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芥川賞を受賞するなど20世紀を代表する日本作家である遠藤周作。数ある作品の中でも、キリスト教が弾圧されていた時代の宣教師や信者への迫害を描いた「沈黙」は、多くの人の心をとらえ、遠藤文学の代表作として推す向きも少なくない。先日、文庫本の売り上げ部数は200万部を超えた。
その「沈黙」が映画化された。しかし、日本映画として作られたのではない。「タクシードライバー」や「レイジング・ブル」などを代表作として持つアメリカ人監督のマーティン・スコセッシ氏がメガホンをとり、ハリウッド映画として作られた。昨年末に米国で公開され、日本でも1月に公開が始まった。
残念ながらアカデミー賞の候補としては撮影賞のみのノミネートに留まったが、海外のメディアでも頻繁に取り上げられるなど、評価は高い。その作品を、遠藤周作の30年来の弟子が見たら、どのような感想を持つのか。著書に「遠藤周作」(慶應義塾大学出版会)や「遠藤周作 おどけと哀しみ――わが師との三十年」(文藝春秋)などを持つ作家の加藤宗哉氏に聞いた。
(本インタビューの内容には、「沈黙」のネタバレを含みますので、まだ作品をご覧でない方は、ご注意ください)
(聞き手は木村 知史)
映画「沈黙」が日本でも封切りになりました。長年、寄り添ってきた弟子として、今の率直な感想を聞かせてください。

作家。1945(昭和20)年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。学生時代に雑誌「三田文學」で遠藤周作編集長と出会い、以後、三十年に及ぶ師弟関係を結ぶ。作家となったのち、1997年より2013年まで「三田文學」編集長をつとめる。現在は日本大学芸術学部・非常勤講師。著書に「遠藤周作」(慶應義塾大学出版会)、「遠藤周作 おどけと哀しみ――わが師との三十年」(文藝春秋)、「愛の錯覚 恋の誤り――ラ・ロシュフコオ「箴言」からの87章」(グラフ社)、「モーツァルトの妻」(PHP文庫)など。最新刊に「吉行淳之介――抽象の閃き」(慶應義塾大学出版会)がある。
加藤:本当に遠藤周作にこの映画を見せてあげたかったなー、というのが、まず一番の想いです。それだけ映画が素晴らしかった。
映画化の話が先生の耳に入ったのは、今から26年前です。その時、私は先生にアメリカに行こうと誘われ、お伴しました。クリーブランドのジョン・キャロル大学から名誉博士号を受け、記念講演を依頼されたから一緒に遊びに行かないかということだったんです。
その帰りに、ニューヨークに行く用事があるからというので、一緒に寄りました。実はそこで、マーティン・スコセッシ監督に会う約束ができていたんですね。私は会談には同席しなかったのですが、その直後に先生が、「今、スコセッシ監督に会ってきたんだ。どうやら『沈黙』を映画化したいらしいんだよ。うれしいね」と言っていたんです。
その5年後に遠藤周作はなくなってしまいましたが、約束された映画化は、資金の問題や契約などのトラブルがあったらしく、今日に至ってしまった。ということもあって、先生はさぞ見たかったと思いますよ。しかもこの出来の良さですから。
私も映画を観ましたが、3時間近い大作があっという間に終わりました。
加藤:何よりも監督が作品を深く理解していたことに感動しました。今まで「沈黙」を論じた文芸評論というのはたくさんありますが、そのすべてに勝るのが今回の映画だと思います。「沈黙」という作品の真意を、これほど正確に見事にくみ取ったものは初めてでしょう。正直、映画の力はすごいと思いました。
「沈黙」で遠藤周作が後悔していたこと

作品の真意をくみ取ったと感じたのは、具体的にはどのあたりなのでしょうか?
加藤:それを説明するにあたって、遠藤周作が生前に語っていた「沈黙」に関して後悔していたことについてお話ししましょう。先生が60代の半ば、晩年なのですが、自書である「沈黙」について語る1時間のビデオを作りました。長崎、すなわち「沈黙」の舞台を訪ね、そこで私が聞き役となりました。私も聞きたいことを全部聞きましたし、先生もそれについて丁寧に答えてくれました。
私は「沈黙」を今改めてどう思うかについて尋ねたのです。「沈黙」は著者が42歳の時に執筆したので、それから20年以上が経っていました。
すると先生は大きく2つの後悔があると言ったのです。この小説は、日本でキリスト教が弾圧されていた時期に日本に来た、ポルトガルの司祭セバスチアン・ロドリゴを主人公とするものです。役人はロドリゴに信仰を棄てること、すなわち「転ぶ」ことを強要しますが、なかなかロドリゴは転ばない。しかし、小説の終盤でついに転ぶ。この転んだシーンがあまりに鮮烈なので、多くの読者がロドリゴは信仰を棄てたと考えた。ところが作者は、「ロドリゴは信仰を棄てていない」ということを書きたかったと言うのです。
作者は、ロドリゴが信仰を棄てていないことを、確かに小説のなかに書いたのです。最後の章の後の「切支丹屋敷役人日記」の中です。たとえば以下の部分です。
「宗門の書物相(あひ)認(したた)め申し候様(やう)にと遠江守申付けられ候」
ここでは、ロドリゴが書を書けと役人に言われている。では、何の書かというと、「私は転びます」という書なんです。しかも、これを何回もやらされる。つまり、何回も「私は転びます」と書きながら、そのたびに彼は信仰を取り戻し、そして最後までそれを棄てなかったということを読者に知らせるため、作者は「切支丹屋敷役人日記」を置いたのに、それが古文調であったこともあって、巻末の資料としか見られなかったのです。
私も原作を読んでいて、その「日記」の章は意味が捉えにくかったこともあり、ほぼ流してしまいました。
キリスト教徒ならわかる「鶏が鳴く」意味
加藤:実は、ロドリゴが転んでいないということは、クライマックスのシーンにも作者は何気なく書いています。ただし、これも日本の読者にはわかりにくかった。ロドリゴが踏絵を踏み終わったシーンです。
「こうして司祭が踏絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」
この「鶏が遠くで鳴いた」というところには、作者の思いが込められています。「鶏が鳴く」といえば、西洋のキリスト教徒なら、おそらく誰もが、聖書の中の一つのシーン――「ペテロの否認」を思い浮かべます。ペテロというイエスの弟子が、イエスが捕まったときに、町まで様子を見に行くのですが、人々から「この男も今日捕まったあの男と一緒にいた」と指さされて、「私はあんな人は知らない」と否認するのですが、そのときに鶏が鳴きます。
これは例の最後の晩餐の際にイエスが予告していたことです。「おまえは鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないというだろう」。そしてその通りになって、ペテロが激しく泣くというシーンが新約聖書にあります。
このペテロの否認は、有名な文学的テーマでもあり、チェーホフも小説に書いていますし、ボードレールも詩に、またレンブラントが絵画にしています。さらに音楽では、バッハの「マタイ受難曲」はペテロが泣くところで曲が結ばれています。だから「鶏が鳴いた」と言えば、西洋のキリスト教徒なら誰でもペテロの否認を思い浮かべます。
で、ペテロはその後どうなったかというと、最高の弟子になります。ローマに行って最初の教会を建てたのもペテロです。そこが重大で、つまりロドリゴも踏絵は踏んだけれども、ペテロと同じです。転んでも、また再生する。信仰は捨てていないわけです。
しかしこれはなかなか読者には伝わらなかった。日本の読者の場合にはとくにそうでした。
幻のタイトル「日向の匂い」
確かにキリスト教徒ではないと分かりにくいですね。私は、鶏にそんな意味がるとは全くわかりませんでした。
加藤:後悔というともう1つ、話していました。それは「沈黙」というタイトルです。「沈黙」とつけてしまったために、読者の多くがこの作品を「神の沈黙を描いたもの」と受け取ってしまった。けれども自分は「神は沈黙していない」というつもりでこの小説を書いた。これも誤算の一つで、今だったら自分は「沈黙」というタイトルはつけない、とも言っていました。
余談ですが、最初の原稿に付けられていたタイトルは『日向の匂い』だったのです。しかし出版元である新潮社から「これでは売れない、『沈黙』にしたほうがいい」と勧められて変更したということです。今だったら、出版社の勧めには従わなかった、と言っていました。
ただ、今さら「日向の匂い」と言われても、ちょっとパッとしないように思います。
加藤:その通りですね。ただ、先生の中では、常に「沈黙」という言葉を読者がどう理解してくれるか、ということが1つ気にかかっていたと思うんですね。
以上のように、「沈黙」には大きな2つの後悔があったわけです。ところが、今度の映画をみて感じたのは、作者が懸念したことに見事な決着をつけているということです。
まず、ロドリゴは信仰を棄てていなかった、ということ。映画を見た方はこれに関して何の疑問も持たなかったでしょう。それはあの見事なラストシーンによっても明らかにされています。
あのラストは、原作にはないシーンです。ところが、正確に遠藤周作の意図をすくい取っているわけで、これはもう見事としかいいようがありません。
それともう1つの「神は沈黙していない」という点ですが、この証拠として、もちろんロドリゴが踏絵を踏むシーンで聞こえるイエスの言葉「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」――を挙げてもいいのですが、じつはもう一つ、小説の最後には次の言葉が置かれています。
「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」
この言葉をスコセッシ監督は大事なところで使っています。これはいわば遠藤文学のキーワードでしょう。
遠藤周作は、神は存在ではなく働きだと常々言っていました。在るか無いかではなく、神は人々の人生を通してあらわれてくるのだと。これを映画は見事にすくいとっているように思えます。
「踏むがいい」の表現に驚き

そのほかにも印象的な点があるとしたら、何を挙げられますか?
加藤:もう1つ挙げるとしたら英語の使い方でしょうか。私は、英語はさほど強くないんですが、それでも英訳本に1つの不満がありました。それは最後の踏絵を踏むところです。
「沈黙」の英訳本は、ウィリアム・ジョンストン訳ですが、ロドリゴが最後に転ぶ場面での「踏むがいい」という言葉に「trample」を使っているんです。辞書でひいてみると、踏むというよりも、踏みにじるに近いんですね。「踏むがいい」という遠藤周作の文章は「踏んでもいいんだよ」という、もっと優しいイメージですね。だから、私は命令形の「trample」には不満だったんです。だからそこをどういう言い回しにするか、と期待していました。
見事でした。映画では、「It's all right.…… Step on me」だったと思います。そういう優しい「踏んでもいいんだよ」という表現に変わっていたんです。もちろんスコセッシ監督は、英訳版で読んだのでしょうけれど、あそこのシーンをその表現に変えた、その感性にも感嘆しました。
遠藤文学に一番詳しい外国人にバン・ゲッセルというアメリカ人がいます。大学の教授で、「沈黙」は訳していませんが、「侍」をはじめ5、6冊訳しています。私はバン・ゲッセルさんから聞いたのですが、スコセッシ監督に台本を見せられて、細かいところまですべて意見を聞かれた、と言っていました。昔、私はゲッセルさんと話したときに、さっきの「踏むがいい」の訳語についての不満を話していたので、ひょっとすると、ゲッセルさんが監督に進言したのかもしれません。
ただ一つ、ちょっと気になったのは、長崎の貧しい村の農民の何人もが英語をしゃべっていたことでしょうか。宣教師を通して覚えたにせよ、老いた村長(むらおさ)が上手に英語をあやつる。もっともハリウッド映画はマリー・アントワネットでも見事な英語をしゃべりますから、これは許される範囲なのかもしれません。
これまでのお話を聞くと、スコセッシ監督がとにかく忠実に遠藤文学を実現しようとしていたことが分かります。
加藤:先週、ロスアンゼルスに住んでいる知り合いからある新聞記事が送られてきました。地元の「ロスアンゼルスタイムズ」で「沈黙」が取り上げられていました。記事では映画を絶賛しているのですが、その中に「スコセッシと遠藤周作という素晴らしいアーティスト、その二つの魂が融合するのを目撃できる」と書いてありました。遠藤周作の意図は、スコセッシ監督によってほぼ完璧に映像化されたということでしょう。
「沈黙」は遠藤文学の変換点
遠藤周作は、30代の終わりに大病をし、「沈黙」は病気から復活してからの最初の作品です。何かそれまでと変わった点はあるのでしょうか?
加藤:遠藤周作のそれまでの作品、「海と毒薬」や芥川賞作品の「白い人」などいろいろありますが、「沈黙」で明らかに文学は変わりました。私は「沈黙」が遠藤文学の新たな出発点だと思っています。そのテーマは何かと言うと、それまでには描いたことのなかった「母なるイエス」だと思います。
30代の後半に再発した結核は、遠藤周作という作家をひどく苦しめました。何度も手術をして、最後の手術は成功率も50パーセントを切るという手術でした。それを乗り越えて生還し、そして「沈黙」を執筆するのです。
先生は死と向き合い、自身の信仰とも向き合ったと振り返っています。そして、もし生きることができたなら、今度は本当に自分の書きたいことをだけ書いてやろう。その思いが「沈黙」には込められています。
では、何を書きたかったのかというと、それは「日本人にとってのキリスト教とは何か」ということです。それを生涯のテーマとして、「母なる神」に向かいます。
若い日に先生はフランスに留学し、裁き罰する厳しい西洋の「父なる神」に出会います。それに肌が合わなかった。だから、日本人にも馴染めるような神とは何かを考えた。それは厳しい父のような神ではなく、母のように優しく抱きしめてくれる神――。それを生涯かけて書こうとしたのだと思います。
遠藤文学は、いまだに根強い人気がありますが、そういった許せる神のようなコンセプトが受け入れられているのですね。
加藤:そうだと思います。ふつう、作家は死んでしまうと本屋の棚に作品が少なくなります。当たり前ですよね。新しい作品は出ないのですから。
ただ、遠藤周作の場合、死んでから20年が過ぎましたが、その間、新しい本が毎年出つづけました。小説やエッセイが新たに編み直されて、出版されました。去年も3冊以上出ています。この世紀になっても本が求められる、売れるということは、時代の人たちの心をつかむ何かがあるのでしょう。西洋的価値観ではない独特の優しい母のイメージと、ダメで弱い人間に対する温かさと共感、そして人間を超える大いなる命。そういったことがいまの時代だからこそ、求められているのではないでしょうか。
遠藤周作=キチジロー

弱者といえば、「沈黙」では何度も転んでは信仰を取り戻す、キチジローが思い浮かびます。
加藤:キチジローは、「沈黙」の中のもう1人の主人公ですね。遠藤周作は「キチジローは自分だ」と書いています。人を簡単に裏切ってしまうような弱い人間にこそ、神は向かい合ってくれる。その問題もスコセッシ監督は見事に描き出しましたね。
遠藤周作がキチジローと自分を重ね合わせるのは、自分にもまた弱い、ダメな、すぐに人を裏切ってしまう要素があるからでしょう。たとえば先生は母親にものすごくかわいがられたのですが、一方で母親を手ひどく裏切ってもいます。しかも何回も裏切っている。両親は、彼が小学校のときに離婚しました。遠藤少年は、母親に育てられる。愛情たっぷりに育てられるのですが、ただ裕福ではなかった。だから、大学に入るときに学費と生活費が母親の許では賄えない。そこで生活のために母親の家をでて、父親のいる東京の家に暮らします。そこには、離婚の原因にもなった、父親の新しい妻もいた。その家族と食卓を囲む。息子の胸の中に、神戸に一人暮らす母の姿が、後ろめたさと共に浮かんだとしても不思議ではありません。キチジローは遠藤周作でもあり、またすべての人なのでしょう。
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