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白木義一郎単語

シラキギイチロウ
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白木義一郎しらき ぎいちろう)とは、元プロ野球選手政治家である。故人。

概要

1919年9月20日生まれ。東京都出身。

慶應義塾商工学校に進学。エースとして活躍し、3年時には連続で甲子園大会に出場。東京地区大会では大会前に足首を骨折したものの、自らギプスを壊して強行出場し、チーム甲子園大会出場へと導いた。

卒業後、慶應義塾大学へ進学。大学でもエースとして活躍していたが、1941年に応召。

1946年にセネタースに入団。

初年度の1946年、新人ながら投手の軸として奮闘し、同期入団の大下弘とともにセネタースの顔として活躍。59試合に(うち48試合は先発登板し、30勝22敗、防御率2.58という成績を残し、最多勝利タイトルを獲得。なおこの年、セネタースが挙げた勝利数は47勝であり、ほとんどが白木が挙げたものであった[1]

1947年、前年同様チームエースとしてリーグ最多の59試合に登板し、26勝を挙げ、防御率1.74で最優秀防御率タイトルを獲得。ただ、現在NPB記録として残っているサヨナラ敗け9度を記録し、リーグワーストの25敗を喫するなど、踏んりきれない場面も見受けられた。

1948年防御率2.79とまずまずの成績を残したが、7勝12敗と負け越し。

1949年、16勝を挙げて復活1950年には、4試合連続四球完投、当時のNPB記録となる74イニング四球記録し、14勝を挙げた。

1951年、肩の故障により。4勝10敗、防御率4.06と低迷。シーズン終了後、阪急ブレーブスへ移籍。

1952年、9試合の登板で0勝に終わり、同年限りで現役を引退

引退後は球界から離れ、政治家に転身。

1956年創価学会所属として参議院選挙に出当選日本プロ野球経験者としては初の国会議員となった。

1964年には公明党結成に参加し、以降は近く同党の幹部として活動。参院選で通算5回当選している。

1986年7月、政界引退

1989年11月3日、勲一等日大綬章受章。

2004年1月25日、腎不全のため死去。享年84歳。

人物・エピソード

抜群の制球力を武器に、人を食ったような投球で打者を翻弄した技巧右腕。一方で四球を極端に嫌がり、ストライクを取りに行ったボールを痛打される場面も見受けられた。また、野手としても通算7本塁打、18盗塁記録するなどセンスを発揮している。

ピッチャーゴロをわざと一度キャッチャーに渡してからアウトを取るという、パフォーマンス的なプレーをすることが多かった。

チームメイトたちからの長さをいじられることもあったという。

通算成績

投手成績

通算:7年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 242 160 16 97 98 --- --- .497 1725.0 307 534 694 542 2.83

獲得タイトル・表彰・記録

関連項目

脚注

  1. *勝利チーム2位黒尾重明の10勝。

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