカメハメハ - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロア -
ジェンティルドンナ - キタサンブラック - アーモンドアイ - コントレイル
競馬テンプレート

脚注

  1. *ただしこの1942年生まれで、旧4歳となった1945年太平洋戦争末期東京優駿競争帝室御賞典などのレースが開催されなかった(というより開催できなかった)ことを考慮に入れる必要がある。
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