最近政治家の書いた本を興味深く読むことが多いが、このサッチャー回顧録も結果的には非常におもしろく読んだ。
一流の政治家の回顧録というのは、学者の本と全くことなる面で非常に印象深く訴えるものがある。一国のリーダーであれば、彼あるいは彼女の判断は国民全体の運命に波及するので、当然ながら責任は極めて重い。しかもどんな国であっても難問はつぎからつぎへとおかまいなしにやってくる。しかも現実の政治の世界では、学問的に正しい解答を得るには条件が揃わないのが普通である。それらの困難な問題に対して敢然と立ち向かい、知恵を振り絞って身を張って判断を下し、勇気をもって実行してゆくというのは、その人の思想・信条の是非、結果の成否を超越して、人間の精神活動がなしうる最高の機能を示すもののひとつである。
この回顧録を読むと、サッチャーは権力を得るために首相になったのではなく、自分の考え、政策を実現するために首相になったのであることがよくわかる。この点はリチャード・ニクソンが「指導者とは」で述べている「優れたリーダーは権力そのものに固執するからトップに執着するのでなく、自分の政策が最も優れていて、それを実現するために自分が権力を持つことがもっとも良いと信ずることができるからそうするのである」というとおりである。サッチャーの政治に対する基本的な姿勢は終始非常に明確である。共産主義や社会主義を、全体主義に通じる人間性の抑圧と経済的貧困をもたらす根本的に誤った思想であるとする。経済の活性化のためには、自由競争を基本とする「他者に依存しない」企業家の活発な自主的活動が決定的に重要であるとする。世界平和の達成のためには、核兵器を軸とする強力な抑止力の確保と「強い」アメリカの主導権が絶対的な必要条件であるとする。国家の基盤はウエストファリア体制で確立した「主権国家」に置くべきで、抽象的な「超国家的」連合である欧州連合などは現実的でないとしてあくまで反対する。彼女はこれらの自分の政治姿勢を現実の英国に実現するために10年余りにわたって政権を担当し、かなりの範囲まで実現した。
この回顧録が非常に明確で、驚くほど率直かつ正直なのも、政治哲学が強固に確立しており、絶対的な自信があるからであろう。その点は、いかにサッチャーに思想や政策で反対の人々も、認めざるを得ないと思われる。本のなかで、彼女はまだ生存する人々をも遠慮なく非難するし、攻撃もする。反論があれば、いつでも受けて立つという姿勢である。自分がやってきたすべてのことに、自分の思想の裏付けがあり、ゆるぎない一貫性があることが重要なのである。自分の思考も感情もそのまま記述する。けれどもそんなに後味の悪いものとならないのも、私心のない率直さと立場の明確さ故である。
会社の経営も国家の政治も、確実な判断に必要な条件が揃わないときにでもなんとか判断を下し、切り抜けてゆくことが普通であるが、その判断において、明確な思想あるいは主張を持っていることは決定的に重要である。わが国の政治家も実は明確な主張を持って政権を目指しているのかもしれない。けれどもこのような明確で詳細な回顧録がいまだ存在しないために、何を考えて政治しているのか、たとえ事後であってもわからないままなのである。やはりリーダーは、まず権力なり立場なりを得たあとで出くわす問題をなんとかこなしてゆくというだけではなく、その下に従う人々に、あらかじめどのような基本的な考え方のもとで行動するつもりなのか明確に説明すべきであろう。わが国では、企業においても、政治においても、そのような文化が未成熟であることは否めない。この観点から、少なくとも政治の世界において、イギリスが日本より多少は進んでいるというのは、森島通夫先生のおっしゃるとおりであると思う。
さらにこの本を通じて、私は日頃の世界的なレベルでの政治の不勉強をかなり補うことができた。とくに欧州連合に関して、ドイツ統一の問題、欧州統一通貨の問題、同じ欧州共同体のなかの、フランス、イギリス、ドイツ間の歴史的事情にも関与する緊張関係というのは、これまであまりよくわからなかったが、少なくともイギリスから見た問題について、ひとつの重要な側面を知ることができた。
「国家のリーダーは孤独であると言われるが、実は真の友人を獲得する非常に良いチャンスに恵まれている」とヘルムート・シュミットは言ったが、サッチャーも厳しい政治のやりとりを通じて、自国内の一流政治家、さらに世界のトップたちとさまざまな交友関係を楽しんでいる。「思想や政治的立場を越えて、私はある政治家を好きになることがある」というのもシュミットやニクソンと共通の認識である。首相辞任にあたっては、彼女自身がいうとおり多くの不満があったとしても、自分の考えを徹底して主張し、実現していった、あるいは少なくとも実現しようと誠心誠意努力しつづけた、ダウニング街の10年は、彼女にとって厳しく多忙な大変な日々ではあったとしても、誰にも誇れる最高の自己実現の日々であったことは明らかである。
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サッチャー回顧録 上 普及版: ダウニング街の日々 単行本 – 1996/9/1
マーガレット サッチャー
(著),
石塚 雅彦
(翻訳)
- 本の長さ550ページ
- 言語日本語
- 出版社日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
- 発売日1996/9/1
- ISBN-104532162009
- ISBN-13978-4532162009
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
共産主義の破綻、ソ連・東欧圏の崩壊、世界的な市場経済への転換という歴史の大変化の中で、イギリスの首相として、国内の世界のあらゆる問題に激しく取り組んだ著者が語る歴史の真実。93年刊の普及版。
登録情報
- 出版社 : 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版; 普及版 (1996/9/1)
- 発売日 : 1996/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 550ページ
- ISBN-10 : 4532162009
- ISBN-13 : 978-4532162009
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,496,418位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 274位ヨーロッパのエリアスタディ
- - 1,605位政治史・比較政治
- - 10,829位政治入門
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- 2014年11月20日に日本でレビュー済みAmazonで購入読みやすくきれいでした。挿し絵がない本ですのでせめても綺麗なのが良かった。
鉄人サッチャーの意志がよく出ている、めいしょです。
- 2010年4月13日に日本でレビュー済みAmazonで購入在任中は毀誉褒貶が激しかったサッチャー元首相の回顧録。いまは認知症にある彼女ですが、首相在任中の決断力と鋼のような意思の力に感服しました。民主党の鳩山政権は彼女の爪の垢でも煎じて飲んでほしい。批判や不平不満が出てくることを覚悟の上で、取り組まなければならない課題には挑戦する。そんなサッチャー元首相の政治家としての資質には見上げたものがあります。労働組合や急進左派、旧ソ連への激しい批判的な姿勢は、30年前には物議をかもしましたが、いまとなっては彼女の見立てや振る舞いのほうがおおむね正しかったといえるでしょう。
- 2014年5月18日に日本でレビュー済みAmazonで購入思ったほど面白くなかったです
興味深いところもあるのですが...
- 2016年2月8日に日本でレビュー済み500ページを超える大作だが、非常に面白く読むことができた。
まだこれで前巻だと言うからあまりにも濃密で長い。
この人の政策には評価できないところも少なくない。強すぎる自由経済主義
が富の偏在や社会不安に繋がったともいわれている。現実に本人の死亡に
際しては、国民から祝福の声が上がった。
しかし、フォークランド戦争での決断、政府予算の削減など強いリーダーだった
のは誰もが認めなければならないだろう。強いリーダーだからこそ、あそこまで
嫌われたともいえる。
同じように北朝鮮の拉致や事業仕分け、震災での日本のリーダーの対応を見て
いるとあまりの違いに愕然とする。部下である大臣がふがいなかったり、裏切り
など閣内をまとめるのにも苦労しており、苦難の連続であったことが分かってしまう。
冷酷な人間だと言われてたが、フォークランド戦死者の遺族に手紙を書いたり、犠牲者
が出るたびに心を痛めた思いが伝わる。
- 2012年3月4日に日本でレビュー済み政治家にとって、サイレントマジョリティの立場に立つことと、信念を貫き通すことの重要性を本著は語ってくれる。
政権交代後豹変した民主党は、この本を読んで初心に帰るべきだろう。