74
1 ななしのよっしん
2009/02/20(金) 06:08:23 ID: 0IPkYLS3bm
http://w
2 ななしのよっしん
2009/03/30(月) 00:29:58 ID: tKyDJH/Ie6
3 ななしのよっしん
2009/06/08(月) 20:55:29 ID: 2lwPjr9btN
http://w
これなんかはどうでしょ>関連動画
4 ななしのよっしん
2011/07/20(水) 16:46:44 ID: Ki1kAuMlok
やる夫光武帝の動画もあったな
>http://w
5 削除しました
削除しました ID: 3uPXL85izt
削除しました
6 ななしのよっしん
2012/07/27(金) 07:14:36 ID: A0W7yVS7m4
>前漢は王莽の反乱で一旦滅亡
反乱じゃなく、禅譲な。
あと漢っていったら趙漢とか成漢とか
われらが宇宙大将軍の漢もある。
7 ななしのよっしん
2012/08/31(金) 22:41:02 ID: Nzc93o8zOQ
8 ななしのよっしん
2012/11/11(日) 21:04:01 ID: iuJB3d3ZiR
地位を守りきれなかったらただの反逆者なのよね
9 ななしのよっしん
2013/02/01(金) 17:20:37 ID: DzHkm4wjSY
10 ななしのよっしん
2013/02/25(月) 01:15:35 ID: gytx50X1qC
11 ななしのよっしん
2013/03/01(金) 22:40:17 ID: rWlV0gSzQ8
>後漢が最も衰退
・光武帝:雲台二十八将を得て天下統一。奴隷解放や農地政策で人口回復に努める。異民族戦では、南匈奴と同盟。西羌族、鮮卑族、烏桓族、高句麗を破って従える。一代で前漢の高祖と文帝を兼ねるぐらいに貢献。
・明帝:大規模な治水工事を成功させ、洛陽の施設を充実させて更に人口増加。異民族戦では、西羌族、高句麗が離反したものの西域進出を果たす。
・章帝:儒教の国教化を推し進める。そのため儒者の間では後漢一の名君。ただし、困った事があると政務を放棄して引きこもるか、逃避行に行くか、お祈りしかしない皇帝なので悪外戚がのさばり軍部も暴走した。異民族は全て離反。
・和帝:宦官、兄弟王、良識派官僚と協力して悪外戚を一掃。先帝時代の混乱を治め、各地で貧民救済。名医を取り立てたり、法改正に当たった。異民族戦では北匈奴を滅ぼし。南匈奴、西域、西羌族、鮮卑族、烏桓族、高句麗を再び破って従える。この時、後漢最大版図に。
けど後漢衰退の元凶という評価。
12 削除しました
削除しました ID: m/Jl1UuHZe
削除しました
13 ななしのよっしん
2013/06/13(木) 13:21:37 ID: btuxszkCdO
コーエーの三国志や信長の野望だと番外的なシナリオで
その3人を自勢力として操作できることも結構あるよ。
>>12の求めているものとは違うかもしれんが
14 ななしのよっしん
2013/08/17(土) 16:48:36 ID: cL3isSqSmd
後漢の最盛期は献帝の時代、曹操が権勢を振るっていたころだと言う皮肉。
後漢末期になってようやく涼州、幽州、青州、徐州が治まり、安定した統治が行えるようになった。
また揚州や益州もまともに政治がいきわたるようになった時期。
ま、皇帝権力が無かったんで魏に取って代わられたけど。
その曹操も、「皇帝権力を強化するため」に霊帝の時代に組織された西園八校尉出身と言うのが更なる皮肉。
15 ななしのよっしん
2013/09/18(水) 22:35:51 ID: Z+Sy8a2KD/
前漢時代初期の頃の劉氏と呂氏の争いは中国史上
最もドロドロした争いだと思うぐらい酷かった。
16 ななしのよっしん
2013/09/18(水) 22:47:56 ID: AUiHkxJANw
>>6
劉姓の人物が王朝を建てたら国号を漢にしたがる傾向があったみたいだね。
でも漢(趙)も成漢も北漢も南漢も異民族出身の可能性が高いっていう..
17 ななしのよっしん
2014/02/02(日) 23:43:52 ID: D2fX1kbgZw
18 ななしのよっしん
2014/04/16(水) 12:39:16 ID: xRaFDnHnDk
>>16
唯一の例外は劉宋を建国した劉裕で、彼は高祖劉邦の血筋ではない事に誇りを持っていた。
どんな感じかというと、部下の諸葛長民から「諸葛孔明の子孫の私と劉玄徳の子孫のあなたで司馬仲達の子孫を倒そう」と持ち掛けられた時に、「俺は高祖とは全く関係ない劉氏で、ましてや劉備の子孫ではない」と言ってガチギレした逸話が残っているほど。
この後、諸葛長民は適当な理由を付けられて粛清されたという…
19 ななしのよっしん
2014/06/21(土) 03:04:56 ID: mSTdDnkOnf
20 ななしのよっしん
2014/06/21(土) 03:14:18 ID: pvC9nV9YPd
21 ななしのよっしん
2015/05/11(月) 02:35:59 ID: iiRmli8amj
>>9
漢史全体を通してみたら匈奴が属国化してた時期のがよっぽど長いけどな
前漢だけ見ても同じくらい
22 ななしのよっしん
2016/02/25(木) 19:57:47 ID: 36GVZbsKhp
劉秀の漢は大陸じゃ東漢と呼ばれてるみたいけど
そもそも日本でアレを後漢と呼ぶのは某歴史書のせいだと思うの。
何故、続漢書とかにしなかったのか…
23 ななしのよっしん
2016/03/16(水) 01:05:57 ID: YJkvpMEjEK
いやいや逆だ 順序としては、
1世紀ごろ 劉秀が漢を復興させる(200年ほど続く)
5世紀ごろ 「後漢書」が書かれる
10世紀ごろ 劉知遠が国を建てる(3年で滅亡) それが後に後漢と呼ばれる
昔はみんな劉秀の国のことを後漢と呼んでたのは間違いない
順番としても、歴史的な重要度からも、劉秀の国を後漢と呼ぶのが妥当と思うのだが…
なんで3年で消滅したような国に後漢の名を与えて、既存の後漢の名前を変えてしまったのか…理解できん
24 ななしのよっしん
2016/03/16(水) 08:13:56 ID: xRaFDnHnDk
>>22
「後漢書」は「後漢という王朝について書かれた書物(後漢、書)」ではなくて「漢書のその後について書かれた書物(後、漢書)」という意味。
なぜ范曄が後漢書というタイトルにしたかというと、当時既に「続漢書」という書物が存在したから。
ただし「続漢書」は今は序文しか現存していない。
>>23
あっちと本朝では劉秀の王朝を区別するようになった経緯が違う。
そもそも昔は前漢と後漢を区別する事自体していなかった。
というのも、劉秀は中国史上唯一王朝の復興を成し遂げた人物だけど、自分で国を建国したと見なされていないから同じ王朝が東に遷都した程度の扱いだから。それが劉知遠の後漢(こうかん)より後の時代に新王朝前後で区別する必要が出てきてあっちでは都の位置で区別するようになった。
一方、本朝では劉知遠の後漢よりも早い時代に劉秀の王朝を劉邦の王朝と別の王朝とみなすになったので、劉秀の王朝を「後漢書」に書かれている時代という事で後漢(ごかん)と呼ぶようになった。
25 ななしのよっしん
2016/07/07(木) 06:05:05 ID: OBDTK7NM2D
当たり前と言えば当たり前だけど、後漢は自分たちが新朝を打倒して成立した「新しい漢王朝」とは思っていない。「新朝なんて無かった。ずっと漢朝は続いているよ」の立場。それは後漢の歴代皇帝の諡号や廟号が前漢の皇帝と被っていないのを見るとよく分かる。
26 ななしのよっしん
2016/09/29(木) 20:32:30 ID: xgZsfIhIYK
西晋、東晋
北宋、南宋
一度滅んで復活した王朝は
首都の位置で呼び分けるのが一般的だから
西漢、東漢のほうが首尾一貫してるとは言えるだろうな
実際中国ではそっちで呼ぶほうがほとんどらしいし
27 ななしのよっしん
2016/11/26(土) 12:24:41 ID: nqRFOTXbR7
>>仮に劉裕が「漢」を名乗っていたら南漢が二つになってしまい、どう区別つけるのか難関になっていただろう。
劉淵が「漢」を名乗っても北漢が二つになってないし、
史実の劉裕が「宋」を名乗っても南宋が二つになってないし大丈夫だろ
劉裕が「漢」を名乗っていたら、劉淵の趙漢と同様に「宋漢」とでも呼ばれてたはず
28 ななしのよっしん
2017/01/17(火) 21:11:56 ID: osPbYTS8f4
劉淵以降に漢を名乗った王朝が、五代十国に至るまで、ことごとく異民族の政権なのが面白い
匈奴だったり突厥だったりアラブ人だったり…
29 ななしのよっしん
2017/01/17(火) 21:17:37 ID: osPbYTS8f4
30 ななしのよっしん
2018/03/31(土) 13:50:24 ID: SzXIiDfh/5
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。