オッケー、やりかけベスター終わったぜ。
終わったんだが……
ワタクシいま、なんとも言えない喪失感と怒りの混在するワナワナ感にうちふるえておりますわよ、まったくちょっとアルフレッドくん、これ一体何ですのん?
というわけで、中身にあわせて邦題かえました。
アルフレッド・ベスター『ローグとデミ:はちゃメタ♡恋のだましあいっ!』(pdf 1.8MB)
だってホントにそういう話なんですもん。プンプン。訳し終わっての脱力感、ちょっとわかっていただけます? おいベスター、てめえ、これが遺作でいいのかよ! いまからでも生き返って、最後にドーンと力を見せてくれよ(涙)
失望と絶望と恐怖にうちふるえたい人は、お読みくださいな。なお、読んでこの邦題が不当だと思ったら、好きに変えてくれていいよ。ワードのファイルが以下にあるから。
https://cruel.org/books/BesterDeceivers/Bester_Deceivers_j.docx
そしてこんな邦題になり山形がワナワナしている理由をてっとり早く知りたい方は、以下の訳者解説お読みアレ。訳す前に知ってたんじゃないの、と言う方、もう読んだのが前世紀で、最後にデミがコンピュータから出てくるところしか覚えてなかったのよねー。でもなんかお蔵入りにした理由を思い出したような気がする。
訳者解説
本書は Alfred Bester, The Deceivers (1981) 全訳である。翻訳には昔持っていたどこかのソフトカバー版と、Kindle版を使っている。邦題は、直訳すると『詐欺師たち』『騙す者たち』となるが、それでは題名としてあまりにすわりが悪いのと、以下で述べる訳者の不満から、勝手に変えた。別に商業出版ってわけじゃありませんから、好きにさせてもらいますね。読み通した方は、ご自分なりの好きなものにしてくださって結構。
アルフレッド・ベスターと言えば、かの名作『虎よ、虎よ!』の作者であり、また晩年にはあの怪作『ゴーレム100』を執筆したことでも知られ、ワイドスクリーン・バロックの筆頭格。次々に放出されるきらめくようなイメージとアイデアの数々、そこに散りばめられた、俗悪さと文学的なイメージの混在、それをつなげる古典的な英雄譚じみた軽薄きわまるストーリー。ベスターのこの作風は生涯変わらず、余人の追随を許すものではない。
本書はそのベスターの遺作となる。そこには上にあげた要素がすべてつめこまれている。
そして……本書はとんでもない愚作である。
お話は……ネタバレ注意ではあるが、正直いってそんな、すごい(良い意味で)驚きのネタがあったりはしないので、ネタバレ上等。
ときはすでに人類が宇宙進出を果たしたいつやらの時代。新規に発見された反エントロピー触媒メタのおかげで地球の各種民族は、太陽系各地にドームを作り、いまの民族構成を維持してそれぞれナショナリズム/エスニシティに基づくドームで暮らしている。主人公ローグ・ウィンターは、何やら能力開発実験を受けつつ事故でマオリ族のドームに引き取られ、その王族の養子として育てられたが、すべての隠れたパターンを感知する能力により金も女もウハウハで、お気楽ジャーナリストとして暮らしている。
それが何やらですな、王位継承をめぐる暗殺未遂にあったと思ったら、いきなり何の伏線も前置きもなしに、天王星のチタニアで生まれた、何にでも姿を変えられる異星人デミに惚れられて、その日のうちにくっつき、故郷に帰るとマオリ王位を継承する。ところが戻ってみると、デミが誘拐された模様。実はそこには、メタを独占するジャップとチャンコロどものあいのこであるジンクどもが、そのメタの密売の主力たるマオリ・マフィアを潰そうとする陰謀があったらしい!
そこでウィンターは彼女を取り返すべく、ジンクどもの本拠タイタンに乗り込み、その親分たるフー・マンチュー (仮名)と対決。つかまったふりをしつつ、悪者が最後に本拠に意味もなく案内してあらゆる陰謀をペラペラしゃべってくれるというトホホな定石を経て、偶然が百個重ならないと実施不可能な裏の作戦のおかげで逆転して相手を捕まえるが、実はそいつらはデミの身柄を確保していなかった。実は彼女はバイオコンピュータの一部となって、ウィンターの家のマシンにずっと隠れていたのだ! そのパターンを見分けたウィンターがキーボードを叩くと、マシンの中でコードが細胞分裂を起こして、ジャジャーン! デミがスクリーンを破って飛びだして復活し、子どもも生まれました〜! めでたし、めでたし。
……なにがめでたしだよ。なんかここまでいい加減な話を読まされると頭に頭痛がしてくる。ラスボス対決のあまりにご都合主義、さらにそのための設定は実はまったく意味がなく、ガールフレンドは実は何の危機にもさらされておらず、最後にあっさり出てきておしまい。じゃあこの物語すべて、何も意味ないだろう! なんなんだよ!
持ち味としては、あの『コンピューター・コネクション』に似ていなくもない。主人公は悠々自適、あるときできた友人を不死人に仕立てようとする事故をきっかけに、新たな身内の騒動に巻き込まれることになる。不死人たちのつくる衒学的なソサエティ、その中での争いと、コンピュータとの新たな共生。無数のアイデアがほとんど行きがけの駄賃のように投げ散らかされる。だが『コンピューター・コネクション』は、多少は人間とコンピュータ知性体との関係をめぐって、少しは考えた形跡があった。一応、話の主要な要素がきちんとからみあい、そこにダジャレもまぜこんでまとまりを見せていた。
ところが本書は、アイデアとすら言えない思いつきがその場限りで投げ出され、それが何にも貢献しない。ずいぶんページを割いて一時的にストーリーの中心となっていた部分すらそうだ。王族の後継者争いの殺し屋対決はどうなった? 何も。本書の狂言まわし役の諜報部員オデッサが、女子大生時代にフー・マンチューの仮の姿だった質屋から教えを受ける章があるが、そのからみもその後、一切意味を持たない。つーか、そのオデッサ・パートリッジもほとんど何の役も果たさず、途中で『クリスマスの12日』の仕掛けで最後に「梨の木のパートリッジ」というダジャレを出すためだけにいるようなもの。ローグが感応しているとされる宇宙意志ことアニマ・ムンディとやらも、結局何も意味をもたない。あれも、これも、何の意味もない。
いやベスターはそういうもんだろ、という異論は認める。もともとベスターは、上述のワイドスクリーン・バロックの旗手で、緻密に構築された話を書く人間ではない。目先のやりすぎなくらいの派手派手さぶりが身上とすら言える。『虎よ、虎よ!』で出てくる、へんな上流階級パーティーのまったく無意味な豪勢ぶりとか。
だけれど、一応そうではない部分もある。メインのストーリーは、雑でいい加減とはいえ、ある種の強さがあった。『虎よ、虎よ!』は、ガリー・フォイルの絶望と怒り、社会的格差に対する不満、そしてそこから最後の人民への信頼に到る軋轢と葛藤に、いかに雑とはいえ読者の共感があった。『破壊された男』は、やはり管理社会とそれに対する反発がベースにあり、それが読者の中二病精神をいやがうえにもそそる。『ゴーレム100』は、スラム化した社会と超ハイソの有閑マダム群、そいつらの生み出すイドの怪物という設定自体が迫力を持っていた。
それがこの作品はなんだい。主人公さん、勝手な能力もらってお金持ちで王族、いいご身分ですねえ。そして女の子は勝手に向こうから告白して股を開く。なろう系のラノベでも、ここまで安易な設定はなかなかないぞ。自分の属するマオリ族がマフィア商売をやっていて、それがジンクどものメタ資源独占と衝突——で、そのメタ商売をめぐる対立はどう解消されるのかというと……解消されないんだよ。フー・マンチュー捕まえたら、そっちの話は全部消え、「協議中です」の一言で片づけられる。別にベスターの小説に社会問題への洞察を求めるつもりはないんだが、話の決着くらいはつけてほしいと思うのは人情ではないの? 表向きだけでも資源配分の新たな方向性くらい、あってもいいんじゃないの?太陽系の命運を左右する資源の支配力を得たら、少しはそういうこと考えないの? ところが何もないんだよなー。主人公は徹頭徹尾、自分のことしか考えない。ガールフレンド回収だけ。それでいいんですか?
また書きぶりについても、華やかさはまったくない。それこそ『虎よ、虎よ!』がブレイクを持ち出したように、文学的に華やかな表現や言及はベスターの身上の一つであり、ディレーニを始めインテリがベスターを誉める理由にもなっていた。それは本書でも、決して不在ではないんだが……だれも気がつかないというか気にもしないだろうけれど、文学的な仕掛けとしてウィリアム・S・バロウズの影響は明らかだ。だがバロウズのいいところではなく、悪いところばかりを持ってきている。デミがめぐる夜の町での、へんなおかまショーまがいの裁判や殺し合い、ウィンターがやけ酒をあおる中で出てくる下品な酒場とドリンクの数々、ジンクの (人種ステレオタイプてんこ盛りの) ドームで展開される首つりゲームにお下劣な群集……そんなところをバロウズからもってきてどうする! かつてベスターはインタビューでバロウズについて「こんな霊感に満ちた文章が、と思ったらすぐにこんなゴミクズがなぜ? あの子の編集者は何をしてたんだい」という感想を述べていたそうだが、まさか彼が霊感に満ちたと思っている部分が、ぼくにとってのゴミクズの部分だったとは、まったくの予想外ではあった。
なぜこんなものが出たのか、ベスターも出版社もこれをボツにしなかったのか、というのは謎ではある。欧米では、晩年の諸作については罵倒が多く、本書については『ゴーレム100』がペーパーバックになるのにあわせて、話題作りのプロモ用に出しただけろう、という邪推が述べられていたが、結構そんなところなのかもしれない。またベスターは、本書が出てしばらくしてから妻を失い、その後自分もかなり体調を崩し、特に目をやられてあまり執筆できない状態だったようで、これが最後になるという予感もあったのかもしれない。
そしていつかこの邦訳が商業的に出版される可能性は……ほぼないだろう。小説としてのできの悪さに加えて、特に第10章で展開される、ジャップとチンク (どっちもいまは発禁ものの差別用語)の合体したジンクたちを筆頭に、あまりに人種ステレオタイプに満ち満ちた、どこかで聞きかじってきた誤解だらけの野蛮な風習の羅列は、人種ネタの悪口が好きなぼくですらちょっと唖然としてしまう。これが許されたのはペリーの時代まででしょー。ベスターは長いこと、パルプ小説のテレビ版脚本などをやっていたけれど、その感覚がほぼそのまま。いまはよほど他の部分での価値がない限り、どこも出す気にはならないでしょ。
あ、でもね、バイオコンピュータのアイデアとか、バイオコンピュータの暗黙のネットワークとその上のSNSみたいなコンピュータ同士のゴシップ網とか、最後のコンピュータから彼女が飛びだしてくるところとか、ラノベ風のサイバーパンク先取りみたいで、ベスターの先駆性が遺憾なく発揮……されてねえよ! ある意味で、『コンピューター・コネクション』に登場した、人間とつながるコンピュータのイメージをさらに先に進めたと言えなくもないけど、言ってどうする。
ちなみにその『コンピューター・コネクション』の訳者あとがきを見ると、野口幸夫はどうも本書の翻訳に取りかかっていたらしい。本書そのものにとどまらず、そこに出てくるダジャレにまでいくつか触れたりしているからだ。確か本書もサンリオSF文庫の近刊予告に出ていたように思う。それが出なかったのは、よかったのか悪かったのか。だが、それを残念と思い、本書がまだ見ぬ傑作ではと夢見ていたベスターファンのあなた (ぼくもそうだった)、夢を壊すのは気が進まないながら、彼の遺作はこういう小説だったのです。Now you know. 知らぬが仏ということばの意味を、みなさんも是非噛みしめていただきたい。
なお、第10章のへんな中国語もどきの漢字復元は、高口康太氏、乙井研二氏およびChatGPTさんにお世話になった。なんせ1980年代初頭なんで、表記もピンインではなくウェード式、しかも元の中国語がかなり怪しい状態。みなさんのご協力なくしては、それっぽく直すのは不可能だった。ありがとうございます!!
2025年1月12日
山形浩生 [email protected]