犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林薫死刑囚ら3人に死刑執行

2013-02-28 23:22:31 | 国家・政治・刑罰

●毎日新聞ニュース(平成25年2月21日)より

 2004年に奈良市で小学1年の有山楓ちゃん(当時7歳)を誘拐、殺害した元新聞販売所従業員、小林薫死刑囚(44)ら3人の死刑執行が21日に発表された。

 「今は何も言葉が出ない」。楓ちゃんが通っていた奈良市立富雄北小に事件後に赴任した上田啓二校長は死刑執行の報を受けてこう話した。事件当時、同校の校長だった楳田勝也さんは、学校の安全について時折、講演している。「毎年秋に遺族とお会いしてきた。死刑執行は、ついにきたかという感じでむなしい。事件は誰にとっても不幸だ」と話した。

 茨城県土浦市で9人を殺傷した金川真大死刑囚(29)に対する死刑執行の一報を聞いた東京都新宿区の女性被害者(64)は「びっくりしました。こんなに早く執行されるとは……。これで区切りはついたけど、一生傷は消えない。心の中のどこかにある」。かみ締めるように話した。


●毎日新聞ニュース(平成25年2月22日)より

 「死にたくて事件を起こして、本人の思い通り死刑になった……」。三浦芳一さん(当時72歳)は荒川沖駅周辺の殺傷事件の4日前、自宅で首を文化包丁で刺され、最初の犠牲者となった。三浦さんの弟、賢二さん(66)はしばし絶句し、「何と言えばいいか、言葉が出てこない」と声を振り絞った。

 荒川沖駅で右肩を切られた男性被害者(65)は「死刑は決まっていたこと。終わったことだから。もう思い出したくない」と言葉少なに語った。


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 加害者に死刑が執行されたところで、殺された者は戻らず、誰も救われません。死刑の執行というものは虚しく、やり切れず、言葉がなく、死者と家族にとってはどうでもよい話であり、誰も幸せにはならない行為です。そして、このようなやり場のない思いの吐露を受けて、「死刑制度のあり方を疑問視する声」を読み取る言説に至っては、誰のどこを見ればそのような結論が出てくるのかと思います。

 「遺族も単純に死刑を望んでいるわけではない」という複雑性を、死刑制度の疑問といった単純な枠組みに戻すことは、言葉のない沈黙に向かって冗舌に小理屈を投げつける無謀な挙動だと思います。最初に「遺族は加害者を憎んでいる」「感情的に加害者の死刑を望んでいる」とのステレオタイプの解釈を作り、それを否定しているだけの話であり、沈黙の側にとっては余計なお世話だと思います。

 以前、「死刑が執行されてしまえば、被害者遺族は加害者からの謝罪の言葉を聞く可能性がなくなり、憎しみの地獄からの一筋の光明を見出す可能性が永久に失われる」といった死刑廃止論からの意見を聞き、私は気分が悪くなりました。他方で、「死刑は権力によって市民の生命を奪う行為である」「権力の危険性に気付いていない市民にはしっぺ返しが来る」といった演繹論からは、物事はそのようにしか見えないはずだと思います。

 人は正気の状態では殺人など行えず、殺意は常に狂気であると思います。そして、これが実行されてしまえば、膨れ上がった狂気は一気にしぼみます。その後は、過去に存在した狂気を正当化する理屈を並べ立てるのみですので、この作業は非常に楽だと思います。これに対し、殺された被害者の家族の狂気は、その瞬間から始まり、これを消す方法は論理的に存在しません。問題の核心は、この2つの狂気の差だと思います。

明石花火大会歩道橋事故裁判 元副署長免訴 (3)

2013-02-27 22:48:32 | 国家・政治・刑罰

毎日新聞 平成25年2月21日社説
「歩道橋事故判決 免訴でも意味はあった」より

 警察の組織として取り組むべき警備にミスがあったのに当時の署長と副署長が刑事責任を問われないのは、遺族らにとっては納得のいかないことだろう。元地域官の判決も元副署長らの責任に触れており、起訴議決が、公開の裁判で事実関係と責任の所在を明らかにするよう求めたのは理解できる。

 警備計画で事故防止の具体策が定められず、署内の警備本部も機能しなかったことなど法廷で明らかになった事実も少なくない。元副署長も「花火大会の主催者などと意思疎通が図れず、徹底した規制を早めにしておけば事故は起きなかった」と述べた。雑踏警備の教訓となろう。

 遺族は被害者参加制度で元副署長に率直な思いを直接示すことができた。免訴という結果にかかわらず、強制起訴には意味があったと言える。審査過程を検証できるよう透明性を高め、審査対象者が反論する機会を義務化することなどを検討してはどうか。議論を重ねて課題を解決し強制起訴制度の信頼性を高めたい。


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 検察審査会による強制起訴制度については、審査会に対する法的助言のあり方や、指定弁護士にかかる負担、被告にかかる負担、審査過程の透明性、審査対象者が反論する機会の保障など、色々な問題点が挙げられています。しかし、このような問題は、いずれも継続的な政治課題ではなく、国民に身近な問題でもなく、選挙の際の争点にもなり得ません。

 民主主義社会において、「国民全体で議論を重ねるべき」「法の不備を正して行くべき」「課題を改善していくべき」などと言われれば、これは必ず正解になります。同時に、これがその通りに行われたためしはなく、「……すべきである」と求めた者は責任を負うこともなく、すぐに他の問題に紛れます。これが民主主義社会における無難な言論の形だと思います。

 刑事訴訟が国家刑罰権の発動である点を重視する理論からは、民事賠償による厳罰感情の和らぎが力説されますが、現に約5億6800万円の損害賠償が認められている本件に即して言えば、専門家の観念論であるとの印象を持ちます。人は、お金が絡む問題についてはシビアでドライな割り切りを迫られるため、お金が絡まない場所での判断が必要となります。

 「意味があった」「教訓となる」という総括の方法は、死者の人生に意味や価値を与えるようでいて、実は高い場所からの解釈を示しているに過ぎないと思います。同じく、「理解できる」との総括は、そのような理解の仕方でしか理解していないという態度の表明だと思います。現実に起きた事実それ自体の意味の確認としては、その死を心から悲しみ続ける以上の行動はあり得ないことを思い知らされます。

明石花火大会歩道橋事故裁判 元副署長免訴 (2)

2013-02-26 23:25:58 | 国家・政治・刑罰

毎日新聞ニュース(平成25年2月20日)より

 「警察署の幹部としての責任を認めてほしい。その上で謝罪の言葉を聞きたい」。家族で訪れた花火大会で、長女千晴さん(当時9歳)と長男大君(同7歳)を失った有馬正春さん(53)は、公判に欠かさず通い続けてきた。20日は判決公判前に自宅近くの2人の墓前に手を合わせ、遺影をしのばせて法廷に入った。検察官役の指定弁護士の後ろに座り、「免訴」判決の説明をメモしながら頭を抱えた。

 事故後しばらくは、ショックで何も考えられなかったが、次第に「なぜ事故が起きたのかを知りたい」と思うようになった。民事訴訟や現場責任者5人に対する刑事裁判でも疑問は消えず、かえって警備態勢や、それを立案し実行した警察署幹部への不信が募った。同じ思いの遺族らと「不起訴は不当」との声を上げ続けた。

 事故から11年7カ月。この間に有馬さんは新しい家族を迎えた。事故後に生まれた千穂さん(9)と、公大君(6)。亡くなった2人からそれぞれ1字を取った。事故について話したことはないが、「たぶん分かっている。毎年、歩道橋に行っているから」。

 法廷で対面した元副署長に対し、「彼がちゃんとしていたら」との気持ちを抑えることはできないが、個人的な恨みはない。だが、子供たちに事故のこと、亡くなった兄と姉のことを伝えていくためにも、元副署長に責任を認めてほしい。「有罪判決がそのきっかけになれば」。その願いはかなわず、有馬さんは「なんで審理してきたか分からない判決。一番残念な結果だ」と話した。


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 報道で「遺族の無念」と表現されるとき、そこには「他の人は違う」という裏の意味が伴っています。そして、これを他人事のように客体化できるのは、客観的な報道を標榜している側に加え、それを数あるニュースの中の「暗い話題」の1つとして受け取っている視聴者です。問題の核心が「遺族の内心の無念さ」という個人的な部分であると捉えられてしまえば、これは社会の問題でもなくなり、国民1人1人の問題でもなくなります。

 人が大惨事の一報を聞いたときの衝撃は、死者の無念に対する推察や遺族の悲しみを忖度するといった余裕とは異なるものだと思います。まずは起こった現実に対して、すなわち非人称の出来事に対して、思考が止まってしまうはずだと思います。「このようなことが社会で起きるのか」「人間社会はこのような場所なのか」という驚異は、解決不能な不条理感に至るものです。この場面で、「無念」という単語は軽すぎると思います。

 社会におけるあれこれの施策は、生きている人間が優先です。しかし、俗世の政策論を離れてみれば、未だ人生の途上の人間は、人生を完結した人間に到底敵うものではないと思います。特に、天寿を全うした人間よりも、ある瞬間に人生の半ばで完結を強いられた人間には敵わないと思います。生きている者は、「自分はなぜ生まれて生きて死ぬのか」という問いから逃げていますが、死者の人生ははこの問いを引き受けているからです。

 「命」という単語の時制を考えてみれば明らかですが、死者とは過去に命があった者であり、生者とは未来に命がなくなる者です。歴史とは死者の歴史であり、「歴史の経験から学ぶ」と言われるところの歴史はその一部に過ぎず、人は歴史上の人物をまるで生きているかのように扱っています。報道で「命を無駄にしない」ではなく「死を無駄にしない」との単語が用いられるとき、そこには「死んだ人は終わりである」という現世の政策論が表れているように思います。

明石花火大会歩道橋事故裁判 元副署長免訴 (1)

2013-02-25 22:35:27 | 国家・政治・刑罰

毎日新聞ニュース(平成25年2月20日)より

 「責任を認めてほしい」という遺族の思いは、時効の壁に阻まれた。子どもや高齢者11人が犠牲になった明石歩道橋事故から11年7カ月。4度の不起訴から一転、業務上過失致死傷罪で強制起訴された元兵庫県警明石署副署長、榊和晄被告に対する20日の神戸地裁判決は、公訴時効の成立を認め、被告の刑事責任を問わなかった。裁判を実現させ、傍聴に通い続けた遺族は「悔しい。納得できない」と無念さをにじませた。

 「免訴」が言い渡された瞬間、遺族らは険しい表情を浮かべた。次男智仁ちゃん(当時2歳)を亡くした下村誠治さん(54)はうなずきながら静かにメモを取った。次女優衣菜さん(同8歳)を亡くした三木清さん(44)は元副署長をじっと見すえ、首をかしげるなど納得いかない様子を見せた。

 遺族にとって、11年7カ月は苦難の連続だった。下村さんらは警察幹部に最大の責任があると考え、検察審査会に不起訴不当を申し立てた。全国の事故遺族らとともに被害者支援などを訴える活動も行い、被害者参加制度や強制起訴の導入につながった。

 ようやく実現した裁判。下村さんは、元副署長に「私たち遺族は怒りや悲しみだけでここまで来たわけじゃない。原因を知りたくて来た」と初めて語りかけた。75歳の母親を亡くした男性は「元副署長は自己保身だけを考えている。責任回避の姿勢こそが事件の原因」などと厳しく非難していた。


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 裁判所は国家権力を振りかざす場所です。国家権力と言えば、民事ならば強制執行で容赦なく全財産を取り上げ、刑事ならば死刑まで執行できるという点が決まりごとのように言われますが、私がこの国家権力を行使する機関の中で感じてきたのは別のことでした。私が最も国家権力の残酷さを感じたのは、民事における請求棄却の判決に直面した原告、あるいは刑事における無罪・免訴の判決に直面した被害者の姿に向き合ったときです。

 まず、民事裁判における代理人の準備書面のやり取りは、お互いの顔が見えないだけに、凄まじい罵倒合戦に流れます。「相手は嘘ばかり言っている」という怒りは、当事者個人への中傷となり、人格攻撃に至ります。当事者にとっては、相手方からの主張を見ただけでも目が回り、寝込んでしまうほどの衝撃があるものと思います。これに1つ1つ反論することは、相当な消耗を伴い、生活全般の疲弊を招きます。最後の希望は、「この裁判には絶対に負けられない」という点だけです。

 それだけに、長年の戦いの末の敗訴は過酷です。判決文というものは、敗訴者にとっては一文字一文字がおぞましいものであり、文字が束になって人間に襲い掛かり、その存在を打ちのめすものです。この国家によってもたらされる脱力感は、人一人の人生を簡単に押し潰します。権力による「あなたは負け」という仰々しい文書によるお墨付きは、正義や誇りといった価値を無にし、そのあとには人生を賭けた闘いに敗れた屈辱と恥の感情だけが残されるように思います。

 刑事裁判においては、被害者やその家族は当事者ではなく、制度上は部外者であるということになっていますが、これは机の上だけの理屈だと思います。私が見てきた限りですが、当事者ではないが故に検察に託さなければならない人生の立ち位置は、民事裁判の原告よりも過酷です。被告人は、国家権力から人権を侵害される恐れのある立場であるとのお墨付きをもらっており、被害者への中傷や人格攻撃が可能です。これに対し、当事者でない被害者には反論の形が与えられていないからです。

京都府亀岡市10人死傷事故、少年に懲役5~8年の不定期刑 (3)

2013-02-23 23:38:48 | 国家・政治・刑罰

毎日新聞ニュース(平成25年2月19日)より

 求めていたのはこんな判決ではない――。京都府亀岡市の集団登校事故で、無免許運転で事故を起こした少年(19)に対し懲役5年以上8年以下の不定期刑を言い渡した19日の京都地裁判決。求刑通り量刑の上限(懲役5年以上10年以下)を求めていた遺族らは悔しさをにじませ、検察に控訴を求めた。

 遺族らは判決後、記者会見した。「僕らが求めていたのはこんな判決ではない」。犠牲になった小谷真緒さん(当時7歳)の父真樹さん(30)は唇をかんだ。被害者の家族や遺族らは、刑罰の重い危険運転致死傷罪を適用するよう求めて署名活動を展開。20万人以上を集めたが、自動車運転過失致死傷罪の適用にとどまった。さらに無免許運転を危険運転致死傷罪の構成要件とするよう法改正を求め、東京で法相らに面会した。

 真樹さんはこうした活動や裁判のため、ドライバーとして勤務していた運送会社を休みがちになった。同僚らはそのしわ寄せを受けながらも「気にするな」と言ってくれたが、心苦しさは募った。睡眠時間を削ることもあったが、このままでは少年と同じように事故を起こしかねないと思い、昨年9月、9年半勤めた会社を辞めた。

 国の法制審部会で先月、無免許運転の厳罰化に向けた法改正の試案が示されたが、「危険運転」の構成要件には入っていない。そしてこの日の判決。「今日は娘に何も報告できない。だが、真緒のため中途半端では終わらせられない」。真樹さんは絞り出すように語った。

 他の遺族も会見で憤りの声を上げた。松村幸姫さん(同26歳)の父中江美則さん(49)は「少年が反省しているとは思えない。求刑より2年軽くなったことはまったく理解できない」。横山奈緒さん(同8歳)の父博史さん(38)は「もし危険運転致死傷罪で起訴され、裁判員裁判ならばこの2年はなかったのではないか」と話した。

 小谷真緒さんの母絵里さん(30)は「たかが2年と思われるかもしれないが、私たちにとっては大きな2年」と訴え、松村さんの兄中江龍生さん(29)は「このまま確定すれば、これだけ社会的に重大な事故なのに今後に生かされない」と控訴を求めた。


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 厳罰化という単語の使用は、ある種の消極的なイメージを伴わざるを得ないものと思います。もともと「罰」とは創造的な所為ではなく、応報感情の充足という要請を含意するからです。言葉は虚構性を有し、言葉は物事を抽象化し、実体でない物事を実体化します。ここにおいて、厳罰化という単語の使用には、一種の既得権が生じるものと思います。これは経済的な利益ではなく、思想的な利益です。

 以下も私が机の上で学んだことからの印象ですが、厳罰化という概念は、少年犯罪や交通犯罪と結び付けられると、必ず否定的な意味合いを帯びることになります。少年犯罪については可塑性が根拠とされますが、交通犯罪については、誰もが起こし得る最も身近な犯罪であることが根拠とされます。その先は、「厳罰化が進むと国民は安心して車も運転できなくなる」という定型的な理由付けに進みます。

 私は大学でこのようなことを机の上で習い、その時には確かにそうだと納得していました。しかし、実際に免許を取って運転しているときに私が「安心」を実感するポイントは全く違いました。どんなに自分が安全運転に努めていても、乱暴な運転する車がいれば安心できないというのが第一です。そして、そのような運転者は取り締まってもらわないと、安心して運転できないというのが偽らざる実感でした。

 私の中にある2つの「安心」のポイントの矛盾を比べたときに、私が気付いたことは、机の上で習った理論は非常に大上段であるということでした。ここに言う「安心」とは、自分の経験を通じて内心から実感されたものではなく、罪刑法定主義の理論から演繹的に導き出されたものです。すなわち、無知な大衆を見下し、「これが安心というものである」と教示する専門家の独断を免れないものです。

 危険運転致死傷罪の適用については、法律家は近代刑法の大原則との関係を中心に論じるのが通常ですが、これは悪しき法律至上主義だと思います。議論のスタートは「処罰範囲が拡大されると国民は安心して車も運転できなくなること」だったはずですが、この部分は完全に話がずれています。教科書内の抽象的な運転者ではなく、実際に事故を起こした運転者の行為を見てみれば明らかだと思います。

 無免許運転による事故を危険運転致死傷罪に含めるべきではないとする主張からは、「無免許」と「人の死傷」との直接的な関連性がないという理由付けがよく聞かれます。しかしながら、一方で交通犯罪の特徴を「誰もが車を運転する時代である」ことに求めているのであれば、この主張は人間社会に対する誠実さを欠いていると思います。一方では「車を運転する誰もが人を死傷させる」と言いながら、他方では「無免許で車を運転しても人を死傷させない」と言っているからです。

京都府亀岡市10人死傷事故、少年に懲役5~8年の不定期刑 (2)

2013-02-21 23:01:48 | 国家・政治・刑罰

産経新聞ニュース(平成25年2月20日)より

 「とても納得のいく内容ではない」。重大な交通事故の被害者遺族たちは、最愛の家族を失った悲しみを胸に、これまでにも厳罰化の運動を続けてきた。しかし今回の判決も法の限界を示すものでしかなかった。遺族らからは、強い批判の声が上がった。

 平成11年11月に東名高速で飲酒運転のトラックに追突されて2人の娘を亡くし、危険運転致死傷罪の新設に奔走した井上郁美さん(44)は、「判決が検察側の求刑した上限の10年にすら満たないなんて、茶番劇のような裁判だ」と痛烈に批判。「そもそも起訴罪名が間違っている。無免許の居眠り運転で家族を奪われた行為が『過失』と認定されては報われない。危険運転致死傷罪の要件に無免許運転を入れ、少年の罪を問い直すべきだ」と、改めて法改正を求めた。

 平成23年4月、栃木県鹿沼市で登校中の小学生6人がクレーン車にはねられ死亡した事故で、長男を亡くした伊原高弘さん(41)は「危険運転致死傷罪に問えなかっただけでも問題なのに、その上量刑が求刑から減軽されるなんて、信じられない」と言葉を詰まらせた。

 「私たちの裁判の時には裁判長が『この事故の悪質性を現行法で裁けなかった』と言及してくれた。亀岡の皆さんも、私たちと同じように法に裏切られた」と語気を強め、「またどこかで悲惨な事故が起き、遺族は泣きながら厳罰を求める署名を集めることになるのか」と肩を落とした。


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 私の見聞した範囲内ですが、法律に携わる専門家から被害者に向けられる視線は昔から定型的だと思います。これは、過酷な運命への畏敬の念ではなく、起きた事実への同情ですらなく、正しい思想を見失ってしまったことへの憐憫の情です。すなわち、「誰しもが犯罪に手を染める可能性はゼロではない」「厳罰化すれば自分が罰せられる可能性も出てくる」という真実を見失ってしまった可哀想な人達だということです。

 このような目線の高さが最初にある限り、その後の論理の流れも画一的になるのが通常だと思います。「加害者に対する憎しみが大きいことは想像できる」に始まり、最後は「被害者意識を量刑に反映させることは非常に危険である」という結論に収まります。ここにおいて、被害者の存在と国民の厳罰世論との結びつきが避けられない以上、被害者に対する憐憫の情は敵意や憎悪に変化します。

 「法律とは何なのか」という問いを絶望とともに考える者において、この世の人の「罪」と「罰」とは不可分一体のものだと思います。ここにおいて、自然と「償い」という倫理が浮かび上がります。これに対し、「法律とは何か」という既定の問いを頭だけで考える者には、国家権力の発動である「罰」だけが見えるものと思います。被害者とは、「筆舌に尽くしがたい被害を受けた者」ではなく、「厳罰を求める者」に過ぎなくなります。

 高い目線からの憐憫と敵意を伴う限り、法律の専門家からの被害者に対するレッテル貼りは避けられないものと思います。被害者の語る言葉の中には、当事者でなければ語れない深い洞察、すなわち法治国家や裁判制度の根幹に切り込む鋭い疑問がありますが、全ては「厳罰感情」の四文字に変換されます。こうなると、被害者は「自分の主張ばかりで社会全体のことを考えていない人達」ということになり、何を言っても専門家に通じないことになります。

京都府亀岡市10人死傷事故、少年に懲役5~8年の不定期刑 (1)

2013-02-20 23:01:10 | 国家・政治・刑罰

産経新聞ニュース(平成25年2月20日)より

 遺族らの思いは結局、届かなかった。京都府亀岡市の10人死傷事故で京都地裁が19日、懲役5年以上8年以下の実刑を言い渡した無職少年(19)は、被害者参加した遺族らと目を合わすこともなく、法廷を去った。「まったく納得できない」「検察は控訴してほしい」。遺族らは、法定刑の上限を2年下回った判決に、失望や怒りを隠さなかった。

 閉廷後、京都市内で記者会見した遺族と負傷者家族からは「反省の色が見られない」と少年への怒りの声が上がり、犠牲になった小谷真緒さん(当時7)、真樹さんは「最後の機会に少年が『前回と同じ』と言うとは思わなかった。この判決に僕が求めるものはなかった」と切り捨てた。

 「なぜ法定刑の上限が科されないのか」「減軽された2年の意味は何なのか」。遺族と負傷者家族は、少年が反省していることなどを理由とした減軽を批判した。亡くなった横山奈緒さん(当時8)の父、博史さん(38)は「危険運転致死傷罪での起訴だけでなく、10年以下の最高刑を与えることすらかなわなかった。『法律って何なの』というのが率直な意見」。

 妊娠7カ月で亡くなった松村幸姫さん(当時26)の父、中江美則さん(49)は「『過失で当然』といわれ続けた結果が懲役8年以下。裁判長には少年でなく、僕ら被害者に対するメッセージがほしかった」と憤り、「加害者と違い、被害者には控訴を決められない。検事さんの判断に任せるしかないが、控訴して当然だ」と話した。


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 「法とは何か」という問いは教科書的な理屈っぽい設問に過ぎませんが、「法とは何なのか」という問いには全人生を賭けた絶望が詰め込まれていると感じます。「裁判とは何か」という問いと「裁判とは何なのか」という問いの違いも同じです。民主主義社会の主権者が心底からこのような言葉を語っているということは、法に携わる学者や実務家において、本来であれば直感的に震撼すべき現実だと思います。

 実際に当事者として裁判に直面した者によって語られた言葉、すなわち「法の壁」「法に裏切られる」「法の限界」といった実感は、考え抜かれた末に選ばれた概念であり、法治国家を揺るがすものだと思います。学問として自分の学説を世に広めるためではなく、避けがたい人生の現実に接して考えられた言葉は、その覚悟が最初から違っており、頭の中だけで考えられた論理の世界とは比べ物にならないからです。

 ところが、この点の議論において、法律に携わる者の間では動かぬ構造ができているように思います。「厳罰化」「冷静な議論」「感情論」といった単語の選択は、思想を先取りし、物の見方を規定します。犯罪と刑罰の話は、もともと楽しいものでも明るいものでもなく、前向きでも生産的でもありません。「厳罰」も「被害感情」もマイナスイメージの言葉です。そして、このような言葉の使用に際しては、印象操作が行われやすいと思います。

 言葉では語れない沈黙や絶句に対し、「納得できない遺族らの思い」「批判」「憤り」という解釈を与えることも、潜在的に被害感情というレッテル貼りを促進し、法や社会の問題を個人の問題に矮小化しているように感じます。本来、死者の生命を考えるということは、人がこの社会に生まれて生きて去ることの意味を根本から考えること以外ではあり得ず、この社会を良くしようとする哲学的思考に至るのは必然であるにもかかわらずです。

グアム通り魔事件

2013-02-15 22:32:49 | 国家・政治・刑罰

 このニュースを聞いたとき、秋葉原通り魔事件の際に感じたことを思い出しました。人間の思考は、「言葉がない」と感じたとき、言葉が見つかる方向に一瞬にして流れます。そして、言葉がある場所に止まる限り、そこからの論理は簡単に開け、言葉がない地点をあっという間に侵食していくものと思います。容疑者は地元の映画やコマーシャルに出演していたとか、容疑者の両親は離婚して交際相手と破局していたとか、そのような情報に関心が移ると、私は自分の心が楽になるのを感じます。

 報道というものは、このような人間の思考の形に応じて、事件の背景へと上手く拡散していくのが常だと思います。容疑者と被害者という個人から、より広い社会へと視点が移っていくということです。「常夏の楽園というイメージを暗転させた事件の衝撃は大きい」「治安の良い地区が凶行の舞台になったことが動揺に拍車をかけている」「住民は日本人観光客の減少への懸念を語っていた」といった点が中心論点であるかのように言われると、私はやはり自分の心が楽になります。

 なぜ殺された人はその日のその時間にその場所にいたのか、その理由は、そのまた理由はと1つ1つ丹念に遡っていくと、人間は気が狂うものと思います。日本にいる者も、気が狂う当事者の立場に吸い込まれていくものと思います。「なぜ死ななければならなかったのか」という問いは、その死に対して法的な因果関係がないことや、法的責任が存在しないことを超越して、「言葉がない」部分にしか至らないものと思います。そして、目を逸らした人間に見えるのは、お涙頂戴の悲劇だけです。

 「被害者の悲劇はいいから事件の背景を掘り下げるべきだ」という思考は、容疑者の動機を解明することがさも高尚であるかのように論じるのが常ですが、これは単なる理性の堕落だと思います。このように考えたほうが自分が楽だからです。ある日ある場所で突然人生を終えることの不可解に比べれば、加害者の動機など取るに足らないというのが、本来の論理の筋だと思います。私は実際の裁判のシステムに携わっていたとき、犯罪者が理性的な主体であり、被害者は厳罰感情を述べる証拠方法であったことによって、自分の心が楽をしていることを感じていました。

勢古浩爾著 『人に認められなくてもいい』より (2)

2013-02-11 23:27:22 | 読書感想文

p.203~

 結婚後わずか3カ月で夫が出征して戦死したあと、90歳の今日まで一人で生きてきたおばあさんがいる(日本テレビ「NNNドキュメント」2011年8月7日放送)。再婚をすすめる話もあったが、夫が帰ってくるかもしれないという思いを捨て切れず、結果、その後の人生を一人で生きることになった。夫婦や家族連れを見るのがつらくて、できるだけ繁華街を避けるようにして暮らしてきた。夫を偲ぶものは、2枚の写真と、処分することができない軍服だけである。慰霊祭に出席するときだけ心が落ち着くという。

 このような人生は不幸な人生、といわれるだろう。たった3カ月の結婚生活ではないか、しかも戦死した夫のためにずっと一人のままとは、台無しの人生ではないか、と。本人にとってもつらくさびしい生活だったにちがいない。だが、もう生きられたことだ。わたしがどう思おうとどうでもいいことだが、わたしは彼女の人生を幸福だったとは思わない。不幸だったとも思わない。幸不幸を超えて、生きるとはこういうことなのだ、という気がする。

 もし彼女がその気になったのなら、また別の人生がありえたはずである。しかしそんなことを言ってもしかたがない。もう生きられたことである。幸福ではなかったかもしれないが、見事な人生ではないか、と思う。心にもないことを無理に言っているのではない。そんな「見事」などいらない、「幸福」ならそのほうがよっぽどいいではないか、というのはそのとおりであろう。

 しかし、それだけが人生ではない。愉しまなければ「損」だ、という功利的な生を蹴散らすような生き方があってもいいのである。いや、蹴散らさなくていい。静かに、わたしはこのように生きるほかはなかった、という生があってもいいのである。当然のことだ。あってもいい、というのも余計なことだ。


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 人間の品格などというものは、実体のない概念だと思います。何が上品で何が下品かと言えば、そのような定義による具体的事例の区別は不可能です。しかしながら、上記のような話を耳にして、取ってつけたような「偉い」「感動した」という褒め言葉や、「昔の時代のことだ」「今では考えられない」という他人事の感想や、「馬鹿じゃないか」「何とかならなかったのか」という意見しか心に浮かばない者は、あまり人間が上品ではないと感じます。

 経済優先社会に伴う人間の思考の変化という点において、こと人間の品格の指標となるものは、「幸・不幸」「損得勘定」「自由と強制」といった概念の捉え方だと思います。上記の女性の生き様を前にして、自発、欲求、自由という感覚が思い浮かばず、強制、義務、圧力という感覚で事実を受け止めるのであれば、その女性の精神の上品さは捉えられないだろうと思います。そして、それは彼女の一生を見る者の姿が鏡に映っているのだと思います。

勢古浩爾著 『人に認められなくてもいい』より (1)

2013-02-10 23:53:13 | 読書感想文

p.194~ 「ほんとうは怖いポジティブ・シンキング」より

 否定的なこともすべて肯定的にとらえかえす「ポジティブ・シンキング」という考え方がある。嫌なことがあっても、「ま、いいか」と思いを断ち切って、前向きに生きていこうとする、あの方法である。この思考の元祖はアメリカである。ところが、アメリカでは「ま、いいか」どころの話ではなかった。適切適度な自己承認どころか、強迫神経症とでもいうべき様相を呈しているのである。

 アメリカ人の乳がん患者は、「ポジティブ・シンキングが義務化され、不幸でいれば何らかの謝罪をしなければならない」ような雰囲気に囲まれるという。「患者」「被害者」という言葉は「自己をあわれみ、抵抗しないイメージがあるので」禁句とされる。もし生存できれば、「生還者」を名乗る。殉教者はそれほど尊重されず、つねに尊敬され称賛されるのは「生還者」だという。

 乳がん患者のウェブサイトには、信じられない言葉が溢れているという。乳がんになったために「いまのほうが人生を謳歌」している、「いまが最高に幸せだ」「がんは自分を元気にし、進化させてくれる」などなど。「幸せのもとは、ほかならぬがん」とか「がんは神との絆」という者までいるのだ。また乳がんになりたいか? という問いに、「もちろんです」といったりする患者もいるのである。はっきりいって、異常である。

 これは自己承認ではない。自己暗示による自己欺瞞である。弱さは敗北なのだ。ほとんど人間失格でもありそうだ。ゆえに、自分の弱さを認めることはいっさい許されない。弱さを認めることは、自分は負け犬であると告白するようなものだからである。ポジティブ・シンキングは「容赦なく個人の責任を強調」し、これができない者は「努力が不十分」「成功への確信が不十分」とされる。だから、敗北も認めない。


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 哲学と人生哲学とは似て非なるものですが、そこでは誰が語っても正解になる真理が同じように語られます。例えば、「人生は一回きりである」「人生という時間は有限である」「過ぎた時間は戻らない」というような言い回しです。そして、これらの言葉は曲者だと思います。この命題が人生哲学にかかれば、無条件に前向きでポジティブな結論が導き出され、後向きでネガティブな結論はどう頑張っても出てこないからです。

 哲学的に疑いようがない真理から、一直線に前向きの結論が導き出されたならば、これは全世界の真理でなければ気が済まなくなるのが当然の帰結だと思います。自分が好きで前向きに生きているだけでは、哲学的な真理に虚偽が混じり、自分の足元が揺れてしまうからです。従って、前向きに生きていない人の存在が目に入ると、考えを改めさせなければならなくなります。このような強制の契機は、単なる洗脳だと思います。