回答(4件)

最澄が唐で学んだ天台宗は顕教で、密教ではなかったのです。 日本に帰ってみると、天皇などから、密教の加持祈祷の要望が大きかったので、 最澄は天台宗の中に密教的な要素を取り込んでいきました。 最澄は空海に頼み込んで密教を教えてもらったのですがうまくいかず、 最澄の死後に弟子の円仁が唐に留学して密教を学び、天台宗の密教は 完成したのです。

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数年前にNHKでやっていたけれど、空海が最澄に意地悪したからだとか。 最澄が唐に渡った頃はまだ密教が盛んではなく、法華経を日本に持ち帰った。 その後に空海が唐に渡った時は密教が盛んになっていたので空海は密教を日本に持ち帰った。 最澄は空海に密教を乞うたが、空海は拒否したため最澄は密教を学べなかった。だそうです。

最澄さんは中国への留学で密教を学びはしましたが、密教の全てを学んだわけではないことをご自身で自覚されていたからです。

質問を読ませて頂きました。最澄様の時は比叡山延暦寺様は法華経を根本の教えとしておりました。最澄様も密教を日本に帰国する時に少し学びましたが空海様の様に密教のみを学んでおりませんでした。比叡山延暦寺様が密教化するのは鎌倉時代の少し前からです。比叡山延暦寺様のエリートを沢山中国に送り出しました。天台宗の密教を台密と言い空海様の密教を京都の東寺様を元に密教を広めたので東密と言います。参考に成れば幸いです。では失礼申し上げます。合掌。

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