特集「日本古代国家形成史研究の最前線」
◆国家形成史研究の歩み(森田喜久男*1)
(内容紹介)
特集の総論的な内容。
・藤間生大*2『日本古代国家』(1946年、伊藤書店)
・石母田正*3『日本の古代国家』(1971年、岩波書店→後に岩波文庫)
・吉田晶*4『日本古代国家成立史論』(1973年、東京大学出版会)
・都出比呂志*5『前方後円墳と社会』(2005年、塙書房)
・広瀬和雄*6『前方後円墳国家』(2003年、角川選書→2017年、中公文庫)、『古墳時代政治構造の研究』(2007年、塙書房)
・寺沢薫 『弥生時代国家形成史論』(2017年、吉川弘文館)、『弥生国家論』(2021年、敬文舎)
・下垣仁志『古墳時代の国家形成』(2018年、吉川弘文館)
・岩永省三『古代国家形成過程論』(2022年、すいれん舎)
など「国家形成史」についての過去の著作に触れた上で、著者の見解が述べられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆弥生国家論の提唱とその意義(寺沢薫*7)
(内容紹介)
筆者の主張する『弥生国家論』の意義について述べられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
なお、筆者に寄れば、筆者の国家論主張においては、「在野のマルクス主義政治学者」滝村隆一*8の国家論が強く影響しているとのこと。
◆卑弥呼王権の国家段階(仁藤敦史*9)
(内容紹介)
寺沢の「弥生国家論」について、卑弥呼王権をどう評価するかという点を中心に論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆古墳と国家形成(下垣仁志*10)
(内容紹介)
古代国家形成における古墳造営の意義について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆古墳時代親族構造論と国家形成過程(岩永省三*11)
(内容紹介)
田中良之*12の古墳時代親族構造論(田中『古墳時代親族構造の研究』(1995年、柏書房)、『骨が語る古代の家族:親族と社会』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『骨からみた古代日本の親族・儀礼・社会』(2017年、すいれん舎)等)を中心に「古墳時代親族構造論と国家形成過程」について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆文献史学から見た国家形成史の課題(古市晃*13)
(内容紹介)
ヤマトタケル伝承を素材に「文献史学から見た国家形成史の課題」について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆「日本史探究」と教師自身の歴史活動(山﨑久登*14)
(内容紹介)
新学習指導要領によって設置された新科目「日本史探究」について、現場教師がどのような取組を行うべきかについて論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
◆歴史のひろば「帝国日本の甲子園球場」(小野容照*15)
(内容紹介)
2021年に「夏の甲子園」に初出場し、2024年に「夏の甲子園」優勝を果たした京都国際高校(現在は日本人学生の入学も認められ、むしろ日本人学生の方が多いが、もともとは1947年に創立された、在日朝鮮人を対象とした民族学校「京都朝鮮中学」がルーツ)が以前話題になりましたが
1)戦前日本において高校野球(甲子園野球)の出場校は「内地」だけでなく「外地(朝鮮、台湾、満州と言った植民地)」からもあったこと
2)現在は「野球の聖地(甲子園球場)」として知られる甲子園だが、「甲子園南運動場」が球場とは別途あり、ラグビーが行われていたこと、その「甲子園ラグビー」に朝鮮から出場があったことが触れられている。
【参考:京都国際高校】
京都国際、韓国語の校歌高らかに 甲子園で戦後初めてか - 高校野球 [京都府]:朝日新聞デジタル2021.3.24
第5日の24日、京都国際は柴田(宮城)との初出場対決を制し、試合後に校歌を歌った。同校は在日韓国人らが通った学校が前身で、校歌は韓国語。甲子園での韓国語校歌は戦後初めてとみられる。
球場のファンからは驚きの声も聞かれた。
一塁側の外野席で観戦した大阪府の会社員岡田尚さん(56)は、高校野球が好きで甲子園を毎年訪れる。
「韓国語校歌を聴いたのは初めてで少し驚いた。高校野球も国際的になってきたんだな」。
大阪府の会社員平池裕作さん(50)は「こういう出場校があって良いと思う。ラグビーの花園には、すでに(ボーガス注:高校ラグビー強豪校の)大阪朝鮮高級学校が出場している」と話した。
澤藤統一郎の憲法日記 » 甲子園に流れた韓国語校歌の感動2021.3.25
「京都国際高校」対「柴田高校(宮城)」の初出場対決。延長戦の末、5―4で京都国際が勝利した。その試合後に流れた校歌が「韓国語」だったという。同校は、現在はいわゆる「1条学校」だが、その前身は在日韓国人の学校。校歌は、昔のとおりのハングルの歌詞。球場の大型スクリーンには、ハングルの歌詞と日本語訳の両方が映し出されたと報道されている。これは、すてきなニュースではないか。
「在日のナショナリズム」に寛容な日本社会であって欲しい。今、京都国際の野球部員は全員が日本人であるというが、彼らが抵抗なく韓国語の校歌を唱う図には、日本社会の寛容度を見直させるものがある。
この校歌についての報道は概ね好意的である。「校歌が韓国語で何の問題があるのか」という主張。主催者も、メディアも、学校も、そして選手も、大らかに韓国語校歌を容認したのだ。その寛容さに拍手を送りたい。
とは言え、まったく問題がなかったわけではない。非寛容な右派勢力が、「東海(トンへ)」に噛みついたのだ。地名は国際的に「日本海」が正しい。これを「東海(トンへ)」とはなにごとか。学校も怪しからんが、こんな歌を唱わせた主催者もおかしい、というわけだ。
もっとも、このような事態は予想されたところで、球場の大型スクリーンに映された日本語訳は、「東海」ではなく「東の海」となっていた。
おそらくは、学校は一定の譲歩をしたのだろうが、状況をよく見ての知恵と言ってよいだろう。
「行け!京都国際」韓国の中学生が声援 大統領も祝福「誇りと勇気」:朝日新聞デジタル2024.8.23
韓国系の民族学校をルーツとする京都国際が夏の甲子園で初優勝を決めたのを受け、韓国でも喜びの声が上がった。
尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は23日、自身のフェイスブックに「決勝戦の球場に韓国語の校歌が力強く響き渡った。在日同胞に誇りと勇気を与えた」と書き込んだうえで「野球を通じて韓日両国がもっと親しくなれれば」と期待を込めた。
優勝の京都国際、8割が日本国籍 男子9割野球部 韓国語能力試験必須 前身は京都朝鮮中 - 産経ニュース2024.8.23
生徒数は現在、中高合わせて計約160人(女子約90人)で、約8割が日本国籍。高校の生徒約140人(女子約70人)のうち、男子生徒の約9割に当たる61人が野球部に所属しているという〝超野球校〟だ。
阪神の中川勇斗*16捕手やDeNAの森下瑠大*17投手など複数のプロ野球選手を輩出している。
【高校野球】甲子園優勝の京都国際 差別投稿多数で京都府が削除要請 野球部には府のスポーツ賞を贈呈 | NHK | 京都府2024.8.23
京都府は夏の全国高校野球で京都勢として68年ぶりの優勝を果たした京都国際高校の硬式野球部に京都府スポーツ賞を贈ることを決めました。
西脇隆俊*18知事は定例の記者会見で、(中略)「68年ぶりの京都の高校の優勝に立ち会えたことは非常にうれしかった。府民に勇気と感動を与えてくれた」と述べ、京都国際高校硬式野球部にスポーツで優秀な成績を収めた個人や団体に贈られる京都府スポーツ賞の優秀賞を贈ることを明らかにしました。
一方、西脇知事は韓国系民族学校が前身の京都国際高校をめぐって「インターネット上で民族差別とみられるような悪質な投稿が多数あった」として、なかでも特に悪質な4件について、京都地方法務局やウェブサイトの運営者に対し、削除を要請したことを明らかにしました。
「校歌に『東海』? 韓国の大会に出場しろ」…京都国際高校に対する嫌韓世論 : 日本•国際 : ハンギョレ新聞2024.8.26
京都国際高校が甲子園で優勝した後、「東海*19(トンヘ:NHKで流れた日本語訳では「東の海」)を渡りし/大和の地は/偉大な祖先/古の夢の場所」という歌詞が含まれた韓国語の校歌を歌い、この場面がNHKを通じて日本全域に生中継されたことを問題視したのだ。
ある日本のネットユーザーは「反日プロパガンダを校歌に盛り込んだのだから、物議を醸すのは当たり前だ」として抗議を求める書き込みをあげた。
ただし、嫌悪発言を自制しなければならないという指摘も少なくない。 あるネットユーザーはXへの投稿で、「京都国際高校に申し訳ない気持ち」とコメントし、別のネットユーザーは「うちは家族みんなで京都国際高校を応援している。このような恥ずかしい書き込みは削除してほしい」と綴った。
京都国際高校に対する嫌韓世論は今回が初めてではない。 2021年に初めて甲子園本選に進出しベスト4まで勝ち上がった時も、脅迫コメントと電話が相次ぎ、警察が学校周辺を巡察したこともあった。
嫌韓世論が拡散する兆しを見せたことを受け、京都府の西脇隆俊知事は、8月23日定例会見で、「許せない行動で慎んでほしい」とし差別的な投稿の自制を求めたと朝日新聞が報じた。 同報道によると、京都府は準々決勝があった19日からモニタリングを行い、22日までに4件の差別的投稿の削除をXなどの運営事業者に要請した。
【参考:甲子園ラグビー】
花園の前は甲子園!?高校ラグビーの聖地「奪取」の歴史 とことん調査隊 - 日本経済新聞2020.9.1
高校ラグビーの聖地といえば花園ラグビー場(大阪府東大阪市)。今年12月には100回目の全国大会を迎える予定だが、花園が会場となったのは1963年の第42回大会からと、歴史は長くない。かつての聖地を探ると、意外な場所が浮かんできた。
高校野球の聖地、甲子園球場(兵庫県西宮市)から海に向かって20分ほど歩くと、旧公団住宅のアパート群が見えてくる。戦前まで甲子園南運動場があった場所だ。当時を知るスポーツ史研究家の田尾栄一氏は「若いラガーメンが一度は出場してみたいと悲願(した)」と書き残す。
甲子園南運動場で高校ラグビーが開かれたのは、1930年の第12回大会から戦争で中断されるまでの合計14回。大会の公式記録から、朝鮮代表の京城師範の3連覇、名門の秋田工業の初優勝など、熱気が伝わってくる。
高校ラグビーの聖地が高校野球と同じ「甲子園」だったとは驚きだ。
関西の私鉄に詳しい放送大学の原武史*20教授によれば、疑問を解くカギは阪神電気鉄道にある。
「営業地域で重なる阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)との競争が、阪神を沿線開発に駆り立てた」
阪神の狙いは的中する。高校野球もラグビーも当初は阪急沿線の豊中グラウンド(大阪府豊中市)で開いていたが、甲子園に会場を移した。原教授は「阪神が阪急から奪い取ったようなもの」と話す。
花園が高校ラグビーの会場となったのは30年以上後。かつての聖地、甲子園南運動場は戦後の米軍接収に伴い廃止されていた。
花園プレーバック:第13回:京城師範が初優勝 「外地」勢活躍の端緒に | 毎日新聞2020.10.20
創部3年目の京城師範が、3試合で計84得点の攻撃力で、出場2回目で初の頂点に立った。
花園プレーバック:第15回:京城師範が3連覇 秋田工など奮戦及ばず | 毎日新聞2020.10.20
京城師範(朝鮮)が3連覇を達成した。
【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(12)文武両道の京城師範 日朝ラガーで達成した3連覇(1/4ページ) - 産経ニュース2018.4.1
名高いのはラグビー部の活躍だ。野球の「春夏の甲子園」と並ぶ「冬の花園」として、人気が高い現在の全国高校ラグビーの前身大会で、昭和5(1930)年から3連覇の偉業を達成、翌8年も準優勝を果たしている。
朝鮮で盛んだった学生スポーツはラグビーだけではない。野球も大正年間に夏の甲子園の朝鮮地区予選が始まり、京城中▽平壌中(後に一中)▽仁川商▽龍山中▽徽文高等普通などのチームが甲子園の土を踏んでいる。
【参考:甲子園野球】
全国中等学校優勝野球朝鮮大会 - Wikipedia
1921年から1941年まで行われていた全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身:夏の甲子園)の朝鮮地区予選。
全国中等学校優勝野球満洲大会 - Wikipedia
1921年から1941年まで行われていた全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身:夏の甲子園)の満州地区予選。
全国中等学校優勝野球台湾大会 - Wikipedia
1923年から1941年まで行われていた全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身:夏の甲子園)の台湾地区予選。
戦前の甲子園「朝鮮」「台湾」「満洲」からも参加
朝鮮と満洲は大正10年から、台湾は大正12年から代表校が送られるようになりました。
1回戦、2回戦で敗退とおもいきや、台湾の嘉義農林は準優勝、満州の大連商業は甲子園ベスト4に出場しています。
当時の「朝鮮」「台湾」「満洲」は本土からの移住者も多く、朝鮮人や台湾人などといった現地人と日本人の混成チームが多かったといわれています。
台湾映画「KANO」という映画をご存知ですか。
昭和6年(1931年)に台湾の嘉義農林学校野球部が、夏の甲子園出場を果たし、準優勝した実話に基づいた映画です。
「KANO」は、嘉義農林学校の「嘉農」の略です。
甲子園を目指した青春は海を越えて……外地からの挑戦者たち! | 週刊野球太郎
戦前には「外地」と呼んでいた満州、朝鮮、台湾にも、全国大会への参加が認められていた。満州と朝鮮は1921年から、台湾は1923年から参加が認められ、毎年、代表校を甲子園に派遣していた。
1921年の第7回大会に満州代表として初出場したのが大連商だ。大連商は、その大会でいきなり準決勝に進出。さらに1926年の第12回大会では、円城寺満*21と桜井修が中心となり決勝進出を果たす。惜しくも優勝は逃したが、内地勢からは一目置かれる存在となった。
朝鮮の中で力を発揮していたのは5回甲子園に出場した京城中。最高成績はベスト8だった。
台湾勢では、春夏合わせて最多7回の出場を誇る台北一中と、5回出場の嘉義(かぎ)農林が強豪校。特に嘉義農林は1931年の第17回大会に、初出場ながら決勝戦に進出。決勝戦では、吉田正男*22擁する中京商に惜しくも敗れて準優勝に終わり(中略)優勝は成し遂げられなかった。
甲子園出場「KANO」を誇りに 野球のふるさと嘉義:朝日新聞GLOBE+2018.7.19
今から87年前、その夏の甲子園に台湾から出場して、決勝まで勝ち進んだチームがあった。「嘉義(かぎ)農林学校」。野球部のユニフォームには、略称で「KANO」と記されていた。
当時は日本が台湾を植民地統治していた時代だ。部員は、日本人、漢民族系の台湾人、先住民族の混成チームだった。残念ながら決勝戦で敗れたものの、海を越え、はるばる「内地」と呼ばれた日本にやって来たチームの活躍に、観衆は大声援を送ったという。
学校のあった嘉義市は、台北から南へ200キロあまりの西海岸に位置する人口約27万人の地方都市だ。その街がいま、「KANO」を観光資源と位置づけて、街づくりを進めている。
きっかけは、嘉義農林の甲子園出場のドラマを描いた台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」が2014年に製作されたことだった。台湾で大ヒットし、3億台湾㌦(約10億円)以上の興行収入を記録した。野球部の日本人監督、近藤兵太郎*23役を俳優の永瀬正敏さん*24が演じて、日本でも上映されたため、ご存じの方が多いかもしれない。
台湾野球殿堂に近藤兵太郎監督 日台混成「KANO」で甲子園準優勝、式典に教え子ら集結 - 産経ニュース2024.8.6
日本が台湾を統治していた昭和6年の全国中等学校優勝野球大会(現在の甲子園大会)で、初出場した台湾代表の嘉義農林学校(嘉農)を準優勝に導いた近藤兵太郎監督が台湾の「棒球名人堂」(野球殿堂)に入り、台湾で式典が開かれた。
昭和6年(1931年)の「嘉義農林」の準優勝とその映画化、あるいは近藤の野球殿堂入りについていくつかコメントしておきます。
1)小野論文も指摘していますが、1931年の前年の「1930年」には霧社事件 - Wikipediaという「戦前台湾最大の反日暴動」が発生しています。
勿論、だからといって「近藤監督と台湾人学生らの人間的交流が無価値」という話でもないですが、「当時の台湾は現地民と日本人の間に麗しい人間関係が築かれていた」と描き出すのはあまりにも「単純な一面化」すぎます。
2)そしてこの霧社事件、実は「KANO」(2014年)同様にセデック・バレ - Wikipedia(2011年)として映画化されてます。これについては以下の記事を紹介しておきます。
台湾「霧社事件」を歩く:(上)最大の抗日蜂起 頭目モーナ・ルーダオの彫像は写真スポットに | 毎日新聞2019.10.26
台湾で大ヒットした映画「セデック・バレ」。日本統治下の台湾で起きた原住民による最大の抗日蜂起、霧社事件について、セデック族のモーナ・ルーダオを主人公に全編セデック語で描き、日本でも大きな話題を呼んだ。約90年前に起きた事件のゆかりの地を、「抗日霧社事件をめぐる人々」(邦訳、2001年、日本機関紙出版センター)などの著書がある台湾人郷土史家の鄧相揚さん*25(68)と共に歩いた。【高橋咲子】
「ここが花岡山です」と鄧さんが指をさす。
日本の教育を受けた花岡一郎(ダッキス・ノービン)、花岡二郎(ダッキス・ナウイ)の家族21人が集団自殺したスクレダン山のことだ。
当時、日本は見込んだ原住民の子供に日本人子弟のための学校で教育を受けさせた。2人は兄弟ではないが、同じ名字の日本名を与えられ、同様に教育を受けた花子(オビン・ナウイ)と初子*26(オビン・タダオ)とそれぞれ結婚させられた。
一郎、二郎は蜂起には参加せず、結局死を選んだ。祖霊の信仰に基づいたセデックのおきて「ガヤ」と、恩義を受けた日本への義理との板挟みになったと鄧さんは指摘する。
ちなみにこの「セデック・バレ」、
ビビアン・スーがノーギャラで協力!安藤政信共演の歴史ドラマ監督&キャストが明かす製作秘話!|シネマトゥデイ2013.3.5
本作に高山初子という役で出演したビビアンについてダーション監督は、「彼女はもともと原住民のタイヤル族出身。出演依頼をしたら『協力します』と即答してくれて、ギャラを一銭も受け取らず、逆に製作資金を貸してくれました。彼女には同じ台湾原住民のために何かしたいという使命感があったんです。現場でもスターとしてふるまうことは全くせず、周囲のみんなと気さくに接していました」と感動的なエピソードを明かした。
さらに日本人キャストの安藤*27についても「彼はいったん役を引き受けたら全力投球する人で、3か月かけてセデック語を勉強していました。また台湾人にとって安藤さんはスターなのですが、マネージャーもつけず、台湾に一人でやってきた。オフにはあちこちに行って写真撮影やお茶を買ってきたりしていて、不思議な日本人だと思いました」と撮影当時の印象を笑顔で語った。
資金援助も話題に 「セデック・バレ」で台湾先住民演じたビビアン・スー : 映画ニュース - 映画.com2013.4.10
1930年日本統治下の台湾で先住民セデック族が起こした反乱「霧社事件」をテーマに描いた台湾の歴史アクション大作「セデック・バレ」。日本でも人気の高い女優ビビアン・スーがセデック族のひとりを演じている。スー自身が台湾先住民タイヤル族の血をひいているということもあり、本作への思い入れは深く、出演だけでなく資金援助も行った。
スーは日本式高等教育を受け、日本人として日本の警察で働いたセデック族の花岡二郎の妻、高山初子を演じた。初子は霧社事件の後生き残った数少ないセデック族のひとりで、二郎同様本来は原住民の名前を持っていたが、幼い頃から日本の教育を受け、日本名を付けられた。
キャストには実際のセデック族の役者を起用し、安藤政信、木村祐一ら日本人キャストも出演。台湾では大ヒットを記録し、第84回アカデミー賞外国語映画賞*28の台湾代表に選ばれた。
とうことで一時、日本でタレントとして活躍し「ブラックビスケッツ」*29がそれなりにヒットした「ビビアン・スー」が出演しているので、ご存じの方もいるかもしれません。
しかしこの映画、失礼ながら「KANO」に比べると知名度は低いのではないか(そもそも映画で描かれた「霧社事件」自体の知名度が日本では低いでしょうが)。
無論、「知名度の差」については「映画の出来」「興行的成功」と言う要素(とはいえ、どちらの映画も未見なので俺には映画の出来は評価できませんが)はあるでしょうが、やはり「日本人にとって心地よいかどうか」と言う要素は否定できないでしょう。「高校野球映画(KANO)」と違い「戦前台湾最大の抗日事件である霧社事件(セデック・バレ)」なんて日本人にとって正直心地よいとは言えないでしょう。
3)なお、映画はともかく「近藤の殿堂入り」は
八田與一 - Wikipedia*30
烏山頭ダムの設計者として知られる。
2010年2月10日に「八田與一記念公園」の着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九*31総統や八田の故郷・石川県出身の元首相・森喜朗*32が参加した。
等と同じ意味合いがあり、「単純に喜んでいい話ではない」のではないか。
つまりは
A)「日本の台湾ロビー」を取り込み、中国に対抗しようとする台湾の「反中国派(頼清徳*33民進党政権など)」の思惑
B)戦前日本の台湾統治を美化したい日本右派(産経や自民党安倍派、日本最大の右翼団体『日本会議』など)の思惑
という「政治的野合」の産物という面がありはしないか。
【参考:外地の野球選手】
甲子園の選手ではないですが、小野論文で紹介されてる選手をいくつか紹介しておきます。
朝鮮のスポーツ - Wikipedia
李栄敏は1934年に日米野球*34に「全日本軍メンバー」として出場し、朝鮮野球協会(現在の大韓野球協会)初代理事長となった。1958年にはその名前を記念して韓国の高校野球で最高打率を記録した選手に授与する李栄敏打撃賞が制定された。
マスコットで振り返るプロ野球史㉖ 大映・毎日・大毎・ロッテ編(姉妹編) 韓国ロッテジャイアンツ② | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~
学生野球で、台湾や朝鮮の代表校が、甲子園で大活躍を見せていたが、「都市対抗野球」にも、戦前は満州や台湾、朝鮮などの代表チームも多数出場しており、朝鮮代表の「全京城」は、1940(昭和15)年、1942(昭和17)年の2度、「都市対抗野球」で優勝を果たしている。
そんな中、朝鮮野球界に、李栄敏というスーパースターが登場した。
李は、1928(昭和3)年、朝鮮の選手として初めてホームランを打った選手とされているが、1934(昭和9)年の「全日本VS全米オールスターズ」の日米野球にも、「日本代表」として名を連ねている。
なお、後年、李の名を称え、韓国の高校野球大会では「李栄敏打撃賞」という賞も設けられている。
野球朝鮮民主主義人民共和国代表、その素顔に迫る|わしお
当時の全国中等学校優勝野球大会、いわゆる「夏の甲子園」では、1921年の第7回大会から朝鮮と満州、1923年の第9回大会から台湾で「地方大会」が実施された(大島裕史*35『韓国野球の源流:玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス』(2006年、新幹社)p12)。
また、1927年に始まった社会人野球の大会、都市対抗野球でも朝鮮、中国、台湾の代表が出場していた(大島p20)。1933年に開催された第7回都市対抗野球大会に朝鮮代表として出場し準優勝した「全京城」はほぼ日本人主体のチームであったが、その中で唯一の朝鮮人選手であった李栄敏(イ・ヨンミン)は(ボーガス注:学生時代には)陸上競技、サッカーにおいても優秀な成績をおさめた万能型の選手で、1925年には京城運動場史上初の「柵越えホームラン」を放つなど、「朝鮮のベーブ・ルース」と称されていた(大島PP20‐21)。
(中略)
また、平壌高等普通学校からは朴賢明(パク・ヒョンミョン)という選手が頭角を現し、社会人野球の「全京城」のメンバーとしても都市対抗野球に出場したのち、1938年途中に大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団した(正岡大陸「北朝鮮野球史2」『チュッペ』第18号(宮塚コリア研究所)p4)。
朴賢明 - Wikipedia
1911年生まれ(没年不明)。平壌高等普通学校から全京城に進み、1938年に第12回都市対抗野球大会にも出場してチームの準優勝に貢献した。その後、朝鮮遠征中だった明治大学硬式野球部と対戦し、7回までノーヒットに抑えた事が大阪タイガース(現:阪神タイガース)関係者の目に止まった。
1938年、タイガースへ入団。しかし当時のチームの投手陣の層は厚く、1939年に2試合登板して1敗の成績を残したが、実際は打撃投手としての活動が主であり、1939年限りで退団。その後は北朝鮮に在住した。三美スーパースターズ(後の現代ユニコーンズ。2007年解散)の初代監督を務めた朴賢植は弟に当たる。
阪神で選手、監督を務めた松木謙治郎*36は著書『タイガースの生いたち:阪神球団史』(1973年、恒文社)で、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)監督時代の1969年、韓国遠征で弟の朴賢植と会ったが「兄は平壌にいる」と言われ、再会できなかった無念を書いている。
*1:淑徳大学教授。著書『日本古代の王権と山野河海』(2009年、吉川弘文館)、『古代王権と出雲』(2014年、同成社)、『能登・加賀立国と地域社会』(2021年、同成社)
*2:1913~2018年。著書『埋もれた金印:女王卑弥呼と日本の黎明』(1954年、岩波新書)、『倭の五王』(1968年、岩波新書)、『邪馬台国の探究』(1972年、青木書店)、『近代東アジア世界の形成』(1977年、春秋社)、『東アジア世界研究への模索』(1982年、校倉書房)、『壬午軍乱と近代東アジア世界の成立』(1987年、春秋社)等
*3:1912~1986年。法政大学名誉教授。著書『神話と文学』(岩波現代文庫)、『中世的世界の形成』(岩波文庫)、『歴史と民族の発見』(平凡社ライブラリー)等
*4:1925~2013年。岡山大学名誉教授。著書『日本古代村落史序説』(1980年、塙書房)、『吉備古代史の展開』(1995年、塙書房)、『卑弥呼の時代』(1995年、新日本新書)、『倭王権の時代』(1998年、新日本新書)、『七支刀の謎を解く』(2001年、新日本出版社)、『古代日本の国家形成』(2005年、新日本出版社)等
*5:大阪大学名誉教授。著書『日本農耕社会の成立過程』(1989年、岩波書店)、『王陵の考古学』(2000年、岩波書店)、『古代国家はいつ成立したか』(2011年、岩波新書)等
*6:国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書『前方後円墳の世界』(2010年、岩波新書)、『カミ観念と古代国家』(2010年、角川叢書)、『古墳時代像を再考する』(2013年、同成社)、『前方後円墳とはなにか』(2019年、中公叢書)等
*7:桜井市纒向学研究センター所長。著書『王権誕生』(2008年、講談社学術文庫)、『青銅器のマツリと政治社会』(2010年、吉川弘文館)、『王権と都市の形成史論』(2011年、吉川弘文館)、『弥生時代の年代と交流』(2014年、吉川弘文館)、 『弥生時代国家形成史論』(2017年、吉川弘文館)、『弥生国家論』(2021年、敬文舎)、『卑弥呼とヤマト王権』(2023年、中公選書)
*8:1944~2016年。著書『マルクス主義国家論(増補版)』(1974年、三一書房)、『唯物史観と国家理論』(1980年、三一書房)、『国家の本質と起源』(1981年、勁草書房)、『国家論大綱第1巻上・下』(2003年、勁草書房)、『国家論大綱第2巻』(2014年、勁草書房)等(滝村隆一 - Wikipedia参照)
*9:国立歴史民俗博物館教授、総合研究大学院大学教授。著書『古代王権と都城』(1998年、吉川弘文館)、『古代王権と官僚制』(2000年、臨川書店)、『女帝の世紀』(2006年、角川選書)、『卑弥呼と台与』(2009年、山川出版社日本史リブレット人)、『都はなぜ移るのか:遷都の古代史』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『古代王権と支配構造』(2012年、吉川弘文館)、『藤原仲麻呂』(2021年、中公新書)、『東アジアからみた「大化改新」』(2022年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『加耶/任那』(2024年、中公新書)、『古代王権と東アジア世界』(2024年、吉川弘文館)
*10:京都大学教授。著書『古墳時代の王権構造』(2011年、吉川弘文館)、『日本列島出土鏡集成』(2016年、同成社)、『古墳時代の国家形成』(2018年、吉川弘文館)、『古墳時代銅鏡論考』(2018年、同成社)、『鏡の古墳時代』(2022年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
*11:九州大学名誉教授。著書『古代都城の空間操作と荘厳』(2019年、すいれん舎)、『古代国家形成過程論』(2022年、すいれん舎)
*13:神戸大学教授。著書『日本古代王権の支配論理』(2009年、塙書房)、『国家形成期の王宮と地域社会』(2019年、塙書房)、『倭国・古代国家への道』(2021年、講談社現代新書)
*14:著書『江戸鷹場制度の研究』(2017年、吉川弘文館)
*15:九州大学准教授。著書『朝鮮独立運動と東アジア:1910-1925』(2013年、思文閣出版)、『帝国日本と朝鮮野球』(2017年、中公叢書)、『「甲子園」の眺め方:歴史としての高校野球』(共著、2018年、小さ子社)、『韓国「建国」の起源を探る:三・一独立運動とナショナリズムの変遷』(2021年、慶應義塾大学出版会)
*16:2004年生まれ。2021年のドラフト会議で阪神タイガースから7位指名を受け入団(中川勇斗 - Wikipedia参照)
*17:2004年生まれ。2022年のドラフト会議で横浜DeNAベイスターズから4位指名を受け入団(森下瑠大 - Wikipedia参照)
*18:元国交官僚。 国交省総合政策局長、大臣官房長、国土交通審議官、復興庁事務次官等を歴任。2018年、京都府知事選に5党(自民、公明、民進、立民、希望)推薦で出馬し、当選。2022年、京都府知事選に4党(自民、公明、立民、国民民主)推薦で出馬し、再選
*20:鉄道関係の著書に『鉄道ひとつばなし』(2003年、講談社現代新書)、『鉄道ひとつばなし2』(2007年、講談社現代新書)、『鉄道ひとつばなし3』(2011年、講談社現代新書)、『震災と鉄道』(2011年、朝日新書)、『歴史のダイヤグラム:鉄道に見る日本近現代史』(2021年、朝日新書)、『歴史のダイヤグラム【2号車】:鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(2023年、朝日新書)
*21:1908~1983年。大連商業時代、夏の甲子園にエースとして出場、準優勝を果たす。1946年に日本野球連盟に入局し審判員として活動、1967年までつとめた。1961年の日本シリーズ第4戦「9回裏2死満塁」における「ボール判定」で知られる。3-2で南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)リードの9回裏二死満塁、この回途中から登板のジョー・スタンカが、巨人の打者宮本敏雄を2ストライクと追い込んで投じた外角低めを、宮本が見送った。ゲームセットと思った捕手野村克也は腰を浮かせたが球審の円城寺はボールの判定。これにバッテリーと鶴岡一人監督が抗議するが判定は覆らず、試合再開後のスタンカの投球を宮本が右翼に逆転サヨナラ適時打を放った。このときスタンカはベースカバーに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた 。試合が終わるや否や南海の選手たちは円城寺に猛抗議をし、円城寺は関係者に守られながら球場を後にする。巨人はこのサヨナラ勝ちで3勝1敗になり、シリーズに王手をかけ、次の第5試合に勝利して4勝1敗で巨人が日本シリーズを制覇した(円城寺満 - Wikipedia参照)
*22:1914~1996年。中京商業学校(現・中京大中京高校)野球部3年生春の選抜大会から5年生夏の全国大会まで6季連続で甲子園に出場し、春は準優勝1回、夏は甲子園史上唯一の3連覇を達成した(なお、吉田率いる中京商業以降3連覇を達成した学校はない。2006年(平成18年)の夏の甲子園決勝では、駒澤大学附属苫小牧高等学校が73年ぶりの3連覇に挑んだが、惜しくも達成はならなかった)。この間に甲子園史上最多勝利数の23勝3敗という記録を残している。高校卒業後、明治大学に進学。東京六大学野球では1936年(昭和11年)春季リーグ戦で8試合登板7勝1敗で優勝に貢献する等、在学中29試合に登板し12勝5敗という成績を残したが、途中で肩を痛め、1938年(昭和13年)に外野手に転向した。大学卒業の際には職業野球(プロ野球)入りを検討するも、当時は職業野球選手の社会的地位は低いものとされていた。後に妻となる女性の父から「職業野球選手にならないこと」を条件として結婚を許されたため、職業野球入りを断念。1939年(昭和14年)、藤倉電線(現・フジクラ)に入社し、野球部で投手に復帰した。その年の都市対抗野球大会に東京市代表で出場し、全4試合を連投して優勝に導き、吉田は最優秀選手賞である橋戸賞を受賞した。その後は、藤倉電線野球部を改組した全藤倉野球部のコーチ等を歴任し、1964年(昭和39年)から中日新聞専属のアマチュア野球評論家となる等、一貫してアマチュア野球に関わり続けた。1992年(平成4年)に特別表彰で野球殿堂入り(吉田正男 - Wikipedia参照)
*23:1888~1966年。1919年に松山商業野球部を初の全国出場(夏のベスト8)に導いた監督として、また1931年に嘉義農林学校を率いて甲子園準優勝に導いた監督として知られる。著名な教え子に巨人、阪神の監督を務めた藤本定義、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の監督、球団社長を務めた森茂雄(以上松山商)、戦後、大阪タイガース(現・阪神タイガース)、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で活躍した呉昌征、戦後、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)で活躍した今久留主淳(いまくるす・すなお)、戦後、毎日オリオンズ、近鉄パールス(現・オリックスバファローズ)で活躍した今久留主功(いまくるす・いさお:今久留主淳の弟)、戦後、巨人で活躍した呉新亨(日本名・萩原寛)(以上嘉義農林)がいる。(近藤兵太郎 - Wikipedia参照)
*24:1966年生まれ。1983年、相米慎二監督の映画『ションベン・ライダー』でデビュー。1991年、山田洋次監督の映画『息子』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、キネマ旬報助演男優賞、ブルーリボン賞助演男優賞を受賞(永瀬正敏 - Wikipedia参照)
*25:著書『抗日霧社事件の歴史』、『植民地台湾の原住民と日本人警察官の家族たち』(以上、邦訳、2000年、日本機関紙出版センター)
*27:1975年生まれ。1996年、映画『キッズ・リターン』でデビューし、日本アカデミー賞新人俳優賞、報知映画賞新人賞、キネマ旬報新人男優賞等を受賞(安藤政信 - Wikipedia参照)
*28:各国から1作品推薦されたものを、予備選考で5作品にした上で、その5作品について本選でアカデミー会員が選出(なお、日本では業界団体「日本映画製作者連盟(松竹、東宝、東映、角川映画が参加)」が推薦している)。第84回(2011年)の受賞作品はイラン映画『別離 (2011年の映画) - Wikipedia』(アカデミー国際長編映画賞 - Wikipedia参照)
*29:当時、ビビアンが出演していた番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(1996~2002年まで放送)から誕生した音楽ユニット(1996~1999年まで活動)。ビビアン以外のメンバーはウッチャンナンチャンの南原清隆、キャイ〜ンの天野ひろゆき(ブラックビスケッツ - Wikipedia参照)
*30:なお、『KANO』においても八田與一(演:大沢たかお)が登場します(KANO 1931海の向こうの甲子園 - Wikipedia参照)
*31:法務部長(法相:1993~1996年)、台北市長(1998~2006年:2期8年)、総統(2008~2016年:2期8年)を歴任
*32:中曽根内閣文相、自民党政調会長、宮沢内閣通産相、村山内閣建設相、自民党総務会長(橋本総裁時代)、幹事長(小渕総裁時代)等を経て首相。なお、森が会長を務めた森派(清和会)は歴史的に「派閥創設者・岸信介」の頃から「親台湾、反中国」の色が濃く、森の出席は単に「八田の出身地・石川県選出の国会議員だから」ではないでしょう。
*33:台南市長(2010~2017年:2期8年の途中で行政院長就任のため退任)、行政院長(首相:2017~2019年)、副総統(2020~2024年)等を経て、2024年5月から総統(頼清徳 - Wikipedia参照)
*34:ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスの三大本塁打王に、速球王のレフティ・ゴメスらを擁するMLB選抜が、智将コニー・マック監督とともに来日。対する日本は初めてのプロチーム「全日本軍」で挑むも、16戦全敗に終わった。しかし、静岡県草薙総合運動場硬式野球場での沢村栄治の好投(7回裏にルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴び0対1で敗れるが、6回まで無失点)は今でも日本で語り草となっている。この年の日米野球をきっかけとして、1934年12月に日本初の職業野球チームである「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成された(日米野球 - Wikipedia参照)
*35:著書『日韓キックオフ伝説:ワールドカップ共催への長き道のり』(1996年、実業之日本社→2002年、集英社文庫)、『コリアンスポーツ〈克日〉戦争』(2008年、新潮社)、『魂の相克:在日スポーツ英雄列伝』(2012年、集英社)等
*36:1909~1986年。阪神タイガースで連続4年間(1950~1954年)にわたり監督を務めた。連続5年間にわたって在任した監督は1990年就任の中村勝広(1990~1995年)まで存在せず、中村は6年目の前半で途中退団しており、6年間、連続で在任した阪神監督はまだ存在しない。1955年には大映スターズ(現・千葉ロッテマリーンズ)打撃コーチに就任し、1956年途中からは監督も務めた。1958年から1960年には東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)打撃コーチを務め、1959年に東映フライヤーズに入団した張本勲は松木を師と仰いだ。張本は後に「王選手にとっての荒川さん(巨人コーチ)が、私にとっては松木さんだった」と語っている。東映フライヤーズ退団後はNHK解説者(1961~1968年)を務め、1969年から1970年途中までは東映フライヤーズに復帰して再び監督を務めた。1978年に野球殿堂入り(松木謙治郎 - Wikipedia参照)