犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (4)

2013-06-04 22:28:56 | 読書感想文

養老孟司編 「理科」より

p.144~

 科学のはじまりになるような「簡単な疑問」が、なぜふつうは頭に浮かばないのか。じつは世の中を楽に生きていくには、世の中のきまりを「そういうものだ」と早く思っていたほうが得だからである。野球はなぜ1塁から回っていくのか。3塁から回ったら、なぜいけないのか。そんなことを考えていると、野球は上手にならない。なにごとであれ、「そういうことになっている」と早く思ったほうが、世の中では生きやすい。

p.158~

 化学の実験室では、たしかに物質、つまり「もの」を扱っている。しかしその「もの」は、いわば個性がないのである。水はお湯だったり、雲だったり、お茶の大部分だったり、ご飯の一部だったりする。でも化学はそれが全部H2Oになってしまう。極端にというか、はっきりというか、明確にいうなら、じつは化学で扱われる物質は、記号化されている。ところが解剖は違う。解剖されている遺体には、どうしても個性が残っているのである。

p.160~

 人間をことばで表現すれば、「人間」の一言になってしまう。でも世界中にはたぶん70億の人がいて、それぞれがみな「違っている」のである。そんなややこしいことを考えたら、科学はできない。そう思う人と、そう思わない人がいる。どちらが「正しい」ではない。これこそ人による違い、つまり多様性なのである。だから「一般的、普遍的な原則」を追求するのも科学だが、個別性を追求するのも科学である。


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 科学において、主観と客観は対立するものとして捉えられます。主観はあくまでも人間の頭の中にしかなく、単なる思い込みであるのに対し、客観とは個人とは独立に存在するものであり、誰もが認め得るような一般性を有するものとされます。そして、社会科学においては、個人性・具体性を捨象した客観性を有していなければ、議論の俎上に乗せてもらえないことが多いと思います。

 主観と客観の二項対立においては、「この私」の主観と「他の私」の主観はいずれも主観であるとしてまとめられる以上、間主観性という視点は不要です。従って、主観は単なる思い込みに過ぎないというそのことによって、その思い込みが客観的であることを要請され、そのための策が練られるという陥穽があるように思います。社会科学では自然科学と異なり「正義」が争われる以上、この頭の中の世界同士の衝突はややこしいと思います。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (3)

2013-06-03 23:01:39 | 読書感想文

野崎昭弘編 「数学」より

p.75~

 「数学の素質」とは何か。それは「具体的なものごとの細かいところを省き、要点だけをぬきだす力」である。「抽象化して考える力」と言ってもよい。しかし抽象化は、古代人や幼児にはひじょうにむずかしいと言われる。だから、「2かける4は?」と聞かれても、その2が具体的に何を表すかが、どうしても気になってしまう。2羽の小鳥と2日とでは、たしかに全然違う。

p.80~

 数学者が数学を研究するのは「役に立つから」では必ずしもない。というより多くの数学者は、世の中の数学者は、世の中の役に立つかどうかなど考えていない。登山家が、山登りが好きだから登るように、数学者は数学が好きだから、数学を研究するのである。では数学のどこがいいのか。「わかった!」といううれしさが大きいところがいい。


宇野功芳編 「音楽」より

p.122~

 ベートーヴェンは計算が苦手だった。同じノートに36の4倍を計算しているのだが、36×4という掛け算ができず、36を4つ足して、しかも答えが244になっているのだ。正解は144だからもちろん大間違いだが、ベートーヴェンという一個の人間にとって、そんなことがどれほどの意味をもとうか。彼だけではなく、今でもヨーロッパに行くと計算が苦手な人はたくさん居るが、彼らは日本人より劣っているだろうか。断じて否である。

p.132~

 ベートーヴェンは自分の運命に打ち克とうとして作曲を続け、その作品は現在でも多くの人々に生きる力をあたえつづけている。苦しみが深い人ほど深い音楽を創造することが出来、苦しみが深い人ほどその音楽に共感、感動することが出来る。だから音楽(他の芸術も)はこの悩み多き人生にこそ必要不可欠なものであり、天国にはきっと無いと思う。


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 法律学の論理性は数学の論理性に匹敵するものですが、そうであるが故に、法学者の思考は「世の中の役に立つかどうかなど考えていない」という方向に流れる危険性があるように思います。学説の細かい論争において、A説とB説が長年にわたり激しく争われる場合、論理の美しさの問題の比重が大きくなるにつれ、「社会を良くしよう」という意志は希薄になっていくものと思います。

 実務家のほうでは、また別の意味で「世の中の役に立つかどうかなど考えていない」という事態が起こります。人々の欲望が肥大化し、人間が自己中心になった末の紛争においては、弁護士は単にクレーマーの代弁者に落ちます。ここでは、依頼者のために最善を尽くすという職務倫理に安住すればするほど、その主張が人間として正しいのか、社会を良くするものなのかという観点が欠落することになると痛感します。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (2)

2013-06-02 22:35:04 | 読書感想文

布施英利編 「美術」より

p.51~

 たとえば「モナリザ」。この絵は誰もが知っている超有名な絵だが、何で知っているのかといえば、誰もが「画集で見た」からであろう。いや立派な印刷の画集ならまだよい。たいていは、切手くらいのサイズの、わけの分からない「モナリザ」でも見て、自分は「モナリザ」を知っている、と思っているのだ。

 「モナリザ」は、パリのルーヴル美術館にあるのだが、もしパリに旅行してこの絵を見ても、そこで抱く感想は、「自分は『モナリザ』の前に立っている、これは本物なんだ」という思いだけだろう。知識が邪魔をしているのである。それは裸の目で「モナリザ」を見ているのではなく、知識で「本物のモナリザという記号」を見ているのだ。これでは美に触れている、とはいえない。


p.59~

 ルネサンス彫刻の巨匠・ミケランジェロの代表作「ピエタ」も、つまりは死を表現した作品である。ピエタという言葉は、悲しみの極み、という意味がある。ピエタの像は、ヨーロッパの1つの宗教のなかの物語だけではない。子供の死に接さざるをえない親の悲しみは、いつの時代にも、どこの国にもある。たとえば「酒鬼薔薇」の事件で命を落とした子供のご両親の悲しみも、何をもってしても癒すことのできない深いものだ。

 ぼくは犯人の少年が逮捕される前、殺人事件の現場となったタンク山や中学校の校門を取材して歩いたことがある。被害者の少年の胴体が見つかった山の中には、少年が好きだったお菓子や果物が置かれていた。ぼくはそこにミケランジェロのピエタ像のような悲しみをみたのである。全く別の物ではあるが、そこには人間の中に普遍的にある死への思いが込められていた。


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 その道の専門家による評論は、センスのない凡人には嫌味に聞こえることがあると思います。それは、評論家の主観はそれぞれ違うのであり、並列することが大前提でありながら、その間の優劣は対象となる作品ではなく、評論家の素養を示してしまうからだと思います。従って、そこに起きる競争は、端から凡人を排除します。

 ミケランジェロと現在の日本の犯罪を結びつけることは、普通は強引さが目立ってしまったり、視点の斬新さに対する自負が嫌味に聞こえるものだと感じます。そして、そのように感じないということは、「人間の中に普遍的にある死への思い」を双方の対象の中に見る際に、それを見る者がその思いを思っていることの結果だろうと思います。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (1)

2013-06-01 23:20:47 | 読書感想文

島田雅彦編 「国語・外国語」より

p.21~

 君に知ってもらいたいのは、お金も言葉もその都度、交換価値が決められるということだ。英語のように交換価値が高い言葉は強い言葉ということになる。お金の強さと言葉の強さは深い関係がある。母親から習った言葉が弱い言葉だと、狭い世界でしか通じないので、その人は強い言葉を学ばなければ、広い世界に出て行けない。

 お金や言葉が強くなると、人は傲慢になり、自己満足に陥る。あまり、強いお金と言葉の力に頼りすぎると、自分が本来持っていた能力を失ってしまうばかりか、弱いお金や言葉を見下すようになってしまう。お金と言葉は君の本質や実体を見えにくくし、幻想ばかりを募らせる。お金や言葉に騙されてはならない。


p.34~

 命がけの対話は人の心を打つものである。互いに共通するものが何もなくても、相手を説得し、相手のいうことを理解できるときがある。もちろん、教養というのはその能力のことなのだけれども、時には対話への情熱が教養を超えて、人に訴えかけることがある。言葉が話せても何をいっているのかわからない人もいるし、言葉が不自由でも、筋を通っている人もいる。


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 同じ単語を聞かされ続け、感動が薄れることによる言語感覚の麻痺は、お金の大切さが実感できなくなる金銭感覚の麻痺と似ているように感じます。これは、頭で考えて「感覚が似ている」と両者を比較して思い出すわけではなく、その麻痺している感覚の瞬間に過去の瞬間を思い出すような感じです。

 貨幣の価値は人間が造り上げた観念である以上、貨幣信仰の結果としての心の空虚さを埋めるものは、やはり深い言葉でしかあり得ないと思います。しかしながら、この深さ自体も言葉による比喩であり、観念である以上、言葉の深さはその言葉の側ではなく、人間の側にしかないと思います。