谷川俊太郎の詩 「除名」 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
「谷川氏の逝去」について触れる場合も「党に当てこすりかよ」と心底呆れます。「党に対して失礼」というより「谷川氏に対して失礼」でしょう。何も谷川氏は松竹や紙屋のように反共活動家として「党批判をライフワークにしてきたわけではない」ので。
この詩が
1)「鉄腕アトム主題歌の作詞」など他の「有名な谷川氏の業績」に比べて「あまり有名でない」とか
2)「詩の表現だけでは言いたいことがよく分からない」とかいうこともある*1でしょうが「反共の産経」ですら以下の通り、松竹のような「反共言動」はしていません。
評伝・谷川俊太郎さん 透明な詩情、音楽のように 日常語で深く広い世界へ読者誘う - 産経ニュース
(ボーガス注:市川崑が監督した1964年東京)五輪記録映画の脚本*2、ベストセラーとなった英の童謡集「マザー・グースのうた」や米人気漫画「ピーナッツ」の邦訳、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌、絵本、エッセー…と詩情を発揮する場は際限なく広がった。
<生きているということ/いま生きているということ>。
そう始まる詩「生きる」は東日本大震災後に盛んに朗読され、被災者の悲しみを静かに包んだ。
なお、松竹によれば、谷川氏のこの詩の発表は1962年。
この前年には
春日庄次郎 - Wikipedia
1961年7月25~31日の日本共産党第8回大会に先立ち、春日(1903~1976年)は7月8日、綱領草案に反対し離党声明を発表。7月15日、山田六左衛門(1901~1978年)ら反主流派の6人の中央委員は、綱領草案討議における「少数意見抑圧」に反対し声明を出したが、7月20日、春日は反党活動を理由に山田ら6人とともに除名された。 1962年5月、山田らと「統一社会主義同盟*3」(統社同)を結成。
ですので、それを踏まえた話でしょう。
但し、「松竹が紹介する、谷川氏の詩(引用紹介は省略しますが)」を読んでも彼の「除名に対する評価」はよく分かりません。せいぜい「除名されても、党から否定的に評価されただけで、別に人生が終わったわけじゃない」程度のことしか読み取れない。それは別に「除名批判」と言う話ではないでしょう。
なお、谷川氏自身は別に党員ではないようだし、当然、除名されてもいません(ウィキペディア「谷川俊太郎」には彼が党員だったという記載はない)。彼と「除名」との関係性(例えば除名された者に知人がいて同情的だったなど)はこの詩だけではよく分かりません。
いずれにせよ「1961年当時の春日らの除名」と「松竹、鈴木、紙屋の除名」は性格が違うので単純に「1961年の除名が正しいから今回も正しい(あるいはその逆に、1961年の除名が間違いだから今回も間違い)」等と言えないことだけは確かです。
また、この松竹の書きぶりでは、谷川氏が共産に否定的だったかのようですが、ググったところ
しんぶん赤旗日曜版にて 谷川俊太郎さんと対談をしました。 | 塚本やすしオフィシャル・絵本作家 [email protected]2021.12.14
ですので、「記事の内容は塚本氏、谷川氏の対談*4」であって「谷川氏による共産への賛同メッセージではない」とはいえ、谷川氏なりに共産には「好意的、肯定的評価」だったのではないか。
まあ、
反原発デモに「谷川俊太郎さんは『名前は出さないが金は出す』と...」 「ソフィーの世界」翻訳者の回顧が波紋(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
池田氏はXで「もう言ってもいいよね」と前置きし、(中略)「反原発杉並デモ、谷川俊太郎さんは『名前は出さないが金は出す』と10万円カンパしてくださった」と、谷川さんが生前、匿名を条件にカンパしてくれていたことを明かし、「ご冥福をお祈りします」とつづっていた。
だそうなので谷川氏が「原発推進派」に批判的だったことは確かでしょう。
(ボーガス注:谷川俊太郎 - Wikipediaによれば)谷川は、1960年の安保改定に際して、「若い日本の会」を結成し、反対闘争に参加したそうだ。これは石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人が加わった
このうち、「九条の会呼びかけ人」の大江などはその後も左派ですが、石原(福田内閣環境庁長官、竹下内閣運輸相、都知事、維新の会共同代表、次世代の党最高顧問等を歴任)、江藤(晩年、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム - Wikipediaを主張。「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者の一人)、浅利(中曽根首相のブレーンと言われた)、黛(右翼結社「日本を守る国民会議(日本会議の前身)」議長)らは右翼転向します。
なお、上記は松竹記事に投稿しますが掲載拒否でしょう。「賛同コメントしか掲載しない松竹のクズさ」には心底呆れます。
参考
谷川俊太郎 - Wikipedia
【作詞】
◆鉄腕アトム(作曲:高井達雄)
手塚治虫原作の同名アニメ(1963~1966年、フジテレビ)の主題歌
◆ビッグX(作曲:冨田勲*5)
手塚治虫原作の同名アニメ(1964~1965年、TBS)の主題歌
◆俺たちの朝(作曲:小室等)
日本テレビ系の同名ドラマ(1976~1977年)の主題歌
◆世界の約束(作曲:木村弓)
ジブリ映画『ハウルの動く城』(2004年)主題歌
谷川俊太郎さん手がけた社歌 帯広の菓子メーカーからも悼む声|NHK 北海道のニュース2024.11.19
帯広市の菓子メーカー「六花亭*6」は、1988年に会社側が谷川さんに作詞を依頼し、「六花亭の歌」と題した社歌が出来ました。
今も帯広市の本社には、歌詞が額縁に入れられた状態で飾られていて、歌は毎朝9時に工場内で流され社員たちに親しまれているということです。
谷川俊太郎さん死去 岩手にも縁、校歌や北上市民の歌を作詞 | 岩手日報 IWATE NIPPO2024.11.20
戦後日本を代表する詩人の谷川俊太郎さんは、県内にある複数の学校の校歌や北上市民の歌「きらめいて」を作詞した。
「せめぎ合う夢」「星々の秘密」 校歌らしくない谷川俊太郎さんの詩 [茨城県]:朝日新聞デジタル2024.11.20
谷川さんは、全国各地で校歌の作詞を多く手がけたことでも知られる。
茨城県立並木中等教育学校(つくば市)の校歌は、1984年に開校した前身の県立並木高校向けにつくられた。
谷川さん作詞 感謝の校歌 大洗南小、元気な声響く 茨城県内で交流、人柄しのぶ(茨城新聞クロスアイ) - Yahoo!ニュース2024.11.20
学校統合により2016年に開校した大洗町立南小(同町大貫町)の校歌は、谷川さんが作詞した。
死去の谷川俊太郎さん 金沢・兼六小の校歌作詞 児童にメッセージ(北國新聞社) - Yahoo!ニュース2024.11.20
谷川俊太郎さんは2016年に金沢市の材木町、味噌蔵町の両小学校が統合してできた兼六小で、校歌の作詞を手掛けた。
谷川俊太郎さん死去 校歌作詞の京都市の小学校で悼む声|NHK 京都府のニュース2024.11.20
京都市左京区にある同志社小学校の校歌は、谷川さんの母親が現在の同志社女子大学の卒業生だった縁などから谷川さんが作詞し、校内には歌詞の一部が直筆で飾られています。
静岡:谷川俊太郎さん死去 思い、情景校歌に残る :地域ニュース : 読売新聞2024.11.21
静岡市葵区の県立静岡東高校では開校から3年度目となる1966年1月に、校歌が誕生した。学校関係者から依頼を受けた谷川さんが作詞を担当し、校内には直筆の原稿用紙も残されている。
牧之原市立相良小学校の校歌は、1977年*7に谷川さんが作詞。
谷川俊太郎さん各地で追悼 大分県内でも園歌や校歌を手掛ける「大事に歌い続けて次の世代に繋げていく」|FNNプライムオンライン2024.11.21
佐伯市のルンビニこども園です。こちらでは10年前、園長が知り合いを通じて谷川さんに園歌の作詞を直接依頼。
谷川さんは快諾してくれたといい作曲は谷川さんの長男賢作さんが担当しました。
日田市にある昭和学園高校では、共学になった22年前から谷川さんが作詞した校歌を歌い続けています。
ということで、谷川氏はかなり有名な詩人だったと言えるでしょう。
知名度の点では
谷川俊太郎の死によせて - 高世仁のジャーナルな日々
さまざまなメディアに露出して社会に大きな影響力を持った。これほどの国民的詩人は不世出と言っていいだろう。
と高世が指摘するとおりでしょう。
今年亡くなった詩人(訃報 2024年 - Wikipedia参照)には谷川氏(1931年生まれ、2024年11月13日死去)の他に
白石かずこ - Wikipedia(2024.6.14死去)
1931年生まれ。1970年、『聖なる淫者の季節』でH氏賞*8、1978年、『一艘のカヌー、未来へ戻る』で無限賞、1982年、『砂族』で藤村記念歴程賞*9、1997年、『現れるものたちをして』で高見順賞*10、読売文学賞(詩歌部門)、1998年、紫綬褒章、2003年、『浮遊する母、都市』で晩翠賞受賞。2009年『詩の風景、詩人の肖像』で二度目の読売文学賞(随筆・紀行部門)受賞。
新川和江 - Wikipedia(2024.8.10死去)
1929年生まれ。
1960年、『季節の花詩集』第9回小学館文学賞受賞。
1965年、『ローマの秋・その他』第5回室生犀星詩人賞*11受賞。
1987年、『ひきわり麦抄』で第5回現代詩人賞受賞。
1992年、『星のおしごと』第22回日本童謡賞受賞。
1993年、『潮の庭から』(加島祥造*12共著)で第3回丸山豊記念現代詩賞*13受賞。
1998年、『けさの陽に』で第13回詩歌文学館賞受賞。
2000年、『いつもどこかで』で第47回産経児童出版文化賞JR賞受賞。勲四等瑞宝章受章
がいますが、こうした人々は谷川ほどの知名度はないでしょう。勿論「知名度が高いこと=優れていること」「知名度が低いこと=劣っていること」を必ずしも意味しませんが。
*1:まあ1962年の発表当時はともかく、その後、この詩について谷川氏がどれほど思い入れがあったかも不明ですが。
*2:正確には市川崑、和田夏十(市川の妻で脚本家、『ビルマの竪琴』(1956年)など市川映画の脚本を多数執筆)と谷川氏の共同脚本
*3:ググってもこの団体が現在どうなってるかよく分かりません。
*4:塚本氏は、谷川氏との共著『ふたり☆おなじ星のうえで』(2007年、東京書籍)、『そのこ』(2011年、晶文社)、『しんでくれた』(2014年、佼成出版社)、『うんこ』(2015年、ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『にじゅうおくこうねんのこどく:二十億光年の孤独』(2021年、小学館)を刊行(塚本やすし - Wikipedia参照)
*5:1932~2016年。『ビッグX』以外にも『ジャングル大帝』(1965~1966年、フジテレビ)、『リボンの騎士』(1967~1968年、フジテレビ)、『どろろ』(1969年、フジテレビ)といった手塚治虫原作アニメの主題歌を作曲(冨田勲 - Wikipedia参照)
*6:「マルセイバターサンド」などで知られる(六花亭 - Wikipedia参照)
*7:1977年当時は牧之原市(2005年に市町村合併で誕生)ではなく相良町
*8:協栄産業創業者の平澤貞二郎(1904~1991年)の基金により1950年(昭和25年)に創設された。平澤が匿名を強く希望したため、賞の名はHirasawaの頭文字だけを冠する。「佐藤春夫(1892~1964年)がH氏では?」との憶測も流れたため、平澤と共に発案者であった村野四郎(1901~1975年)はやむを得ず、日本経済新聞コラム「交遊抄」の1965年1月6日付けで、平澤であると明かした(H氏賞 - Wikipedia参照)
*9:詩誌『歴程』が、島崎藤村を記念して創設(藤村記念歴程賞 - Wikipedia参照)
*10:1971~2020年まで高見順文学振興会が主催(高見順賞 - Wikipedia参照)
*11:室生犀星(1889~1962年)が1960年に設立。犀星死後は遺族によって続けられたが、第7回(1967年)で終了(室生犀星詩人賞 - Wikipedia参照)
*12:1923~2015年。詩人。翻訳家。著書『英語の辞書の話』(1985年、講談社学術文庫)、『アメリカン・ユーモア』(1990年、中公文庫)、『英語名言集』(1993年、岩波ジュニア新書)、『ハートで読む英語の名言』(1996年、平凡社ライブラリー)、『会話を楽しむ』(2004年、岩波新書)等。翻訳にウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』、『八月の光』(以上、新潮文庫)、マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』(ちくま文庫)等(加島祥造 - Wikipedia参照)
*13:詩人の丸山豊(1915~1989年)を顕彰する目的で福岡県久留米市が1991年に創設。25回(2016年)で終了(丸山豊記念現代詩賞 - Wikipedia参照)