前回の更新から早くも一週間。と言うかようするに、先週は一回こっきりしか記事を書かなかった。これは忙しいからなんだけど、何に忙しいかというと、人と会っているからだ。もう少し詳しく言うと、あちこち動いたりセミナーに出たりするとTwitterで言葉を交わしてた人と「ああー!あなたは!」てなことになって飲みに行ったりとかね。いや本当に、この数カ月で新しい人とたくさんお会いした。
Twitterで知りあって直接お会いする場合、このブログを読んでいると言ってもらえる事が多い。Twitter関係なくお会いしても名刺交換したら「ああ~ブログ拝読してます」などと言われる事もけっこうある。どうやらぼくはすごく狭ーい範囲で話をしているのかな?
前にも書いた気がするけど、狭い範囲で、つまりわりと近い世界で仕事をしていて、だからもっと早く知り合ってもおかしくなかった人、でも意外に近いけど接触はないもので、だからほっとくとやっぱり会わなかった人と、会うことが増えた。これがぼくにとってのソーシャルコミュニケーションの最大の効用だ。
そうなるのは(いま思えば)ソーシャルコミュニケーションの必然で、こういう、丸っきり"メディアコンテンツ業界の問題点と未来を探る"的なブログを書いて、その上でTwitterをやっていると、自然とそうなる。自然と、"わりと狭ーい範囲だけどほっとくと知り合わなかったであろう"人との交流が広がる。一気に広がっている。それはなんというか、お金になるとか仕事につながるとかを超えた、貴重な資産となっている。もちろん仕事になるかもという下心も多分にあるけど、それよりも精神的な資産が大きい。
”おおまかにはわかりあえてるよね、ぼくたち”
そんなこと、簡単にはわからないはずなのに、わかっちゃうんだ。なんて素晴らしい事だ!
ブログを書いてきて、ほんとによかったなと思う。申し訳ないようだけど、Twitterで知りあった人の大半は、ブログも読んでるからぼくの考えをわかってくれてる。ぼくのことはわかってくれてる方とお会いするけど、ぼくの方は相手の方をわかってるとは言えない。そこが申し訳ない。でもたぶん、ぼくのブログに共感とか、なるほどとか、言ってくれてるんだから、だいたい考えてる事同じはずだ。”おおまかにはわかりあえてるよね、ぼくたち”。ね、そう思っていいよね?
そうやって、最近知り合ったばかりなのに意気投合、一緒に未来に向き合おうね的な盛り上がりがある中で、前々から知っている人と共感できるとは限らない、という事態も発生したりする。前に「ソーシャルデバイドとでも呼ぶべき現象」というタイトルで記事を書いたらえらく反響があった。つまりみんなも同じ経験をしているということだろう。
でもまたちょっと"ソーシャルデバイド”ってのも、ちょっとちがうのかな?という気がしてきた。"ソーシャルデバイド”ってのは、簡単に言うとTwitterやってるヤツとやってないヤツでメディア認識が”デバイド”してきちゃったぜ、って趣旨なんだけど、Twitterやってるやってないは尺度のひとつに過ぎないのかもと。もっと言えば、そこ、結局は関係なかったかもと。本質ではなかったかもと。
Twitterやってない人でも「そうそうそうそう!」と共感できる人もいれば、けっこうTwitterやってるけどね、って人でもわかんない人はわかりあえない。
少なくとも、こないだ、あるミーティングで、久々に会った旧知の人間と、当然そこはわかってもらえるはずだよね、という前提で話したらぜんっぜん話がスレ違いだったもんで愕然とした。十数年も前から知ってたのに、かみ合わない。このかみあわなさは何だろう?と話していくと、どうやらぼくが「マスメディアはマスじゃなくなりつつあるわけで」という前提で話しているのが不愉快だった様子なんだ。
"デバイド"が生まれるのは、そこかもしれない、と思った。マスメディアはマスじゃなくなる、つまりこれまでのようなパワーは失われる、だったらどうする?という重たい話を、重たいけれどもなんだかワクワクもしちゃうね、と捉えられる人と、そんなことはわかってるけど口に出して言われると不愉快だと、さらに重たくなっちゃう人と、いるみたいなんだ。"デバイド"はそこに生まれる。
そしてこの、ワクワクするタイプと、不愉快になっちゃうタイプと、これまでぼくが見てきたところでは、所属会社や性別や年齢や立場は、あまーり関係ない。マスメディアはマスじゃなくなるかも、という未来を、当のマスメディア所属の人でも目をそむけずにむしろだったらどう面白くするか、と嬉々としてくる人もいる。強いて言えば年齢が高い人、やっぱり50代半ば以上とかになっちゃうと"不愉快だぜ”タイプがどっと増える傾向はあるかもしれないが、ここでも例外はいっぱいいる。
このメディアの大激変に戦々恐々としながらも、じゃあぼくたちどうなっちゃうのかなあ、5年後10年後のメディアはどうなるの?と真剣に、でもどこか楽しげに考えてる人、つまり"変化を楽しめる人”と、そうじゃない人とがいる、ということなんだろう。
変化を楽しめるのは、ようするにそこに"面白そう!"を見出そうとする人たち。マスのパワーが失われても、そういうことになるんだったら、面白そう!あるいは、そういうツールが出てきたんだったら、こんなことできるんじゃない?と、"面白そう!”を開発したくなっちゃう人たち。何にだって、どんな困難にだって、何らかの"ドリーム"を見出そうとする、見出してしまう人たち。
だからこれは、"ソーシャルデバイド"などではなく、"ドリームデバイド"と呼んだ方がいいんじゃないかな。英語としてどうよ、ってのは置いといてね。あるいは"ドリーム能力"なんていう使い方もいいのかもしれない。あいつはドリームできるヤツだからさあ。あの男のドリーム力には舌を巻いたよ。そんな感じで。不愉快組の人にも、”えー、○○さん、そんなこと言わないで、ドリームしましょうよ~"みたいな。
まあでも、不愉快組の説得は並大抵ではないだろうね。今年から来年にかけて、ドリーム組と不愉快組の闘いがはじまる。しかも不愉快組はとくに大きな組織の意思決定権を持っていたりする。そのハードルの高さはハンパないっすよ。がんばれ、いろんなとこにいるドリーム組!なんだったら、助太刀いたしますぞ!企画書でっちあげて参上しちゃうよ!
まあそれにしても、今週からまた、更新頻度をあげなくちゃね、このブログも。準備してた事もそろそろ、助走がはじまるしね・・・
Twitterで知りあって直接お会いする場合、このブログを読んでいると言ってもらえる事が多い。Twitter関係なくお会いしても名刺交換したら「ああ~ブログ拝読してます」などと言われる事もけっこうある。どうやらぼくはすごく狭ーい範囲で話をしているのかな?
前にも書いた気がするけど、狭い範囲で、つまりわりと近い世界で仕事をしていて、だからもっと早く知り合ってもおかしくなかった人、でも意外に近いけど接触はないもので、だからほっとくとやっぱり会わなかった人と、会うことが増えた。これがぼくにとってのソーシャルコミュニケーションの最大の効用だ。
そうなるのは(いま思えば)ソーシャルコミュニケーションの必然で、こういう、丸っきり"メディアコンテンツ業界の問題点と未来を探る"的なブログを書いて、その上でTwitterをやっていると、自然とそうなる。自然と、"わりと狭ーい範囲だけどほっとくと知り合わなかったであろう"人との交流が広がる。一気に広がっている。それはなんというか、お金になるとか仕事につながるとかを超えた、貴重な資産となっている。もちろん仕事になるかもという下心も多分にあるけど、それよりも精神的な資産が大きい。
”おおまかにはわかりあえてるよね、ぼくたち”
そんなこと、簡単にはわからないはずなのに、わかっちゃうんだ。なんて素晴らしい事だ!
ブログを書いてきて、ほんとによかったなと思う。申し訳ないようだけど、Twitterで知りあった人の大半は、ブログも読んでるからぼくの考えをわかってくれてる。ぼくのことはわかってくれてる方とお会いするけど、ぼくの方は相手の方をわかってるとは言えない。そこが申し訳ない。でもたぶん、ぼくのブログに共感とか、なるほどとか、言ってくれてるんだから、だいたい考えてる事同じはずだ。”おおまかにはわかりあえてるよね、ぼくたち”。ね、そう思っていいよね?
そうやって、最近知り合ったばかりなのに意気投合、一緒に未来に向き合おうね的な盛り上がりがある中で、前々から知っている人と共感できるとは限らない、という事態も発生したりする。前に「ソーシャルデバイドとでも呼ぶべき現象」というタイトルで記事を書いたらえらく反響があった。つまりみんなも同じ経験をしているということだろう。
でもまたちょっと"ソーシャルデバイド”ってのも、ちょっとちがうのかな?という気がしてきた。"ソーシャルデバイド”ってのは、簡単に言うとTwitterやってるヤツとやってないヤツでメディア認識が”デバイド”してきちゃったぜ、って趣旨なんだけど、Twitterやってるやってないは尺度のひとつに過ぎないのかもと。もっと言えば、そこ、結局は関係なかったかもと。本質ではなかったかもと。
Twitterやってない人でも「そうそうそうそう!」と共感できる人もいれば、けっこうTwitterやってるけどね、って人でもわかんない人はわかりあえない。
少なくとも、こないだ、あるミーティングで、久々に会った旧知の人間と、当然そこはわかってもらえるはずだよね、という前提で話したらぜんっぜん話がスレ違いだったもんで愕然とした。十数年も前から知ってたのに、かみ合わない。このかみあわなさは何だろう?と話していくと、どうやらぼくが「マスメディアはマスじゃなくなりつつあるわけで」という前提で話しているのが不愉快だった様子なんだ。
"デバイド"が生まれるのは、そこかもしれない、と思った。マスメディアはマスじゃなくなる、つまりこれまでのようなパワーは失われる、だったらどうする?という重たい話を、重たいけれどもなんだかワクワクもしちゃうね、と捉えられる人と、そんなことはわかってるけど口に出して言われると不愉快だと、さらに重たくなっちゃう人と、いるみたいなんだ。"デバイド"はそこに生まれる。
そしてこの、ワクワクするタイプと、不愉快になっちゃうタイプと、これまでぼくが見てきたところでは、所属会社や性別や年齢や立場は、あまーり関係ない。マスメディアはマスじゃなくなるかも、という未来を、当のマスメディア所属の人でも目をそむけずにむしろだったらどう面白くするか、と嬉々としてくる人もいる。強いて言えば年齢が高い人、やっぱり50代半ば以上とかになっちゃうと"不愉快だぜ”タイプがどっと増える傾向はあるかもしれないが、ここでも例外はいっぱいいる。
このメディアの大激変に戦々恐々としながらも、じゃあぼくたちどうなっちゃうのかなあ、5年後10年後のメディアはどうなるの?と真剣に、でもどこか楽しげに考えてる人、つまり"変化を楽しめる人”と、そうじゃない人とがいる、ということなんだろう。
変化を楽しめるのは、ようするにそこに"面白そう!"を見出そうとする人たち。マスのパワーが失われても、そういうことになるんだったら、面白そう!あるいは、そういうツールが出てきたんだったら、こんなことできるんじゃない?と、"面白そう!”を開発したくなっちゃう人たち。何にだって、どんな困難にだって、何らかの"ドリーム"を見出そうとする、見出してしまう人たち。
だからこれは、"ソーシャルデバイド"などではなく、"ドリームデバイド"と呼んだ方がいいんじゃないかな。英語としてどうよ、ってのは置いといてね。あるいは"ドリーム能力"なんていう使い方もいいのかもしれない。あいつはドリームできるヤツだからさあ。あの男のドリーム力には舌を巻いたよ。そんな感じで。不愉快組の人にも、”えー、○○さん、そんなこと言わないで、ドリームしましょうよ~"みたいな。
まあでも、不愉快組の説得は並大抵ではないだろうね。今年から来年にかけて、ドリーム組と不愉快組の闘いがはじまる。しかも不愉快組はとくに大きな組織の意思決定権を持っていたりする。そのハードルの高さはハンパないっすよ。がんばれ、いろんなとこにいるドリーム組!なんだったら、助太刀いたしますぞ!企画書でっちあげて参上しちゃうよ!
まあそれにしても、今週からまた、更新頻度をあげなくちゃね、このブログも。準備してた事もそろそろ、助走がはじまるしね・・・
つらい仕事環境でも、ソーシャルとか無視してても、もう少し我慢すれば一抜けできる、というように。
どうしても開き直れないという個々の性格にもよるのでしょうが、その辺に分岐点があるような気がします。
自分たちが今までに築いてきたことを全否定されているという勘違いもあるかもしれません。
かなり痛い思いをしない限り、何を言っても無駄なんですよね。かえって人間関係を崩してしまう。
解決できるような気がします。
教育や文化、経験に基づき、
その領域というのは設定しています。
なので、差別とかいうのではないのですが、たとえば、私の場合、例示ですが、
•殺人者
•くちだけでアクションを伴わない人
•職務経験ないのに語る主婦
•ガキのため口
•ライブ会場で飲み食い、喋る人種
•不良身障者
こういった人々は、安心領域外にあるので、確実に共感レベルが低いです。
先週の朝くらいのTVで、
80年代にドラマを大量に作った人(名前知らないです。TV見てない頃なので)と津田氏の対談がおもしろくって。
そのおじいさんは、「twitterは、狭い自己マン」みたいな発言をしてて、
ああ、この人にとっては、個とネット上でコミュニケーションを取るということ自体が、安心領域にないんだな。と感じた。
なので、コミュニケーション論において、論じる場合は、
この安心領域の、相対的な設定の確認という作業なのだと思っています。