「食い倒れの街・大阪」を象徴する本屋さんが、大阪市中央区千日前・南海通にある波屋書房。1919年(大正8年)創業の老舗で、『夫婦善哉』を執筆した小説家、織田作之助が通った店としても知られる。80年代末、ふとしたきっかけで、料理書を主体とした品ぞろえの店に方向転換。それが当たり、全国からプロの料理人や料理好きがやって来る店になった。3代目店主の芝本尚明さんと妻の昌子さんにお話を伺った。

創業当初は文学サロンの趣

波屋書房の創業は1919年で、100年を超える老舗ですね。

「波屋書房は、大阪の竹久夢二と呼ばれた画家、宇崎純一(うざき・すみかず)という人が創業しました。父の話によると、当時店では『辻󠄀馬車』という同人誌を、純一の弟の宇崎祥二が発行しており、文学サロンの趣でした。このブックカバーは純一が描いた辻󠄀馬車のイラストを載せており、『ナンバの波屋書房は辻󠄀馬車時代の文学的フランチャイズだった』という、作家の藤沢桓夫(ふじさわ・たけお)先生のメッセージを記しています。波屋書房の名前は、作家で児童文学者の巖谷小波(いわや・さざなみ)が、自分の名前から一字を取って付けたと聞いています」

同人誌『辻󠄀馬車』の復刻版(非売品)
同人誌『辻󠄀馬車』の復刻版(非売品)
「辻󠄀馬車」のイラストが描かれた「波屋書房」のブックカバー
「辻󠄀馬車」のイラストが描かれた「波屋書房」のブックカバー

当初はどこにでもある街の書店だったのが、80年代の後半に料理書中心の店に変えていったとのことですが、当時、大阪の景気はずいぶんと良かったんですよね。

「はい。この近所は演芸場や映画館が立ち並ぶ劇場街で、少し行けば黒門市場や道具屋筋、無数の飲食店があります。今もにぎやかな街ですが、以前はこんなものではありませんでした。年末年始にもなれば店前の通りはいつも人でぎっしりで、向かいにあるスーパーマーケットに行くのも大変でした。店内もお客様でいっぱいで、あの頃の人たちはいったいどこに行ってしまったのかと思います」

「食の見本市」で料理書に出合う

お店の売り上げも順調だった中で、どうして方向転換をしたのですか。

「1987年ごろ、大阪港の朝潮橋で『食の見本市』のイベントが行われていました。柴田書店の営業の方から、料理書の展示をしているので見に来ないかと誘われました。展示会場に行ってみてびっくりしたのは、料理書の数の多さと質の高さでした。

 料理書ってこんなにもあるんだと知り、うちでも扱ってみたくなり、柴田書店の営業の人に店に置かせてもらえないかと頼みました。ダメモトだったのにOKしていただき、20箱分ほど陳列してみました。

 当時、当店はいわゆる街の本屋で、一通りの本は置いているけれど、特に大きな特徴があるわけではありませんでした。一番の売れ筋は風俗本や風俗雑誌、男性誌で、一番目立つ棚に置いていました。例えば、団鬼六の写真入り雑誌は3000円ぐらいしましたが、よく売れました。これらを一気に外して料理書に変えました。1カ月ちょっとたってイベントは終了、仕入れた料理書はそこそこ売れました。

 そこで、残った本を返品すべきかどうか考えました。うちの近所には料理人がたくさん働いているのだから、料理書中心の書店でやっていけるはず。これからも置かせてくれないかと、柴田書店に改めて依頼しました。むしろ取次会社のほうが、『料理書好きのお客さんはいいけれど、以前のお客さんが来なくなりますよ。大丈夫ですか?』と心配してくれました。でもこれは誰に頼まれたわけでなく、自分で決めたことだから、決して後悔しないと腹をくくりました」

品ぞろえを変えて変化はありましたか。

「まず、客層がまったく変わりました。風俗の本を買いに来られるお客様は無口で、会話はありません。ところが、料理書を買いに来るお客様とはいろいろな話ができるので、店の雰囲気が変わりましたね」

すぐ近所に1000坪の書店が進出

96年に大きなピンチが訪れます。

波屋書房3代目店主の芝本尚明さん
波屋書房3代目店主の芝本尚明さん

「私は“蒙古襲来”とか“黒船来航”とか呼んでいたのですが、1996年にすぐ近くのなんばグランド花月の向かいのビルに、某大手書店チェーンが進出してきました。店舗面積は1000坪。当店は30坪弱ですから、これではとても勝負になりません。

 最初はそれほど売り上げに影響はありませんでした。しかし、だんだんとボディーブローのように効いてきました。でも一番つらかったのは、売り上げの減少よりも毎日何十人もの方から、『○○書店はどこですか?』と聞かれることで、これは精神的にかなりきつかったです。

 でも、うちには料理書という柱がありました。『波屋書房を潰してはならない』と、常連さんにずいぶん助けられました。

 結局、その書店はビルオーナーとの賃貸契約の関係で、20年後に撤退しました。知り合いや常連さんからは『勝ったなあ』と言われましたが、勝ったも何も、もともと相手にはされていません。挨拶もなしにやって来て、いつの間にか撤退していったというだけです」

プロ向けの料理書が中心

お店の棚を案内していただけますか。

「売れ筋の中心は和食、日本料理です。『だしの研究』『やさい割烹』『さかな割烹』(いずれも柴田書店)、年末の今ならおせち料理の本がよく売れています。プロ向けの本が大半で、個人向けの家庭料理の本は少ないです。取次会社からは『料理レシピ本大賞』の本も送られてきますが、どのくらい売れるのか読めず、うちには向きません。プロ向けの魚のさばき方とかソースの本であれば、どのくらい売れるかが分かります」

売れ筋の主力は和食、日本料理関連
売れ筋の主力は和食、日本料理関連

最近の料理書はオールカラーの本が多いようですね。

「はい。そういう傾向はありますが、年配の料理人の方は文字だけの料理書のほうが、料理を想像する楽しみがあるので好きだとおっしゃいます。例えば、この『京風半茶全盛―焼もの集』(中川義雄著/第一出版)、『なべ まえさかな』(西村元三朗著/第一出版)はバーコードも付いていない古い本ですが、ずっと置いています」

『なべ まえさかな』(西村元三朗著/第一出版)を手にする芝本さん
『なべ まえさかな』(西村元三朗著/第一出版)を手にする芝本さん

レジ周りにある文庫本も料理関連が多いですね。

「『みをつくし料理帖』シリーズの髙田郁さんの時代小説や『カラー完全版 日本食材百科事典』(講談社編/講談社α文庫)、映画化された『土を喰う日々』(水上勉著/新潮文庫)などが人気です」

太田和彦の居酒屋エッセーも平積みになっている
太田和彦の居酒屋エッセーも平積みになっている

フランス料理のバイブルも

これはプロのフランス料理人なら皆持っているという、フランス料理の「バイブル」ですね。

「はい。『レペルトワール』(LE RÉPERTOIRE DE LA CUISINE)です。主要なフランス料理の作り方を簡潔に説明したものです。初版は1914年、2021年にKADOKAWAより改訂翻訳版が出ています。今は7000円台ですが、昔はもっと高くて、給料をためて買ったという料理人がたくさんいました」

『LE RÉPERTOIRE DE LA CUISINE フランス料理総覧 改訂版』(KADOKAWA)
『LE RÉPERTOIRE DE LA CUISINE フランス料理総覧 改訂版』(KADOKAWA)

最近よく動いている料理書はどれですか?

「『低温真空調理のレシピ』と『低温真空調理のレシピ ストック編』(いずれも川上文代著/グラフィック社)です。低温真空調理は、食材を袋に入れて密閉し、沸騰させない低温の湯の中で調理する方法です。「家庭料理の大革命」と書いてありますが、家庭で行うのは結構難しいと思います。プロの料理人のお客様が2冊手に取られると、両方とも買っていかれますね」

『低温真空調理のレシピ』『低温真空調理のレシピ ストック編』(いずれも川上文代著/グラフィック社)
『低温真空調理のレシピ』『低温真空調理のレシピ ストック編』(いずれも川上文代著/グラフィック社)

こちらは上方芸人や大阪関係のコーナーですね。

「この『藝能懇話』は大阪藝能懇話会が発行している雑誌で、うちにしか置いていません。表紙には今は珍しくなった手刷りのイラストが載っています。

 大阪関連本の売れ筋は、織田作之助の作品をたどった研究書『オダサクアゲイン あとを追うもの』(成瀬國晴著/たる出版)です。この本は著者の成瀬さんが、織田作品の現場へ実際に行き、関係者を取材してまとめた力作です」

近所には演芸場や劇場が多いため、芸能関係の本もそろう
近所には演芸場や劇場が多いため、芸能関係の本もそろう
大阪の寄席や芸能についての研究誌『藝能懇話』(大阪芸能懇話会)
大阪の寄席や芸能についての研究誌『藝能懇話』(大阪芸能懇話会)
『オダサクアゲイン あとを追うもの』(成瀬國晴著/たる出版)と『織田作之助評論選 「可能性の文学」への道』
『オダサクアゲイン あとを追うもの』(成瀬國晴著/たる出版)と『織田作之助評論選 「可能性の文学」への道』

料理書があったから続けられた

波屋書房以外には、料理書に特化した書店はあまり見かけませんね。

「京都の八坂神社の近くに祇園書房、東京の築地場外市場には墨田書房という本屋さんがありました。どちらも料理書をたくさんそろえた素晴らしい本屋さんだったのですが、閉めてしまって、とても残念です。

 うちがずっとやってこれたのは、やっぱり料理書のおかげです。プロの料理人は本の内容さえ良ければ、値段とは関係なく買っていかれます。本当に常連さんに助けてもらっていますね」


 波屋書房はプロの料理人のみならず、料理好きの作家も引き寄せる。川上弘美が日本経済新聞に連載したエッセー『此処彼処』(新潮文庫所収)の「千日前」の項目に出てくる書店は波屋書房である。「料理の本ばかりの本屋さんがあったらいいな、とひそかに思っていた。大阪の千日前でそういう本屋さんを実際に見つけたときには、だから、しんそこびっくりした」とある。また、この文庫版の解説では、酒井順子が「『千日前』を読んでいる時は、私は川上さんと共通の友人を誉め合っているような気持ちになったのでした」と書いている。料理好き、料理書ファンならば、ぜひ訪れてほしい店である。

文/桜井保幸 写真/山本尚侍

【フォトギャラリー】

波屋書房は大阪市中央区千日前・南海通に面している。毛筆の新刊紹介がよく目立つ
波屋書房は大阪市中央区千日前・南海通に面している。毛筆の新刊紹介がよく目立つ
店頭の棚には、各種料理雑誌の最新号とバックナンバーがそろう
店頭の棚には、各種料理雑誌の最新号とバックナンバーがそろう
店頭のショーウインドーには著名料理人のサイン本や色紙が並ぶ
店頭のショーウインドーには著名料理人のサイン本や色紙が並ぶ
世界の料理本やさまざまな調理法の本が並ぶ。いくら棚を眺めていても飽きない
世界の料理本やさまざまな調理法の本が並ぶ。いくら棚を眺めていても飽きない
『「こつ」の科学』(杉田浩一著/柴田書店)は1971年初版で、2005年には114刷に達し、06年に新装版が出たロングセラー
『「こつ」の科学』(杉田浩一著/柴田書店)は1971年初版で、2005年には114刷に達し、06年に新装版が出たロングセラー
ワイン関連の本も充実
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1969年刊行のフランス料理事典『LE GUIDE CULINAIRE エスコフィエ フランス料理』(柴田書店)
1969年刊行のフランス料理事典『LE GUIDE CULINAIRE エスコフィエ フランス料理』(柴田書店)
2階へ上がる階段脇には『辻󠄀馬車』を創刊した藤沢桓夫の句集や色紙が飾られている
2階へ上がる階段脇には『辻󠄀馬車』を創刊した藤沢桓夫の句集や色紙が飾られている