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関ヶ原の戦いは徳川家康が鉄砲を撃って小早川家の軍勢が西軍に攻めて勝敗が決まったんですか? 話が出来過ぎてる気がするけど。

日本史 | 歴史489閲覧

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近年の研究成果では、小早川秀秋は松尾山布陣時点から既に裏切りを考えていたとされています。 そして、毛利輝元が豊臣秀頼を奉じて出陣して来ればそのまま西軍に味方するが、輝元が出陣して来なかったから、今度は南宮山に布陣した吉川広家の動きを見ようとしたと考えられています。 南宮山に布陣した毛利勢の先頭が吉川広家で、彼が出陣しないと後ろに陣取っていた他の毛利の武将たちは動けないという状況でした。 しかし、吉川広家も東側に調略され、全く動かなったことから、小早川秀秋は松尾山を降って西軍を攻撃しました。 徳川家康は、自分が布陣した場所は完全に安全だと事前に確信していたから、あの場所に布陣していました。 なお、小早川秀秋が裏切ろうと考えだしたのは、幼き頃は自分が豊臣家の跡継きだったのに、秀吉によって小早川家に養子に出され、今回も豊臣家のトップが秀頼だとされている事への不満からとされています。

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家康の本陣桃配山から小早川の居る松尾山まで鉄砲の音が届くはずないと言われてます。 予め、秀吉の正妻であるおねに家康に味方する様に良い含められてました。 しかし行き掛り上、東軍への城攻めに参加しており、どちらに味方するか最後まで迷っていたのでしょう。

こういう話は、盛り上げるため、あるいは分かりやすくするために後で付けたされた話でしょう。関が原はそんな単純な戦ではなかったと思います。 関ケ原は1600年の9月15日に起きましたが、家康はその前哨戦というべき上杉討伐のため6月には軍を引いて大坂を発ち、いわゆる東軍を組織しながら上杉や真田、佐竹を威嚇、その後関ヶ原までずっと軍装を解きませんでした。その間、石田三成は7月末に家康討伐のため挙兵し、伊勢に攻め入りますが福島正則や池田輝政などの押し戻され、岐阜も失い、大垣まで追い詰められます。ここで西軍が関ヶ原に集結した訳ですが、流れからいってまさに瀬戸際です。つまり3カ月に及び、日本中の広い範囲で行われた東西戦の最終戦が関ヶ原だったということです。しかし東軍はずっと優勢だった上に、総指揮官の家康が3万の軍を率いて江戸から戻って来た。誰がどう見ても「東軍勝ち」の情況だったはずです。なので毛利勢は成り行き上大軍隊を送ったが積極的に西軍に加担しなかった。島津もどっちつかずだった。必死で戦ったのは石田と小西と宇喜多くらい、多くの大名たちは「家康には敵わない」と思って及び腰だった。 あれだけの大軍勢が集結した戦なのに、たった半日で決着がついたのは、単に小早川の裏切りがあったせいではありません。勢いは圧倒的に東軍側にあり、勝敗は最初から見えていたと思います。

鉄砲の話は真実かわからない。 当初は確実に西軍に居たが大阪へ行く道に布陣してしまったので東軍に寝返ったら大変と石田三成がこちらにつくように交渉している。 この位置に布陣した時点で徳川のお目付け訳が小早川側にいるので既に寝返っていると考えられるが家臣が最後まで寝返りを反対 おそらく家康は味方には整然と君子の様に敵には勇猛な印象を与える様に心掛けているので鉄砲は撃ちかけないと思います。 小早川が寝返る事を予測していた大谷刑部と対戦するが同じく監視していた4部隊が東軍に寝返り、毛利家臣の吉川広家は既に家康と内通していて吉川の部隊が今飯食ってるから動けないと言う毛利の空弁当で毛利軍は出陣を阻まれと布陣当初は西軍圧勝の配置で外国の軍専門家がこれでなぜ勝てたと不思議がるレベル。 それを一気にオセロの様にひっくり返した。