「一日中」はどうして「いちにちじゅう」なのでしょうか? 「中」は「ちゅう」なので、濁ったら「ぢゅう」

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大変勉強になりました!日本語は難しいですね。。

お礼日時:2006/5/24 10:47

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二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」(国語表記法) 「はなぢ」は「はな」と「ち」に分離可能です。「ち」が濁るので「ぢ」とするのです。しかし、現代語の意識では一般に二語に分解しにくいものとして、「いちにちじゅう」とし、それを本則とするが、「ぢ」を用いて「いちにちぢゅう」と書くこともできることにする。 「一日中」が何故分離できないかは、「世界中」と同様、この構造では、自立語として「ちゅう」は用いられていません。これから見て、「いちにちじゅう」が本則であり、また、「いちにちぢゅう」と書いてもよいということです。 <田子>

[補足] 数年前の妥協以前の本則はこうでした (理由は私の「げすの勘ぐり」です)。 「蹄(ひ-づめ)」は「ひ+爪」なので、「ひずめ」とはしない。 「絆(きずな)」は「き+綱」だが、「き-づな」とはしない。 「纜(ともづな)」は読みの字数も多く、誰でも複合語で「綱(つな)」の濁音化だと分かるだろうから、「ともずな」とはしない。 「電(いなずま)」を「稲妻」と書くのは当て字であり、「妻(つま)」が濁音化したのではない。 「東(あずま)」を「吾妻」「吾嬬」と書くのは当て字であり、「妻(つま)」「嬬(つま)」が濁音化したのではない。 しかし、分解できるとか分解できないとか誰が決めるのでしょうか? なお、ご存じない方が多いかも知れませんが、『広辞苑』第一版の見出しは はなじ【鼻血】 いずつ【井筒】 でした。 現代仮名遣いも、歴史的仮名遣いに添えて小字で「はなぢ〈ぢ〉」「ゐづ〈づ〉つ」と示されてはいますが。 これはこれで筋が通っていました。

「一日中」の「じゅう」は、「ちゅう」が濁ったものではないからです。 日本語の接尾辞「ちゅう」と「じゅう」は別の接尾辞なのです。同じ漢字「中」で書きますが、意味が異なるので、単に「ちゅう」が濁って「じゅう」になったとは考えないのです。 例えば、「工事中」は「ちゅう」です、これを「こうじじゅう」とはいえません。「夏休みちゅう」と「夏休みじゅう」は、どちらも可能ですが、意味が異なります。「夏休みちゅうに旅行した」「夏休みじゅう寝ていた」。 このように意味と用法が異なるものは、同じものが濁ったものとは見なさないのです。だから、新仮名遣いの規則どおり、「ぢ」を用いずに、「じゅう」と書きます。

お察しの通り戦前は「一日中」は「~ぢゅう」(ぢゆう)と書いてゐました 地震→ぢしん 親父→おやぢ 稲妻→いなづま radio→ラヂオ 上記の例も嘗てはかうだつたのですがこの方がごく自然ではありませんか それを戦後間もなく文部省のお役人が何の意味のつながりも考へず 本来かうであつた仮名づかひも含め現在のやうに変へてしまひ これが混乱を招いてゐる原因なのです いっそ中(ちゅう)が「じゅう」なら 「仮名遣い」も「かなずかい」にしてしまへばよかつたのです

基本的に「タ行」が濁ったものは「ダ行」になります。 例:鼻血(はなぢ) しかしながら慣用的に、「ダ行」から「ザ行」に変わってしまったものもあります。 例:地面(じめん) 「一日中」は後者のパターンだと思います。 「やりづらい」を平気で「やりずらい」などと誤用している人もいる中、質問者の方は正しい日本語を使おうと意識しているようで、うれしく思います。