実際に「平成の大合併」のとき、三条市・燕市と周辺町村が合併して人口20万人規模の「県央市」(仮称)が成立寸前まで行ったのですが、合併の賛否を問う燕市の住民投票で「賛成49%、反対51%」という僅差で否決され、三条市と燕市はそれぞれ周辺町村と合併、別の自治体として歩む道を選んでいます。
ご指摘の通り、三条市と燕市は新幹線駅や北陸道のICを共有していて経済的な一体化は進んでいます。
両都市は金属加工という同じ産業基盤を持ち、深い相互依存関係にあるのは間違いないですが、歴史的役割も得意分野も異なっていて、歴史を通じ決して仲が良くなかったことも事実です。
三条は町を流れる五十嵐川上流の山間地域(旧下田村域)が良質な砂鉄の産地で、室町時代から鋳物など鉄加工業が盛んになり、江戸時代は鍛鉄が始まって和釘の一大産地となったほか、一面の低湿地だった越後平野の新田開発が進んで、鍬や鋤など農具の需要も旺盛になります。三条は農具や刃物など「荒物」の生産が主でした。
一方の燕は、三条と同様に和釘など鉄製品の生産がルーツにありますが、江戸時代中期に弥彦山麓にあった「間瀬銅山」の精錬所が置かれたことをきっかけに銅器生産の町になっていきます。一枚の銅板を薄く叩いて伸ばしヤカンなどに成型する「鎚起銅器」が特産となり、精緻な職人技が燕の金属加工の特長となっていきます。明治期には東京銀座の商店からの依頼で洋食器作りが始まり、20世紀初めに第一次世界大戦でヨーロッパの金属加工業者が軍需品生産一辺倒になって日用品生産に手が回らなくなると、販路を一気に世界に拡大し、その高度な品質から世界に知られる「洋食器の町」となるに至りました。
二つの町で役割が単純に二分されていた訳ではないですが、三条は鍛鉄による農具や刃物などの荒物、燕は銅やステンレスによる職人的な工芸品・精密品作りと得意分野が異なっていたのです。
また信濃川舟運の重要な河港だった三条は、江戸時代は越後国最大規模の商業都市であり、三条商人は越後一帯を商圏として押さえるとともに、自ら北前船を保有して西国や江戸にも金属製品の販路を広げます。
これに対し燕は、徹底して職人気質の町でした。
「職人の燕、商人の三条」と言われ、燕の職人が作った付加価値の高い製品を、三条の商人が全国に売りさばくという相互依存の関係にあったのですが、現代でもそうですが生産者と販売者の思いというのはしばしば相反するものでした。
燕の職人からすれば、自分たちが手間をかけ丹精込めて作った製品を三条商人が不当に安く買い叩き、諸国に高く売って大儲けしているという思いがあります。
一方三条の商人とすれば、京阪や江戸の得意先と末永い取引を維持する上で、さらに他の産地との競争もあるから、燕の職人が望むような高い値段はつけられない。冬の荒れ狂った日本海に遭難覚悟で船を出して西国に、100kg近い重い金属製品を背負って山を越え、関東や会津に商品を売っているのは俺たちだ、という自負があります。
どちらの言い分ももっともですが、こういう場合は大概が買い手優位で、どちらかといえば燕の方がずっと三条の風下に立たされてきたという鬱屈した思いが強くあったようです。
国と県が音頭を取った「平成の大合併」に際し、燕市はその枠組みを、三条市との合併を軸とした大型合併を目指すか、吉田町との合併にとどめる小規模なものにするかで市民の意見が完全に二分されてしまいました。
長年張り合ってきたライバルではあるけれど、新幹線駅や北陸道のICを見るまでもなく一体化している三条市と合併して20万規模の中堅都市を現出させるか(財政基盤も強化できます)、歴史的に仲の良くない三条相手ではなく地場産業の下請けなどを通じ経済的に結び付きの強い吉田と一緒になるかという難しい選択でした。
燕の財界は三条との合併を支持しましたが、多くの一般市民にはもし合併すれば人口規模で勝る三条に市政の主導権を握られてしまうという強い警戒感があったといわれます。
当時の燕市長は熱心な三条との合併推進派でしたが、市議会は反対派が多数を占め、市の方針は一向に定まらず市政は混乱を極めます。2002年4月の燕市議会議員選挙では三条との合併賛成派・反対派が10対10の同数になり市議会の方針も膠着状態に陥ります。
それでも燕市長は三条との合併に突き進み、2003年10月に三条市・田上町・栄町・下田村との合併を問う住民投票に漕ぎつけます。
しかし住民投票の結果は賛成11,783 票(49%)・反対12,504 票(51%)で否決されました。実に僅差で、この数値に燕市民の対立の深刻さがうかがえます。この時あと数百票民意がひっくり返っていれば、今ごろ燕は三条と合併していたはずです。
燕市の迷走に業を煮やしていた三条市は、この燕の住民投票の結果を受けて燕に見切りをつけ、栄町・下田村との合併協議に入りました。
こうして燕市は完全に孤立してしまったのですが、その燕と地場産業の下請けを通じ親密な関係にある吉田町が手を差し伸べます。
前職の死を受け行われた吉田町長選挙で、燕市との合併推進を公約に掲げる候補が当選し、新町長は寺泊・弥彦との合併協議が破談に終わった分水町も誘って1市2町での合併案を提示してきたのです。
ここに至って燕市長も吉田町案での合併に方針転換し、吉田町が主導する形で合併協議が進められ、1市2町での合併が実現します。
合併後の新市役所庁舎は旧吉田町内に建設されました。旧燕市は世界のブランドである「燕」の市名を残してもらう代わりに、合併を主導してくれた吉田に新市役所の所在地を差し出すくらいの譲歩をしないといけなかったということです。
三条と燕は、経済的一体化は進んでいて、第三者的には合併した方が望ましいと多くの人が思うはずですけれど、(特に燕側に)長い歴史的な確執があって、あと一歩のところで合併話が破談になってしまいました。遠い将来のことは判りませんが、当面、両市の合併というのは無いでしょう。