NHKドラマ「LIVE! LOVE! SING!」が非常に印象深かった。大変な力作であり、非常に重要な作品だと私は感じた。
ストーリーをかいつまんで言うと、次のような感じ。
ある神戸の高校に通う朝海(石井杏奈)は、合唱部のお別れ会で歌うことになった「しあわせ運べるように」という歌に違和感を感じていた。
この歌は神戸の震災からの復興を願い生まれた歌で、幼い頃、震災を体験した教師の岡里(渡辺大知)が歌うことを提案したのだった。
朝海は福島の出身で、震災後、神戸に引っ越してきたのだった。
岡里と恋人の関係にある朝海は、この歌への違和感を岡里に上手く伝えられずケンカになり、部活にも出なくなった。
心配した岡里が街で朝海を見つけ尾行していくと、朝海は同郷の勝(柾木玲弥)とともに、電車に乗り、どこかへ向かっていった。
その後、やはり同郷の香雅里(木下百花)や本気(前田航基)と落ち合いながら、岡里と朝海は共に福島へと旅をする。
彼らは小学校のどこかに埋めたタイムカプセルを見つけるべく福島に向かったのだが、そこで色々な人や記憶に出会う。
彼らがそこで見たものは・・・。
震災をドラマにするのは非常に難しい。
第一に、被災した人々は生きていて、それぞれの記憶と痛みを持っており、そうやすやすと一つのストーリーに流し込めないためである。
第二次世界大戦と異なるのは、神戸の震災も東北の震災も「歴史」になっていないことで、それは今なおそこにある「現実」である。
その「現実」は無数にあり、どれもひとつずつ真実で、その複数性と多次元性が単一の物語という構造では十分に掬い取れない。
また、震災をテーマにしたドラマを作るのが難しいもうひとつの理由は、観察者と当事者の緊張関係をなかなか止揚できないことにある。
物語を作る側が当事者の痛みを勝手に語ることは、しばしば強烈な暴力に容易に変化しえる。だから、物語の視点やニュアンスの置き方をどう決めるべきなのか、そこには相当な配慮が必要になる。
この「LIVE! LOVE! SING!」では、福島で被災した子供たちの視点から、彼らがどういう痛みを抱えてきたのか、日本のなかで福島がどういう存在なのか、言葉少なに伝えようとする。
劇中で「日本から捨てられた場所」として語られる福島は、存在しているのに、まるで存在しないかのようだ。
劇中では週刊誌の広告や新聞をモチーフに、福島が一方的に語られながら、現実には物理的に隔絶・閉鎖されている状況が対比される。
直接見たことのない福島が、二次的な情報と想像でもって、勝手に創られていく。
そして、誰もが福島の人々への共感を口にするが、それが子供たちの生き方に呪詛のようにのしかかる。
ただただ普通に生きたいだけなのに、いつの間にか共感や励ましの言葉は、彼らに強く正しく生きなければいけないかのように伝わり、よく分からない一方的な説教になる。
単純な共感に基づく善意が、積み重なって相当な暴力に変化していく。
こうした問題は、言葉で説明しても伝えられない。
思考停止の共感ではなく、もっと深く踏み込んだ当事者への移入がどうしても必要になる。
ただただ当事者の痛みがそこにあるだけで、それは風景や情景以外では伝えられない。
ドラマ「LIVE! LOVE! SING!」は、この言葉にし切れない痛みを何とか表現しようとしている。
ドキュメンタリーのような俳優たちの生々しい会話や動きや表情が、震災というそこにある現実を何とか「そこにある現実」として再構成しようとする方途になっている。
安直な物語化を拒絶する現実に対して、ひとつの誠実な表現の在り方ではないだろうか。
瑞々しい若手俳優たちの演技は、生きることを模索する劇中の子どもたちの姿を浮かび上がらせる。
また、大友良英とSachiko MによるBGMも素晴らしい。
ノイズの混じったギターの音色が、抑制の効いたコードとリズムのなかで、歪んだ構造を映し出すこの物語と見事に一体化している。
最もメッセージを全面に押し出しているのが、物語のちょうど中盤で登場する祭りのシーンだ。
福島をめぐる欺瞞の構造が皮肉の利いた歌で示唆される。
このドラマは安易な結論を拒絶する。
震災について簡単に復興を口にすることがしばしば欺瞞を孕むものだと指摘しながらもなお、
主人公は最後には復興を決意する。
様々な痛みを抱えながらもなお、なんとか生を模索する数多の人々がおり、
それに向かって、私は何を思うべきなのか。何を言葉に出来るのか。
簡単に答えを出せない。けれど、向き合う。
死者を一方的に語ることを避け、しかし悼み続ける。
葛藤した後の選択は、同じ選択でも葛藤抜きのそれとは、意味が異なる。
ドラマから敢えてひとつの結論を引き出そうとするなら、そうなるかもしれない。
ストーリーをかいつまんで言うと、次のような感じ。
ある神戸の高校に通う朝海(石井杏奈)は、合唱部のお別れ会で歌うことになった「しあわせ運べるように」という歌に違和感を感じていた。
この歌は神戸の震災からの復興を願い生まれた歌で、幼い頃、震災を体験した教師の岡里(渡辺大知)が歌うことを提案したのだった。
朝海は福島の出身で、震災後、神戸に引っ越してきたのだった。
岡里と恋人の関係にある朝海は、この歌への違和感を岡里に上手く伝えられずケンカになり、部活にも出なくなった。
心配した岡里が街で朝海を見つけ尾行していくと、朝海は同郷の勝(柾木玲弥)とともに、電車に乗り、どこかへ向かっていった。
その後、やはり同郷の香雅里(木下百花)や本気(前田航基)と落ち合いながら、岡里と朝海は共に福島へと旅をする。
彼らは小学校のどこかに埋めたタイムカプセルを見つけるべく福島に向かったのだが、そこで色々な人や記憶に出会う。
彼らがそこで見たものは・・・。
震災をドラマにするのは非常に難しい。
第一に、被災した人々は生きていて、それぞれの記憶と痛みを持っており、そうやすやすと一つのストーリーに流し込めないためである。
第二次世界大戦と異なるのは、神戸の震災も東北の震災も「歴史」になっていないことで、それは今なおそこにある「現実」である。
その「現実」は無数にあり、どれもひとつずつ真実で、その複数性と多次元性が単一の物語という構造では十分に掬い取れない。
また、震災をテーマにしたドラマを作るのが難しいもうひとつの理由は、観察者と当事者の緊張関係をなかなか止揚できないことにある。
物語を作る側が当事者の痛みを勝手に語ることは、しばしば強烈な暴力に容易に変化しえる。だから、物語の視点やニュアンスの置き方をどう決めるべきなのか、そこには相当な配慮が必要になる。
この「LIVE! LOVE! SING!」では、福島で被災した子供たちの視点から、彼らがどういう痛みを抱えてきたのか、日本のなかで福島がどういう存在なのか、言葉少なに伝えようとする。
劇中で「日本から捨てられた場所」として語られる福島は、存在しているのに、まるで存在しないかのようだ。
劇中では週刊誌の広告や新聞をモチーフに、福島が一方的に語られながら、現実には物理的に隔絶・閉鎖されている状況が対比される。
直接見たことのない福島が、二次的な情報と想像でもって、勝手に創られていく。
そして、誰もが福島の人々への共感を口にするが、それが子供たちの生き方に呪詛のようにのしかかる。
ただただ普通に生きたいだけなのに、いつの間にか共感や励ましの言葉は、彼らに強く正しく生きなければいけないかのように伝わり、よく分からない一方的な説教になる。
単純な共感に基づく善意が、積み重なって相当な暴力に変化していく。
こうした問題は、言葉で説明しても伝えられない。
思考停止の共感ではなく、もっと深く踏み込んだ当事者への移入がどうしても必要になる。
ただただ当事者の痛みがそこにあるだけで、それは風景や情景以外では伝えられない。
ドラマ「LIVE! LOVE! SING!」は、この言葉にし切れない痛みを何とか表現しようとしている。
ドキュメンタリーのような俳優たちの生々しい会話や動きや表情が、震災というそこにある現実を何とか「そこにある現実」として再構成しようとする方途になっている。
安直な物語化を拒絶する現実に対して、ひとつの誠実な表現の在り方ではないだろうか。
瑞々しい若手俳優たちの演技は、生きることを模索する劇中の子どもたちの姿を浮かび上がらせる。
また、大友良英とSachiko MによるBGMも素晴らしい。
ノイズの混じったギターの音色が、抑制の効いたコードとリズムのなかで、歪んだ構造を映し出すこの物語と見事に一体化している。
最もメッセージを全面に押し出しているのが、物語のちょうど中盤で登場する祭りのシーンだ。
福島をめぐる欺瞞の構造が皮肉の利いた歌で示唆される。
このドラマは安易な結論を拒絶する。
震災について簡単に復興を口にすることがしばしば欺瞞を孕むものだと指摘しながらもなお、
主人公は最後には復興を決意する。
様々な痛みを抱えながらもなお、なんとか生を模索する数多の人々がおり、
それに向かって、私は何を思うべきなのか。何を言葉に出来るのか。
簡単に答えを出せない。けれど、向き合う。
死者を一方的に語ることを避け、しかし悼み続ける。
葛藤した後の選択は、同じ選択でも葛藤抜きのそれとは、意味が異なる。
ドラマから敢えてひとつの結論を引き出そうとするなら、そうなるかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます