●毎日新聞ニュース(平成25年2月21日)より
2004年に奈良市で小学1年の有山楓ちゃん(当時7歳)を誘拐、殺害した元新聞販売所従業員、小林薫死刑囚(44)ら3人の死刑執行が21日に発表された。
「今は何も言葉が出ない」。楓ちゃんが通っていた奈良市立富雄北小に事件後に赴任した上田啓二校長は死刑執行の報を受けてこう話した。事件当時、同校の校長だった楳田勝也さんは、学校の安全について時折、講演している。「毎年秋に遺族とお会いしてきた。死刑執行は、ついにきたかという感じでむなしい。事件は誰にとっても不幸だ」と話した。
茨城県土浦市で9人を殺傷した金川真大死刑囚(29)に対する死刑執行の一報を聞いた東京都新宿区の女性被害者(64)は「びっくりしました。こんなに早く執行されるとは……。これで区切りはついたけど、一生傷は消えない。心の中のどこかにある」。かみ締めるように話した。
●毎日新聞ニュース(平成25年2月22日)より
「死にたくて事件を起こして、本人の思い通り死刑になった……」。三浦芳一さん(当時72歳)は荒川沖駅周辺の殺傷事件の4日前、自宅で首を文化包丁で刺され、最初の犠牲者となった。三浦さんの弟、賢二さん(66)はしばし絶句し、「何と言えばいいか、言葉が出てこない」と声を振り絞った。
荒川沖駅で右肩を切られた男性被害者(65)は「死刑は決まっていたこと。終わったことだから。もう思い出したくない」と言葉少なに語った。
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加害者に死刑が執行されたところで、殺された者は戻らず、誰も救われません。死刑の執行というものは虚しく、やり切れず、言葉がなく、死者と家族にとってはどうでもよい話であり、誰も幸せにはならない行為です。そして、このようなやり場のない思いの吐露を受けて、「死刑制度のあり方を疑問視する声」を読み取る言説に至っては、誰のどこを見ればそのような結論が出てくるのかと思います。
「遺族も単純に死刑を望んでいるわけではない」という複雑性を、死刑制度の疑問といった単純な枠組みに戻すことは、言葉のない沈黙に向かって冗舌に小理屈を投げつける無謀な挙動だと思います。最初に「遺族は加害者を憎んでいる」「感情的に加害者の死刑を望んでいる」とのステレオタイプの解釈を作り、それを否定しているだけの話であり、沈黙の側にとっては余計なお世話だと思います。
以前、「死刑が執行されてしまえば、被害者遺族は加害者からの謝罪の言葉を聞く可能性がなくなり、憎しみの地獄からの一筋の光明を見出す可能性が永久に失われる」といった死刑廃止論からの意見を聞き、私は気分が悪くなりました。他方で、「死刑は権力によって市民の生命を奪う行為である」「権力の危険性に気付いていない市民にはしっぺ返しが来る」といった演繹論からは、物事はそのようにしか見えないはずだと思います。
人は正気の状態では殺人など行えず、殺意は常に狂気であると思います。そして、これが実行されてしまえば、膨れ上がった狂気は一気にしぼみます。その後は、過去に存在した狂気を正当化する理屈を並べ立てるのみですので、この作業は非常に楽だと思います。これに対し、殺された被害者の家族の狂気は、その瞬間から始まり、これを消す方法は論理的に存在しません。問題の核心は、この2つの狂気の差だと思います。