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ボクシングから生まれるパワーと連帯―イラク・クルド自治区、国内避難民キャンプに生きる女性たちの声

※この記事は、性被害に関する記述を含みます。

街は完全に沈黙していた。2017年1月、イラク北西部、シンジャルの街の廃墟には、まもなく暗闇が訪れようとしていた。人の声はおろか、鳥のさえずりひとつ響かない。

2017年1月、シンジャルの街で。(安田菜津紀撮影)

2014年8月、多くのヤズディ教徒が暮らすこの街を、過激派勢力「イスラム国」(IS)が急襲した。彼らは少数派宗教であるヤズディ教を「邪教」とみなし、多くの男性たちを虐殺した上に、連れ去った女性たちを「奴隷」として売買し始めた。



心はまだ支配されたまま

ヤズディ教は、古代ペルシアで発祥したゾロアスター教や、イスラム教、キリスト教、古代メソポタミアの宗教など、様々な宗教の影響を受けているとされるが、独特の教義や信仰体系を持ち、他の宗教とは異なる特徴を持っている。

現在、クルド人の多数派はイスラム教徒だが、ヤズディ教は、かつてはクルド人居住地域で広く信仰されていた。同じクルド人でありながら、偶像崇拝を禁止するイスラム教徒などからは異端の悪魔崇拝者とみなされることが多く、その歴史を通じて、ときに迫害、蔑視の対象となってきた歴史がある。

そうした歴史を、ISは悪用し、蹂躙したのだ。

ISは一時、隣国シリアを含めた広大な土地を支配し、ヤズディ教徒を含む300万もの人々が、イラク北部クルド自治区で避難生活を余儀なくされていた。テント生活を送る女性たちは、口々にこう語っていた。

「解放されても、私たちの心はまだ、彼ら(IS)に支配されたままです。だって毎日、戻らない家族たちのことを考えて生きているのですから」

2024年12月、私は再びその地を訪れた。

かつてISに支配されていたシリアの街、ラッカ。(佐藤慧撮影)



自分を解放できるひととき

ナティーファ・ワディ・カシムさんと家族は、2014年、辛うじてISの襲撃の手を逃れ、クルド自治区にあるルワンガ国内避難民キャンプにたどり着いた。そこに暮らす大多数が、シンジャルから逃れてきたヤズディ教徒だ。故郷を追われ11年が経つが、誰もが戻れるほど情勢が安定しているとは言い難く、いまだナティーファさんを含め約8,800人(2024年12月時点)が、郊外に位置するこの乾いた大地の上で、避難生活を送っている。

ルワンガ国内避難民キャンプの一角で。(安田菜津紀撮影)

キャンプの片隅にあるコミュニティセンターを訪れると、プレハブの施設から、アップテンポの音楽と共に、「バチン!」とミットを弾く小気味良い音が響いてきた。グローブをつけた女性たちに、「ジャブ!ジャブ!」とよく通る声で指示を出しているのはナティーファさんだ。この日は「ボクシング・シスターズ」のプログラムで、10名ほどがトレーニングに励んでいた。

ボクシング・シスターズのトレーニング。奥に立つベストを着た女性がナティーファさん。(佐藤慧撮影)

ナティーファさんはキャンプに避難後、戦争などの影響を受けたあらゆる人々を、地域に根差して支援する団体「ザ・ロータス・フラワー」にボランティアとして関わり始めた。キャンプの少女たちができるスポーツ活動を考える中で、ナティーファさんの脳裏には、子ども時代の思い出がよみがえった。

かつて叔父の家の木にはサンドバッグが吊るしてあり、トレーニングする叔父の見よう見まねで、ナティーファさんもパンチを繰り出していた。母に「そんな危ないことをして」と言われても、気に留めなかった。それは、自分を解放できるひとときでもあったのだ。

2018年、「ザ・ロータス・フラワー」は、イギリスから元プロボクサーのキャシー・ブラウンさんをキャンプに招き、ナティーファさん自身が指導者になれるよう、トレーニングの機会を提供した。「ボクシング・シスターズ」プログラムの始まりだった。以来、ナティーファさん自身が指導者として、キャンプの少女たちのトレーニングを担い、受講した女性たちはのべ400人以上にもなる。

パンチに限らず、ときにキックの指導もある。多彩な技を繰り出すシスターズたち。(安田菜津紀撮影)



“パワー”は男性の特権ではない

「このプログラムが、最初からすんなりとコミュニティに受け入れられたわけではありません。あまりにも多くの女性や少女が、誘拐され、暴力を受けてきたのです。ここは安全な場所であり、この場を提供しているのは誰なのか、地道に周知し、少しずつ参加者を増やしていきました」

「ボクシング・シスターズ」開始当初のことを振り返りながら、ナティーファさんは続けた。コミュニティが負ってきた恐怖やトラウマの問題に加え、保守的な社会の中で、女性たちが自らを解放できる場は、圧倒的に欠如していた。

「ISに捕らえられ、何年も支配下に置かれた女性たちもいます。そんな彼女たちに心理的なケアが必要なことはもちろん、女性は多くのことができるのだと、このプログラムを通して伝えたいと思ってきました。“パワー”は男性たちの中だけにあるのではありません。その内なる力を引き出すことは、彼女たちが殻から抜け出す後押しとなるはずです」

インタビューに応じるナティーファさん。(佐藤慧撮影)

「ザ・ロータス・フラワー」は、ほかにも社会的、心理的支援プロジェクトとして、ナティーファさんとともに女性や少女たちのメンタルヘルスサポートのためのヨガプログラムなどを行い、女性たちに個別のケアや、グループセラピーを提供してきた。英語の授業、手工芸やアートワークのセッション、その作品の展示なども続けている。

「女性たちには、頼れる人や相談できる人がいない場合や、経済的に精神的なケアを受ける余裕がない場合もあります。そうした機会を提供しながらも、これまでとは違う方法で、内面を表現できる場が必要であると感じてきました」と、プロジェクトコーディネーターのハラット・オマルさんは語る。

女性たちが手がけたアートワークの一部。(安田菜津紀撮影)



ボクシングは人生を変えるから

トレーニング後、飲み物やお菓子を片手に、参加者たちにこのプログラムについての感想を聞いた。みな、一日の中で、この時間を待ちわびているのだと口々に語る。

「ここに避難したばかりの頃は、どこにも行く場所がありませんでした。キャンプには、女性や女の子が楽しんだり、くつろいだりする施設がなく、近所にも出かけられませんでした。でも、ナティーファさんが、このプログラムへの参加を強く勧めてくれたんです。ボクシングは人生を変えるからと」

「これは、社会に対しての挑戦でもあります。なぜなら多くの人が、ボクシングは“男性だけのもの”だと思っているからです。私にとってボクシングは、地域社会と交流し、人々と新しい関係を築く大切な手段なのです」

「最初は、ボクシングがどういうものかも全く知らず、とても緊張していて……。でも参加するごとにエネルギーが湧いてきました。そして今は、世界で最も勇敢なトレーナーのひとりになるという、そんな夢を持っています」

ナティーファさんと「シスターズ」の夢は、いつかイラクを飛び出し、国際的な試合に参加することだという。

私(安田菜津紀)自身もボクシングを続けているが、それは「私の体は私が決める」という自己決定の形でもあることを実感する。「ボクシング・シスターズ」の取り組みも、「女性はこうあるべき」という、型にはまったジェンダーロールへの挑戦であり、自己決定を阻むような支配を跳ね返す、抵抗とその連帯でもあるのではないだろうか。



Writerこの記事を書いたのは
Writer
フォトジャーナリスト安田菜津紀Natsuki Yasuda

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』(ヘウレーカ)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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