養老孟司編 「理科」より
p.144~
科学のはじまりになるような「簡単な疑問」が、なぜふつうは頭に浮かばないのか。じつは世の中を楽に生きていくには、世の中のきまりを「そういうものだ」と早く思っていたほうが得だからである。野球はなぜ1塁から回っていくのか。3塁から回ったら、なぜいけないのか。そんなことを考えていると、野球は上手にならない。なにごとであれ、「そういうことになっている」と早く思ったほうが、世の中では生きやすい。
p.158~
化学の実験室では、たしかに物質、つまり「もの」を扱っている。しかしその「もの」は、いわば個性がないのである。水はお湯だったり、雲だったり、お茶の大部分だったり、ご飯の一部だったりする。でも化学はそれが全部H2Oになってしまう。極端にというか、はっきりというか、明確にいうなら、じつは化学で扱われる物質は、記号化されている。ところが解剖は違う。解剖されている遺体には、どうしても個性が残っているのである。
p.160~
人間をことばで表現すれば、「人間」の一言になってしまう。でも世界中にはたぶん70億の人がいて、それぞれがみな「違っている」のである。そんなややこしいことを考えたら、科学はできない。そう思う人と、そう思わない人がいる。どちらが「正しい」ではない。これこそ人による違い、つまり多様性なのである。だから「一般的、普遍的な原則」を追求するのも科学だが、個別性を追求するのも科学である。
***************************************************
科学において、主観と客観は対立するものとして捉えられます。主観はあくまでも人間の頭の中にしかなく、単なる思い込みであるのに対し、客観とは個人とは独立に存在するものであり、誰もが認め得るような一般性を有するものとされます。そして、社会科学においては、個人性・具体性を捨象した客観性を有していなければ、議論の俎上に乗せてもらえないことが多いと思います。
主観と客観の二項対立においては、「この私」の主観と「他の私」の主観はいずれも主観であるとしてまとめられる以上、間主観性という視点は不要です。従って、主観は単なる思い込みに過ぎないというそのことによって、その思い込みが客観的であることを要請され、そのための策が練られるという陥穽があるように思います。社会科学では自然科学と異なり「正義」が争われる以上、この頭の中の世界同士の衝突はややこしいと思います。