Oが夏のバカンスから日本に帰ってきたとき、僕は「今度飲みに行こう」と言おうとしたのだけど、「今度」というのを英語でなんて言えば良いのか分からなくて、違うのは分かっていたけれどとっさに"some day"と言ってしまった。言った後で、違うんだsomedayじゃなくて、と弁解しようとすると、Oは「大丈夫、何が言いたいのかは分かっている。僕もネイティブじゃないから、そういうことは予測しやすい」と言った。
そうか、確かにOも母国語は英語じゃないし、彼も過去のある時点で英語を勉強して習得したのだ。その過程で、たとえばsome day という言葉は一体どのようなことを表しているのか、というようなことも一度は考えている筈だ。外国語を学ぶというのは、外国語を理解しようとするに留まらず、対象とする言語を分析する試みでもある。
ハーフの子供が、自然に日本語も英語もぺらぺら喋ったりするのをみて、僕はずっとそれを羨ましいなと思っていた。
でも、最近ではそうことは単純でもないなと思う。
生まれついて、自然にある言語を習得する場合、その人はその言語の外に出ることが難しい。たとえば、僕はネイティブな日本語話者なので、日本語の構造について深く考えることは難しい。少なくとも、思考に用いる基本的な言語に日本語が設定されているので、僕は物事を日本語の枠組みで考える。だから、日本語自体について深く考えようとしても、「日本語で日本語のことを考える」という自己言及的なループに陥る。ゲーテルの定理を引く間でもなく、これでは意味のある議論はできない。「白か黒かでしか物事を判断できない人」が「白か黒かでしか判断しないという方法はもしかしたら変かもしれない」ということを「白か黒か」だけの推論を用いて考えるということだ。「白か黒か」がおかしいかもしれないのに、「白か黒か」でそれについて考える、というのは最初から出口のない思考だ。
すこし極端な言い方をすれば、これは僕が日本語の中で生きているということを意味している。
対して、英語は意図的に習得すべき言語なので、僕はそれを外部から眺めて構造を把握するという作業を強いられる。つまり、その気になれば、僕は英語の全図を外部から俯瞰することができるということだ。これは生来の英語話者にはできない。
だから、最も本質的な意味合いでは、僕の方がネイティブの英語話者よりも「より自由な」英語の使い方を習得できる、という可能性がある。
それで、最近は翻訳の本を読んでいるのでやっぱり翻訳のことを考えてしまうのですが、翻訳というのが一体どういう作業なのか、ということが、この言語空間を意識したときによりクリアに分かった気がした。
「日本語を母国語とする人間が、英語で書かれた文章を日本語に翻訳する」という場面を例にとると、まず僕たちは「日本語の中」にいて、「英語を外から眺めて」います。しかし、「英語を外から眺めて」いるのは翻訳に入る以前の段階であって、翻訳作業に入った瞬間、我々はその文章を書いた英語話者に同化する必要に迫られます。これは「英語の中に入った振りをする」ということです。ネイティブではないので本当に中に入るのは難しい。ただ、入った振り(つもり)はできる。これは同時に「日本語の中から出た振り」でもある。
そうして、日本語から出て英語に入った振りをして、英文の感じを掴み、次にそれを日本語に変換する訳ですが、このときはさっきの逆で「英語を出て日本語に入った振り」をしなくてはならない。
なぜ「振り」なのかというと、完全に日本語の中に戻って来ると、「英語の中」で掴んだ「感じ」が失われてしまう上に、日本語を俯瞰する努力なしにはその「感じ」を日本語の中に探し出すことはできないからだ。
こうして、日本語と英語の間を行ったり来たりしているうちに、翻訳者は「日本語でも英語でもあり日本語でも英語でもない場所」に立つことに成功する。それはたぶん言語コミュニケーションの本質と呼ばれるべき場所だ。
話がややこしくなったので例え話をすると、言葉は納豆と、とろけるチーズだと言える。
日本語を普通の納豆、英語をチーズだとすると、納豆とチーズは異文化異言語なので、違う器に入れてテーブルの上に置かれている。僕たちは納豆に住む虫のようなものだ。最初は納豆を食べていたのだけど、向こうにチーズがあるのでそれを食べたくなって、チーズの器に移動する。これが「英語に入る振り」に相当する。これが「振り」であって、「入る」ではないというのは、納豆が糸を引くということだ。虫は一本の糸を引いたままチーズに入り、納豆に帰ってくるときはチーズの糸を引いている。
そうやって何度も往復していると、納豆とチーズの糸で編まれた道がテーブルの上に出現して、虫はその道が一体何に支えられているのかを考えるようになる。納豆の中にいるときは、器が納豆を支えていると思っていたし、チーズにいたときは皿がチーズを支えていると思っていた。だけど、この糸はどちらの容器にも入っていない。そうか、じつはテーブルというものがあって、そこにこの道は引かれているのだ、容器も実はこのテーブルというものに載っているのだ、というわけです。
あまりいいたとえ話じゃないですね。余計にややこしくなりました。
実は、さっきまで、翻訳というのは日本語に入ったり英語に入ったりを繰り返すことによって、日本語に入っているときは英語を、英語に入っているときは日本語を客観的に眺めるという往復運動だと思っていたのですが、書き始めると考えが変ってしまって、こんな風になりました。だから、書いている本人も、何を書いているのかあまりよく分かっていません。
さっき、テレビに中曽根さんが出ていて、憲法改正に関して、今の憲法は英語で書かれた物であって、日本語で書かれた物ではない。私達はいい加減に日本語で書いた憲法を作ってもいいはずだ、というようなことを言っていて、それが印象に残っています。感覚としてはよく分かる。
そうか、確かにOも母国語は英語じゃないし、彼も過去のある時点で英語を勉強して習得したのだ。その過程で、たとえばsome day という言葉は一体どのようなことを表しているのか、というようなことも一度は考えている筈だ。外国語を学ぶというのは、外国語を理解しようとするに留まらず、対象とする言語を分析する試みでもある。
ハーフの子供が、自然に日本語も英語もぺらぺら喋ったりするのをみて、僕はずっとそれを羨ましいなと思っていた。
でも、最近ではそうことは単純でもないなと思う。
生まれついて、自然にある言語を習得する場合、その人はその言語の外に出ることが難しい。たとえば、僕はネイティブな日本語話者なので、日本語の構造について深く考えることは難しい。少なくとも、思考に用いる基本的な言語に日本語が設定されているので、僕は物事を日本語の枠組みで考える。だから、日本語自体について深く考えようとしても、「日本語で日本語のことを考える」という自己言及的なループに陥る。ゲーテルの定理を引く間でもなく、これでは意味のある議論はできない。「白か黒かでしか物事を判断できない人」が「白か黒かでしか判断しないという方法はもしかしたら変かもしれない」ということを「白か黒か」だけの推論を用いて考えるということだ。「白か黒か」がおかしいかもしれないのに、「白か黒か」でそれについて考える、というのは最初から出口のない思考だ。
すこし極端な言い方をすれば、これは僕が日本語の中で生きているということを意味している。
対して、英語は意図的に習得すべき言語なので、僕はそれを外部から眺めて構造を把握するという作業を強いられる。つまり、その気になれば、僕は英語の全図を外部から俯瞰することができるということだ。これは生来の英語話者にはできない。
だから、最も本質的な意味合いでは、僕の方がネイティブの英語話者よりも「より自由な」英語の使い方を習得できる、という可能性がある。
それで、最近は翻訳の本を読んでいるのでやっぱり翻訳のことを考えてしまうのですが、翻訳というのが一体どういう作業なのか、ということが、この言語空間を意識したときによりクリアに分かった気がした。
「日本語を母国語とする人間が、英語で書かれた文章を日本語に翻訳する」という場面を例にとると、まず僕たちは「日本語の中」にいて、「英語を外から眺めて」います。しかし、「英語を外から眺めて」いるのは翻訳に入る以前の段階であって、翻訳作業に入った瞬間、我々はその文章を書いた英語話者に同化する必要に迫られます。これは「英語の中に入った振りをする」ということです。ネイティブではないので本当に中に入るのは難しい。ただ、入った振り(つもり)はできる。これは同時に「日本語の中から出た振り」でもある。
そうして、日本語から出て英語に入った振りをして、英文の感じを掴み、次にそれを日本語に変換する訳ですが、このときはさっきの逆で「英語を出て日本語に入った振り」をしなくてはならない。
なぜ「振り」なのかというと、完全に日本語の中に戻って来ると、「英語の中」で掴んだ「感じ」が失われてしまう上に、日本語を俯瞰する努力なしにはその「感じ」を日本語の中に探し出すことはできないからだ。
こうして、日本語と英語の間を行ったり来たりしているうちに、翻訳者は「日本語でも英語でもあり日本語でも英語でもない場所」に立つことに成功する。それはたぶん言語コミュニケーションの本質と呼ばれるべき場所だ。
話がややこしくなったので例え話をすると、言葉は納豆と、とろけるチーズだと言える。
日本語を普通の納豆、英語をチーズだとすると、納豆とチーズは異文化異言語なので、違う器に入れてテーブルの上に置かれている。僕たちは納豆に住む虫のようなものだ。最初は納豆を食べていたのだけど、向こうにチーズがあるのでそれを食べたくなって、チーズの器に移動する。これが「英語に入る振り」に相当する。これが「振り」であって、「入る」ではないというのは、納豆が糸を引くということだ。虫は一本の糸を引いたままチーズに入り、納豆に帰ってくるときはチーズの糸を引いている。
そうやって何度も往復していると、納豆とチーズの糸で編まれた道がテーブルの上に出現して、虫はその道が一体何に支えられているのかを考えるようになる。納豆の中にいるときは、器が納豆を支えていると思っていたし、チーズにいたときは皿がチーズを支えていると思っていた。だけど、この糸はどちらの容器にも入っていない。そうか、じつはテーブルというものがあって、そこにこの道は引かれているのだ、容器も実はこのテーブルというものに載っているのだ、というわけです。
あまりいいたとえ話じゃないですね。余計にややこしくなりました。
実は、さっきまで、翻訳というのは日本語に入ったり英語に入ったりを繰り返すことによって、日本語に入っているときは英語を、英語に入っているときは日本語を客観的に眺めるという往復運動だと思っていたのですが、書き始めると考えが変ってしまって、こんな風になりました。だから、書いている本人も、何を書いているのかあまりよく分かっていません。
さっき、テレビに中曽根さんが出ていて、憲法改正に関して、今の憲法は英語で書かれた物であって、日本語で書かれた物ではない。私達はいい加減に日本語で書いた憲法を作ってもいいはずだ、というようなことを言っていて、それが印象に残っています。感覚としてはよく分かる。