「新潮45」の特集記事がまたしても炎上している。
事情を知らない読者のために、以下、炎上に至った事情を簡単にまとめておく。
- 今回の騒動の前段として「新潮45」8月号に、自民党の杉田水脈衆議院議員が寄稿した記事(「生産性のない」LGBTへの優遇が行き過ぎであることや、LGBTへの税金の投入を控えるべきであることなどを訴えた小論、タイトルは「『LGBT』支援の度が過ぎる」)が各方面から批判を浴びた件がある。これについては、7月の時点
で小欄でも記事を書いているので参照してほしい(こちら)。 - 「新潮45」今月発売号(10月号)が、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という「特別企画」を組んで計6本、総ページ数にして37ページ分の擁護記事を掲載した。
- この特集記事に各方面から批判が集まった。
- 新潮社の出版部文芸の公式ツイッターアカウントが、「新潮45」発売日である9月18日の直後から、同編集部への苦言や、杉田論文批判への反論記事への批判を次々とリツイートしはじめる(こちら)。
- 新潮社の公式アカウントの行動に、岩波書店、河出書房新社などのツイッターアカウントが連帯の意図を表明し、さらに波紋が広がる(こちら)。
現時点で私が把握しているのは、こんなところだ。
私の個人的な立場を説明しておく。
基本的な感想は、7月27日更新の記事に書いた内容とそんなに変わっていない。
杉田論文が「論外」で、「お話にならない」という見方に変更はない。
前回の記事中で私がとりあえずの結論として提示した
「杉田論文が陋劣かつ凶悪であることはもちろんだが、それ以上に自分を絶望的な気持ちにさせているのは、杉田議員が論文の中で展開してみせたのと同じ『生産性』を至上とする市場的な人間観を抱いている日本人が、決して少数派ではないように見えることだ」
という認識も基本的には変わっていない。
大切なのはこの点だ。
問題は杉田論文が陋劣で邪悪で低レベルなことではない。主たる問題点は、杉田論文が大変に人気のあるご意見であるというところにある。つまり、真の脅威は、杉田論文ではなくて、論文の背景にある巨大な勢力だということだ。
おそらく、「新潮45」の編集部には、
「杉田議員の論文に共感した」
「あの記事には間違いなんかない」
「周囲の雑音にひるまずに今後も思うところをまっすぐに主張してほしい」
といったような電話やメールがそれなりのボリュームで寄せられたはずだ。
だからこそ、編集長は、批判への反論特集などという無謀極まりないガソリン散布企画を発案するに至った……と、おそらく、事情は、そういうことだ。
実際、ネット内をちょっと巡回してみれば、杉田論文の正しさを訴える言説はいまだに衰えていない。
それほど、彼女の主張には根強い人気がある。
というよりも、杉田水脈氏があの論文の中で開陳していた世界観ならびに人間観は、現代の日本人のマジョリティーの意見でこそないものの、一方の声を代表する典型的な見解ではあるわけで、つまるところ、われわれはそういう国の国民なのである。
杉田論文のどの部分がどんなふうに間違っていて、どのように有害であるのかについては、7月の記事でもある程度書いたし、私以外のたくさんの優れた論客が様々な場所で、完全に論破し去っていることでもあるので、ここでは、あえて蒸し返さない。
杉田論文への批判に再反論してみせた小川榮太郎氏の記事をはじめとする「新潮45」10月号の特集企画の中の記事群が、どれほどちゃんちゃらおかしくて馬鹿げているのかについても、あえてくだくだしく論じようとは思っていない。
理由は、それらが「反論が論敵の利益になる」ほどに、馬鹿げた議論だからだ。
以下、「反論が論敵の利益になる」事情について解説する。
「反論さえもが論敵の利益になる」議論の例として、たとえば、「ホロコーストは存在しなかった」という定番のデマがある。
この種の、立論の根本のところが完全な虚偽で出来上がっている話題では、発信力のある人間が論争に巻き込まれること自体がホロコースト否認論者の利益になる。というのも、論争をしているということがそのまま
「ホロコーストの存在には議論の余地がある」
ことの宣伝として利用され得るからだ。
なんというのか、本来議論の余地などひとっかけらもありゃしない問題について論争してしまっている時点で、「そこに議論の余地がある」ことを認めていることになるのである。この罠にハマってはならない。
ホロコースト否認論者や、関東大震災後の朝鮮人虐殺の存在を否定する人々は、機会をとらえてはフォロワーの多いアカウントに議論をふっかけてくる。この種の煽りに乗せられるのは、愚かなリアクションだ。
彼らにしてみれば、相手を論争に引っ張り込むことができさえすれば、たとえ完膚なきまでにやりこめられる結果になろうとも、一定の利益を享受できる。なぜというに、論争を眺めている見物人の中には、あっさりやりこめられている側に共感するタイプの人間もいれば、容赦なく他人を論破する論者に反発を感じるアカウントもそれなりには含まれているもので、そういう人々を幾人かでも味方に引き入れることができれば、はじめから論争が起こらないよりはずっとマシだからだ。
話がズレた。元に戻す。
ともかく、そんなわけなので、杉田論文を擁護している程度の低い論客を相手に議論をすることは、なるべくなら避けたいのだが、それでも、小川榮太郎氏の記事には、一言だけ反応しておく。
理由は、単純な話、腹が立つからだ。
いくらなんでも、ここまで低劣だと、読んでしまった人間の感情として黙って通り過ぎるわけにはいかないということだ。
全編を通じて、性別や染色体や性指向などなど、高校の生物の授業以前の事実誤認がちりばめられていることもさることながら、この人はなによりもまず「性的指向」と「性的嗜好」というLGBTを語る上での、最も基礎的な概念について、きちんとした区別がついていない。
あるいは、LGBTの人々をあえて「変態性欲」のレッテルのもとに統合するべくこの2つの概念を混同してみせているのかもしれない。
いずれにせよ、あまりにもレベルが低い。
特に以下の引用部分はとてつもなくひどい。
満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保証すべきではないのか。触られる女のショックを思えというのか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどのショックだ。精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。---略---》(「新潮45」 2018年10月号P88より)
この部分は、説明抜きで、そのまま引用してみせるだけで、そのひどさが伝わるパラグラフだと思う。
性的指向と、性的嗜好の区別がついておらず、さらには性的嗜好と変態性欲を意図的に同一視し、おまけに、LGBTと痴漢を同じカテゴリーの概念として扱い、かててくわえて、性的にマイノリティであることを意図的な犯罪者と同一視している。
さらに言えば、女性が痴漢に触られた時に感じる被害感情を、小川氏がLGBTが論壇の大通りを歩いている風景を見る時に感じる「死ぬほどのショック」とやらと同列に並べている。
あまりにもひどすぎて論評の言葉が見つからない。
こういうものは、ひどさを伝えるためには、ただ、虚心に読んでもらうのが一番良い。
だから、これ以上は何も言わない。
ツイッター上で話題の焦点は、すでに記事の内容のひどさを離れて、「新潮45」編集部の掲載責任の如何に移っている。
たしかに、記事の凶悪さと醜悪さは、もはや誰が指摘するまでもない水準にある。
とすれば、むしろ、こういう記事を載せてしまった編集部の責任を問う動きは当然の反応として出てくるはずだ。
ただ、私は、今回の騒動の焦点は、編集部が差別的な記事を載せたことそのものとは、少し違う場所にあるのではないかという気がしている。
「新潮45」の8月号に杉田論文が掲載された時、さるTV番組にコメンテーターとして出演していた同誌の元編集長でもある女性が、論文の掲載について意見を求められて、おおよそ以下のようなコメントを残している。
「杉田議員の発言はとんでもないと思うが、議員の発言を批判することと雑誌を問題視するのは別問題で、筋違いだと思う」
「雑誌というのはもともと雑多な意見を載せて、議論の場を提供する役割を担っているものだ」
私は、この名物女性編集者の見解を、必ずしも全面的には支持しない。ただ、この人の言っていることが、多くの雑誌関係者がそう思っているに違いない現場の本音であることは理解する。
雑誌は、そもそも雑なものだ。
掲載したテキストについていちいち責任を問われたのでは、編集者はやっていられない。
そういう部分はたしかにある。
事実、杉田論文はひどい文章だった。今回の擁護の記事群も輪をかけてひどい。
ただ、単に「ひどい」とか「差別的」だという話をするなら、ひどい記事は、これまでにもたくさんあった。その気になって探せば、他誌の中にも差別的な記事はゴロゴロ転がっている。
一例を挙げれば、「新潮45」よりもはるかに発行部数の多い「週刊新潮」で連載中の「変見自在」という1ページコラム(筆者は高山正之氏)は、毎度毎度杉田論文並みに乱暴だし、時には小川榮太郎記事も真っ青な差別的文言を撒き散らしている。
2年ほど前だったか、同コラム内に「帝王切開で産まれた子は人格的におかしくなるという説がある」という話から始まるとんでもない記事が載ったのを覚えている。この時は、さすがに同じ雑誌内で別のコラムを連載している川上未映子さんが、真正面から批判記事を書いていた。
ただ、この時は、川上さんが誌上で取り上げて、幾人かのツイッターユーザーがそれを話題にした程度で、たいした炎上にはならなかった。
ことほどさように、差別的な文章が、必ず炎上しているわけではないことを思えば、今回の杉田論文が特別に炎上したことを、雑誌の関係者が素直に受け止めきれずにいることには、ある程度仕方がない部分がある。
では、どうして杉田論文はあれほど大きく炎上したのだろうか。また、それを擁護した小川榮太郎記事は、さらに大きく炎上しているのだろうか。
以下、私の考えを述べる。
杉田論文はなるほど差別的だった。
ただ、誤解を恐れずに言えば、あの程度の差別的テキストは、そこいらへんの雑誌を丹念にめくってあるけば、そんなに珍しくない頻度で遭遇する程度のものでもある。
その、標準的に差別的な原稿が炎上したのは、まず第一に、書き手が国会議員だったからだ。
実際、同じ差別的言辞でも、そこいらへんの頑固親父ライターが署名連載コラムの中で書き飛ばすのと、国会議員が月刊誌に寄稿するのでは発信する情報の意味あいが違う。
しかし、それだけでもない。
ここから先が、杉田案件の肝だ。
結論を述べる。
私は、杉田論文があれほどに燃えたのは、あれが「総理案件」だったからだと考えている。
つまり、あの論文を書いたのが、安倍晋三首相のお気に入りの女性議員で、一本釣り同様の経緯で地方ブロックの比例第一に配せられた特別扱いの議員だったことこそが、見逃してはいけない背景だということだ。
杉田議員は、様々な場所で総理の内心を代弁する役割を担ってきた議員だった。だからこそ、あれを読んだ勘の鋭い読み手は、行間に見え隠れする総理の顔に、慄然とせずにおれなかったのである。
「もしかして、安倍さんって、こんなことを考えてるわけなのか?」
と直感的にそう感じた人々が、ある意味過剰反応した、ということだ。
経緯を振りかえってみるに、あの論文がさんざん批判されて問題視された直後、自民党内の反応は、何かを恐れているみたいに異様に鈍重だった。
二階幹事長が
「この程度の発言で、大げさな」
とすぐに擁護したのも、杉田議員が首相のお気に入りであることを踏まえた反応だと思うし、永田町の自民党本部前まで抗議に訪れたLGBTの団体の抗議声明を手渡そうとした時に、なぜなのか、担当の事務員が文書の受け取りを拒絶したことも、いまになって考えてみれば、当件が、ただの抗議事案ではなくて、「総理案件」だったからだと考えると辻褄が合う(こちら)。
その後、多方面からの苦情や抗議がさらに殺到したが、党の執行部は杉田議員を一向に処分しようとしなかった。
つい2日ほど前、安倍首相は、石破茂氏とともに出演したテレビ番組の中で、自らの言葉で杉田議員を擁護する姿勢を明確にしている。
首相は、番組の司会者の
「(杉田氏は)謝罪も撤回もしてませんよね? そして党としても処分していない」
という問いかけに対して、こう答えている。
《私の夫婦も残念ながら子宝に恵まれていません。だからと言って「生産性がない」というと大変辛い思いに、私も妻もなります。政治家というのは、自分の言葉によって人がどのように傷ついていくかということについては、十分に考えながら発言をしていくべきなんだろうと思います。私たち(は同じ)自民党ですから「あなた、お前、もうやめろ」というわけではなく、まだ若いですから、そういうことをしっかり注意しながら仕事していってもらいたいと、先輩としてはそういう風に申し上げていきたいと思います。》(こちら)
首相は、「自分たち夫婦も大変に辛い思いをしている」と、被害者のポジションに立ってみせつつも、最終的には杉田議員の不注意な発言をかばっている。
理由は、彼女が「まだ若いですから」ということにしているが、杉田水脈議員は現在51歳である。
比較的年齢層の高い議員が多いと言われる自民党の中でも、特段に若手というわけではないと思う。それでも、「若い」からと、安倍さんがなんとか杉田議員を擁護したのは、つまるところ、彼女が、自分自身の内心を代弁する存在だから切るに切れないのではないか。
「新潮45」の編集長が、世間からの圧倒的な逆風をものともせずに真正面からの反論企画掲載に打って出た理由も、結局のところ、杉田論文が「総理案件」であることにある程度気づいていたからで、要するに、編集長氏は、この反論企画が必ずや首相に気に入られることを知っていたはずなのだ。
特集の執筆陣も同様だ。
小川榮太郎氏は、肩書こそ文芸評論家ということになっているが、ググるなりウィキペディアを閲覧すればわかる通り、そもそも安倍首相の関連書籍が仕事の大半を占める書き手だ。
ということはつまり、このお話ははじめから最後まで総理案件で、反発している人たちが騒いでいる理由も、単に差別的だからという理由でもなければ、掲載責任や出版人としての良心がというお話でもなくて、この薄気味の悪い生産性差別物語の背後に、一貫して総理のご意向が見え隠れしていたからなのだ、と考えられる。
私自身、差別的なライターが差別的な文章を書いた程度のことで、いちいち驚いたりはしない。
700人からいる議員の中に、明らかな差別思想を抱いているらしい人間が幾人か混じっていることにも、いまさら驚かない。
ただ、もし仮に、総理大臣の職にある人間が、杉田論文を問題視しない考えの持ち主であったのだと考えると、やはり平静ではいられない。
とはいっても、やや長めのため息を吐き出す程度のことだ。
息を吐いた後は、大きく息を吸う。
私は大丈夫だ。
目は泳いでいない。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
かわぐちかいじさんのインタビューもあるぞ(目が泳いでいる担当編集)
小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ています。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。