逢神記

神と仏は水波の隔て

大倭国(奈良県)

イワレビコ神武天皇紀伊国(和歌山)の熊野を越えて、倭国・宇賀志(奈良県宇陀市に入り、吉野を制圧します。

そこで霊夢により、部下に命じて大和三山・天香具山(やまと さんざん・あめ の かぐやま)の埴土(はにつち)を採取させ、丹生川の夢淵で祭祀を行います。

イワレビコは埴土で厳瓮(いつへ・壺)と、平瓮(ひらか・皿)を80枚作り、夢淵に沈めて今後の吉凶を占ったとされています。

 

夢淵の近くに水神宗社と名高い丹生川上神社・中社(にう かわかみ じんじゃ・なかしゃ)があります。

 

丹生川上神社上社・中社・下社の三社からなり、上社は大滝ダムの近くにあります。

 

下社修験道大本山である大峰山(おおみね さん)の西側、天河弁財天(てんかわ べんざい てん)から約14kmの所にあります。※祭祀が行われたのは、談山神社(たんざん じんじゃ)の北にある丹生神社だとする説もあります。

 

天神の加護を得たイワレビコは大倭の豪族に連戦連勝、宿敵ナガスネヒコにも勝利して、ついに大倭国を平定します。

平定後、大和三山・畝傍山(やまと さんざん・うねび やま)の東南に橿原宮(かしはら の みや)を造営し、ヒメタタライスズヒメを正妃に迎え、初代天皇に即位します。

橿原神宮は1890年の創建ですが、神武天皇の即位は紀元前660年2月11日とされており、そしてそれは日本国が始まった年でもあります。

 

神武天皇陵(じんむ てんのう りょう)は、橿原神宮のすぐ側にあります。

 

神武天皇の皇后となったヒメタタライスズヒメは、三輪山山頂に祀られる大三輪神の子とされています。三輪山の麓にある大神神社(おおみわ じんじゃ)は、拝殿から御神体三輪山を礼拝する、原初の信仰の姿を残しています。

 

大神神社から約9km離れた所に、神武天皇タケミカヅチから授かった霊剣・フツノミタマを祀る石上神宮(いそのかみ じんぐう)があります。

石上神宮には布留の言(ふる の こと)と呼ばれる鎮魂法が伝えられており、この術には天孫ニギハヤヒが持つ十種神宝(とくさ の かんだから)が関係しています。

ニギハヤヒ神武天皇の先祖・ニニギよりも先に天下った神で、ナガスネヒコの主君でもありました。

 

神武天皇以降の天皇は、それぞれ大倭国内の好きな場所に皇居を造営していましたが、それは皇祖神・アマテラスを祀る場所が頻繁に変わるという事でもありました。

流石に不都合と思ったのか、第40代・天武天皇(てんむ てんのう)は、日本初の首都・藤原京(ふじわら きょう)の造営を開始しました。

また、日本書紀古事記の編纂(へんさん)を始めたのも天武天皇であり、これらの大事業によって日本国としての形が定まりました。その後、首都は藤原京から平城京恭仁京長岡京平安京と遷都され、現在の皇居は東京にあります。

紀伊国(和歌山県)

美々津から出征したイワレビコ神武天皇は、豊国(大分)筑紫(福岡)、安岐(広島)、吉備(岡山)、浪速(大阪)と、船団を進めていきました。

当時の浪速(大阪)は、生駒山の手前まで海(河内湾)だったため、船で進軍することができました。でも、潮流が激しく(浪が速く)、かなり手こずったようです。

生駒山を越えれば、目的地の大和(奈良)です。しかし、ここで大和の豪族・ナガスネヒコの軍勢と戦闘になり、退却せざるを得なくなります。

 

手痛い敗北を喫したイワレビコは、別のルートを求めて紀伊(和歌山)の海路を迂回しますが、イザナミの墓と言われる花の窟神社を過ぎたあたりで暴風雨に見舞われます。

 

これにより船団は壊滅し、イワレビコは熊野から続く陸路(山道)で、大和入国を目指すことになります。その際、タケミカヅチ神剣・フツノミタマを預かったタカクラジの助力や、熊野権現の神使(じんし)であるヤタガラスの導きを得たとされています。

イワレビコは、熊野権現が降臨したとされる、天磐盾(あまのいわたて)にも登っています。天磐盾は神倉神社(かみくらじんじゃ)御神体で、ゴトビキ岩とも言います。

 

神倉神社から約1km離れた所に、熊野三山の一つ、熊野速玉大社(くまの はやたま たいしゃ)があります。社殿の創設は第12代・景行天皇(けいこう てんのう)の時代なので、神倉神社を元宮(もとぐう)、速玉大社を新宮(しんぐう)と呼ぶそうです。

ここから約600m離れた所に、神武天皇・仮宮殿跡とされる渡御前社(わたり ごぜん しゃ)があります。

 

熊野速玉大社から約20kmほど離れた山中に熊野那智大社(くまの なち たいしゃ)があります。記紀によると、イワレビコ那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧を探り当て、神として祀ったと記されています。

今でこそ熊野三山の一つに数えられていますが、元は那智の滝から始まった古代山岳信仰の行場です。

 

熊野那智大社から熊野古道・中辺路(なかへち)を約40km歩いた先に、熊野本宮大社(くまの ほんぐう たいしゃ)があります。

元は熊野川の中州、大斎原(おおゆ の はら)に本殿がありましたが、明治時代の水害で殆どの社殿が流されてしまい、現在地に移転することになりました。

御祭神の家都美御子大神 (けつみこ の おおかみ)スサノオと同神で、この地が荒れているのを嘆き、自ら木を植えたことから、木の国(紀伊ノ国)になったのだとか。

 

ナガスネヒコに敗れ、熊野で暴風雨に遭い、同行した四皇子の兄も全員亡くなるなど災難続きのイワレビコでしたが、このあたりから神々の助力を得始めます。

記紀神話では、険しい熊野山中で進退窮まった時に、霊夢によりアマテラス(もしくはタカミムスビ)からヤタガラスを遣わされたと記されています。

また、奥熊野と呼ばれる玉置神社玉石社に神宝を置いて戦勝祈願をしており、イワレビコは徐々に神道の祭祀王(さいし おう)らしくなっていきます。

日向国(宮崎県)

古事記日本書紀記紀)によれば、日向国は初代・神武天皇が生まれ育った場所であり、神武東征(じんむ とうせい)のスタート地点とされています。

神武天皇は、父・ウガヤフキアエズ、母・タマヨリビメの第四皇子で、即位前はイワレビコと呼ばれていました。

生誕地は諸説ありますが、ウガヤフキアエズの宮殿が、宮崎県の佐野原聖地(さのはら せいち)にあったとされています。

 

高千穂(たかちほ)にある槵觸神社(くしふる じんじゃ)は、天孫ニニギノミコトが降臨した地と言い伝えられています。

ニニギノミコトが降臨したのは、本殿の裏にある槵觸山の槵觸岳(くしふる だけ)とされており、その為、長らく槵觸山は神体山として信仰されてきました。

槵觸山には、神武天皇ゆかりの四皇子峰(しおうじ が みね)もあります。

 

高千穂は四方を山に囲まれた盆地であり、水量が豊富な五ヶ瀬川(ごかせがわ)や、天然の湧水にも恵まれています。また、冬は雲海を見ることもできます。

他の豪族から民を守りつつ、狩猟や農耕に勤しむのに適した場所なので、ここが選ばれたものと思われます。言わば隠れ里ですね。

とにかく坂が多い土地なので、正直、住み易いとは言えません。ですが、縄文後期や弥生前期の人達にとっては天然の要塞であり、安住の地だったのでしょう。

 

槵觸山の高天原遥拝所(たかまがはら ようはいじょ)は、パワースポットとして人気があります。2000年以上も前とされる建国初期の神話を、石碑・書籍・口伝ではなく、神社や信仰という形で残したからこそ、現代まで伝わっているのだと思います。

 

約1㎞ほど離れた所に、夜神楽(よかぐら)で有名な高千穂神社があります。毎晩20時より1時間公演されているので、興味がある方は是非。

 

槵觸神社から約7㎞ほど離れた所に、アマテラスがお隠れになった天岩戸窟を祀り、遥拝するための天岩戸神社(あめの いわと じんじゃ)があります。岩戸川を挟んで、北に西本宮、南に東本宮があり、日中は大勢の参拝客が訪れます。

 

西本宮から少し歩いた所に、天安河原(あまの やすかわら)があります。ここはアマテラスがお隠れになった際、神々が「どうすれば出てきてもらえるか?」を審議した場所と言い伝えられています。

 

東本宮は、御神体である天岩戸窟がある方の対岸に建立された神社です。西本宮に比べて参詣者が少なめなので、個人的にはこちらの方が好きだったりします。

 

成長したイワレビコは、地元・日向のアヒラツヒメを娶り、宮崎神宮か、高千穂神社がある場所に宮殿を作って、兄や子を集め、東征の構想を練ったとされています。

 

宮崎神宮から約1㎞ほど離れた所に、皇宮神社・皇宮屋があります。

 

美々津(みみつ)には、力を蓄えたイワレビコが海軍を作り、大和に向けて出発したとされる立磐神社(たていわ じんじゃ)があります。記紀に美々津の名は出てきませんが、境内には神武天皇が腰かけたとされる磐座(いわくら)があります。

立磐神社の例大祭では、神武出立由来のおきよ祭りが斎行されています。