
つい先日、経団連会長の会長執務室にこの5月、はじめてパソコンが設置されたという読売新聞の報道があって、その新聞記事のスクリーンショット(スクショ)を貼り付けたツイートが大量に拡散されている。経団連会長に就任した日立製作所の中西宏明会長がパソコンがないことに驚き、導入したのだという。
ネット内の人々の反応は
「えっ? いままでパソコンも使ってなかったわけ?」
「じゃあどうやって外部と連絡をとっていたんだ?」
という素朴な疑問からはじまって、やがて大喜利に発展した。
「経団連って竜宮城だったのか?」
「会長がメールアドレスを持つのもはじめてらしいぞ」
「ってことはつまり歴代のボスはメールを使ってなかったわけか?」
「もしかしたら、指示は竹簡に毛筆とかか?」
「移動は大名駕籠だな」
「まあ、ちょっと遠めの行き先には牛車ぐらい使ってると思う」
「実際、インターネットが来ない環境下で、外部とはどうやって情報交換してたんだろうか」
「秘書経由だろ」
「苦しゅうない近う寄れとかいって、耳打ちしてたわけだな」
「いや、セキュリティー的なアレを勘案するにパンパンって両手を打ち鳴らすと御庭番が石灯籠の陰から現れるシステムじゃないかな」
「だよな。だからこそ経団連ビルの会長執務室には石灯籠付きの庭と天井裏と床下を設営することが必須だったわけで、してみるとパソコンの設置が後回しになってたのも当然だわな」
「側女(そばめ)もな」
「この際ソバメは関係ないだろ」
「これは異なことを。拙者セキュリティー的に必須と愚考するが」
つまりだ。
ネット内の人たちは、「経団連の対人感覚の旧弊さ」と「情報感度の低さ」を嘲笑していたわけだ。
気持ちはわかる。
いまどき、固有のメールアドレスを持っていないボスが、口頭や手書きのペーパーで指示を出していたらしいのもさることながら、激変する世界経済に臨む日本の窓口ともいうべき経団連の会長執務室が、インターネットにすらつながっていなかった事実は、老舗蕎麦屋の店主が実は蕎麦アレルギーでしたというのとそんなに違わない驚天動地の日本没落情報だと思う。
とはいうものの、経団連の会長のような名誉ある職になると、「情報」そのものより「顔」の方が重要になるのではなかろうかという気もする。
どういうことなのかというと、ある程度以上の規模の会社の社長が自分で運転しなくなるのと同じように、名だたる一流企業の社長が雁首を揃えている組織のトップともなると、もはやいちいちメールに自分で答え、具体的に経営判断を行うことが禁じられていてもおかしくないのではないか、ということだ。であるからして、判断の基礎となる「情報」自体も、むしろ邪魔になる。
つまり、経済人の統合の象徴として在位している経団連会長は、来客を接待したり、関連の会合であいさつをするための「顔」なのであって、判断や命令を下す「頭」や「腕」ではない。とすれば、私的な肉声を発する発信源たるメールアドレスは、本来そぐわない装備なのだ。
「だっておまえたとえば天皇陛下がメアド持ってると思うか?」
「それとこれとは話が違うだろ」
「じゃあ、おまえは陛下がツイッターとかインスタのアカウント持ってても大丈夫なんだな?」
「大丈夫ってなんの話だよ」
「だからさ。人それぞれ天から与えられた役割があって、何人たりとも宿命には逆らえないということだよ」
「おまえ何言ってんの?」
「わからないんならもういい。ただ言っておくぞ。すべての人間が固有のアドレスを持ったアクセス可能なアカウントであるべきだというお前のその思想は、世が世なら不敬罪だからな」
何を言っているのかわからなくなったので先に進む。
私は、これまでの経団連の会長が固有のメールアドレスを持っていなかったことを、さして異常なことだとは思っていない。インターネット経由の情報にアクセスしていなかったことも、いかにもありそうな話だと思っている。それどころか、あらまほしきことですらある、というふうに受け止めている。
もう少し踏み込んだ言い方をするなら、私は、経団連の会長のような立場の人間は、秋刀魚の裏表も分からない状態で執務させておくのが本人のためにも無難なのだと思っている。なんというのか、「象徴」的な地位の人間を、神輿の上に座らせて無力化することは、この国の組織人たちが長い歴史の中で学び得た知恵なのであって、最高権力者から実務的な権力を引き剥がして、単なる「権威」として遇するのは、組織防衛上の安全策なのである。
むしろ、ああいう役柄の人間が、暴れん坊将軍よろしく市井の悪逆非道を手ずから正しにかかったりしたら、現場は大混乱に陥るだろう。
してみると、現職の中西会長が、メアドを獲得し、自前のパソコンを装備するに至ったことは、これまで半世紀余りにわたってわが国の経済界をリードしてきたあの組織が大きく変化しつつあることの、最初の兆候であると言えるのかもしれない。
もうひとつ思うのは、個別の企業のトップや、現場で指揮を採る最前線のリーダーならいざしらず、経団連の会長のような立場にいる人間は、パソコンやインターネット経由でもたらされる「文字化」した情報はあえて無視して、「肉声」や「握手」や、「フェイストゥーフェイス」の交流で得られる身体的な情報のやりとりに専念する方が、むしろ本筋なんではなかろうかということだ。
でなくても、コミュニケーションのうちの、非言語的な部分(文字化に伴って言葉の中から捨てられてしまった部分)を担うべき司祭に当たる役割の人間は、この先、必ず必要になるはずだ。
こんなことを思ったのは、実は、別のニュースの関連情報を掘り進むうちにたどり着いた奇妙なウェブサイトを見たからだ。
そのサイトというのは、最近報じられた社員の自殺と、その遺族がパワハラによるものだと訴えている件の、一方の当事者である社長が運営している書評用のブログだ。
その書評ブログの中で、社長ご本人が主張しているところによると、彼は、1日に50~100冊、月1500~3000冊の本を読むのだそうだ。
読書に充てる時間は、1日あたり4時間から6時間。どうしてそんなに速くたくさんの本を読めるのかという質問には、
《結論から言うと『慣れ』です。》
と答えている。
具体的な方法については、
《私はフォトリーディングやフォーカスリーディングと言ったビジネス書で宣伝されてるような手法は一切学んでいません。速読セミナーに通ったことはあるのですか?と聞かれたりもしますが、そういう物には一切参加してません。あ、いや、別にそういう物を否定してるんじゃ無いですよ。私は参加してません、と言うだけです。速読セミナーに行くくらいなら私はその時間読書するし、そのセミナー代で私は本を買います(笑)》
と説明している。
どう受け止めたら良いのだろう。
私は、「ウソ」ではないかと解釈している。
仮に、この社長の言う通りに、1日に50~100冊の本を、4時間から6時間の読書時間で読破しているのだとすると、単純計算で6時間で100冊の場合、1冊あたり3.6分(3分36秒)で読了していることになる。
私の常識では、これを「ウソ」と思わないことは難しい。
あるいは、社長自身が、意図的に他人をだますためにウソをついているということではないのかもしれない。
でも、そうだとしても、社長は自分をだましているはずだ。
つまり、社長は、3分半で1冊の本を「読んだ」と思い込むウソを、自分に対してついている。そういうことではないか。
この感覚は、実は、わずかながら見当がつく。
というのも、私自身、自分の読書については、最近、自分ながら錯覚しているのではなかろうかと思い始めているからだ。
問題は、どうして件の社長が、見え透いたウソと思われる(ウソだと思ってますが)ほどの読書量をブログに書かねばならなかったのかということであり、また、われわれが、実際には読了しているわけでもない書籍を読破したと思い込みたがっているのかということでもある。
以下、われわれ21世紀の人間が、情報の入力に関して、いかに奇天烈な妄執を抱くに至っているのかについて考えてみたい。
この話は順序立てて、思い切り前提のところにさかのぼって話しはじめなければならない。
なので、これから先で並べるのは、ちょっとめんどうくさいストーリーなのだが、ぜひつきあってください。
まず、音読と黙読の話をする。
これは、いくつかの場所で話したり書いたりしたことのある話でもあるので、知っている人は既に知っているかもしれない。が、ともあれ、先につながる話なので、我慢して聞いてほしい。
十数年前、子供が通っていたある進学塾から、あるペーパーが配布された。
そのA4のコピー用紙3枚ほどのワープロ打ちのテキストは、驚くべき内容の警告文だった。
そこにはおおよそ以下のようなことが書かれていた。
「小学校4年生以上のお子さまをお持ちの保護者の皆さんに申し上げます。お子さまたちに、いますぐこの場で音読の習慣をやめさせてください。音読は、できれば、3年生までのうちに中断したほうが良い習慣です」
という挑発的な書き出しを受けて、説得は続く。
「文章を声に出して読んでいる限り、あるいは頭の中で文字を音声に変換して読み下している限り、文章を読む速度は1分間に300文字程度より速くはなりません」
「ところが、難関中学の入学試験では、1分間300文字の速読能力ではとても追いつかない量の問題文が出題されます」
「理由は、第一に学習指導要領の定めによって、中学入試では小学校で教えたカリキュラムの範囲を超える問題を出題することが禁じられているからで、第二に、小学校の教育課程の範囲内の問題を普通に解答させると、満点を取る受験生が続出して合否が判定できないからです」
「そこで、特に優秀な受験生が集中する難関校では、もっぱら問題の分量を増やすことで満点得点者の続出に対応しています。それゆえ、難関校の入試に臨む児童は、試験時間内には読みきれない膨大な量の問題文を読みこなす必要に迫られるわけです」
「つまり中学受験に臨む子供たちは、なるべく速く、正確に大量の文章を読み下す速読能力を訓練しなければなりません」
「そのためには、遅くとも小学校4年生の段階で、頭の中で文字を音にする習慣をやめさせて、文字を映像のまま、ひとかたまりの情報として処理する技術に慣れて行く必要があります」
とまあ、言い回しや説明の順序はともかくとして、内容としては以上のようなお話が展開されていた次第で、われわれはどうやら大変な時代に到達してしまったのだなあ、と、私は、しばし感慨にふけったものなのである。
あらためて言えば、私の母親の世代の人間は、基本的に「黙読」ということができない。彼女が新聞を読んでいる姿を見ていると、黙って読むことはできていても、微妙に口元がモゴモゴ動いていたりする。それもそのはず、頭の中では文字がありありと音に変換されているからだ。
母の世代の人間にとって、書物は、貴重品だった。
月に1冊本を買ってもらえることが大いなる楽しみで、だから戦前の子供たちは、その貴重なうえにも貴重な書籍を、それこそ舐めるように丁寧に読んでいた。間違っても買ってきて2時間で読了するような、そんなぞんざいな読み方はしなかった。
だから、黙読は、不必要であるのみならず、どちらかといえば、文字に対して失礼な読み方ですらあったはずなのだ。
ところが、現代の子供たちは、音読していては間に合わない量の情報を取り入れなければならない。
で、音読は、いつしか
「勉強のできない子の困った習慣」
みたいな扱いに追いやられつつある。
文字から音読の要素を排除するということは、情感やニュアンスや音韻やリズムを消し去って、文章を純粋な「情報」に圧縮することでもある。
いつだったか、ある対談でご一緒した詩人の伊藤比呂美さんに、この「児童進学教室による音読排除のススメ」の話を振ったところ、彼女は素晴らしく怒って
「子供たちが朗読をしなくなったら、詩が詩でなくなるだけではおさまりません。言葉から音が切り離されるということは、日本語がもはや人間の言葉ではなくなるということです」
と断言された。私は、
「そうですね」
とお答えしたのだが、
「そうですねじゃありません!」
と叱りつけられた。
その通りだ。誰かが叱られなければならないのだ。あるいは、われわれの世代全部が、まるごと、昔の日本人からお叱りを受けて、平身低頭謝罪しなければならないのかもしれない。
日本語を音読しなくなるということは、言葉の持っている機能のうちのより基本的な側の半分を捨て去ることを意味している。これは、返す返すもとんでもないことだ。
もっとも、我が身を振り返ってどうなのかというと、私自身、音読の習慣を失って久しい。
日常的に大量の文書を読みこなすことを業務の一部としている出版業界の人間は誰であれ、似たようなものだと思う。なぜというに、いちいち文章を音声に変換していたらノルマの量の文章を読みこなせないからだ。
私は、薄めの新書なら内容にもよるがだいたい2時間ほどで読了することができる。
割り算をしてみると、1分間あたり1000文字ほどの速読力ということになる。
これは、一般の人と比べれば速いほうだと思うが、業界標準としては、むしろ遅い方かもしれない。
もっと速い人はいくらでもいる。
私自身も、献本で送られてくる新刊や、書評のための書籍を読む時のスピードは、自腹で買った本を読む時の速度に比べて明らかに速い。普段の読み方の倍以上かもしれない。
で、そういう速度で実際に読めているのかというと、
「軽めの文体の本だな」
とか
「字組はゆるめだよね」
といったあたりのことは、まあ把握できる。
「全体として経済のことを書いてある本みたいだぞ」
という程度のこともわかる。
でも、そのくらいのことは、そもそもタイトルを見ればわかることでもある。
私は、読んだ気になっているだけで、実際にはまるで読めていないのかもしれない。
印刷物だけではない。
毎日毎日、私はメールやらSNSやらウェブニュースやらスマホ経由のラインやらメッセージやらの、ありとあらゆる種類の文字を、かなりとんでもない速さで読みこなしている。
そうしていながら、ふと気がついてみると、私は何も覚えていない。あるいはこれは、年齢のせいで、アタマの中を通過した文字の定着率が落ちているということに過ぎないのかもしれない。
でも、個人的には、自分がアタマの中に文字をスクロールさせる動作に依存してしまっていると考えた方が、筋道が通ると思っている。
私は、読書ブログの社長ほどではないにしても、文字を通過させる下水管みたいなものになってしまっているのかもしれない。
で、そのウェブにつながった下水管たちが、経団連のもと会長たちを嘲笑している。
奇妙な図だと思う。
月に3000冊の本を読む人間は、月に30頭の牛を食べつくした人間が健康を害するのと同じようにして、自らの精神を健康に保つことができなくなるはずだ。
私たちも、用心せねばならない。
頭の中に保持できる文字の数には限界がある。
その限界を超えると、たぶん、自分自身を保持できなくなる。
エビデンスはないが、私はそう思っている。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
だけど、ウェブだっていつまでも何もかも保持できるわけではないのです……。

なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
記事掲載当初、本文中で「そのサイトというのは、この1週間ほど雑誌やテレビを賑わせている農業アイドルの自殺をめぐる騒動の、一方の当事者であるプロダクションの社長が運営している書評用のブログだ。」としていましたが、こちらは誤りでした。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2018/10/26 12:45]
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。