『未来のミライ』考察: 誰も気がつかなかった「10年観続けないとわからない」本当のテーマとは
稀代の怪作『未来のミライ』はなぜこのような表現になったのか?何を伝えるために作られたのか?ストーリーの原則に反した異例の作品を読み解きます。
私が、子どもだったころ
最近、自分を見つめなおすために幼少期のことを思い出すことが多くなりました。よく思い出すのは確か6歳の誕生日、友達を迎えてのパーティーの準備で母親とゼリーを作っていた時。私が母親の注意を軽視して原液をかき混ぜ過ぎてしまい、烈火の如く怒られ…そんなに怒ることなのかとショックを受け、パーティー自体の記憶は一切ないのに怒られたことだけを鮮明に覚えています。ありふれた何の変哲もない家庭で、私の母親は怖い母親ではなかったけれど、今思えばどこか怯えながら生きていたように思います。
細田守監督最新作、映画『未来のミライ』は主人公である4歳の男児「くんちゃん」が、新たに産まれた妹の「ミライちゃん」に親の愛情が奪われることを恐れながらも、日々を暮らす「出来事の積み重ね」の描いた作品です。私が「出来事の積み重ね」という言い方をしたことには意味があります。この作品はあくまで出来事を描いていることに終始しており、ストーリーの体を成していません。それはなぜか。主人公が4歳だからです。
細田守が挑む「勝ち目のない勝負」
多くの映画は基本的に三幕構成によるストーリーで構成されています。テーマ(考え方)を伝えるために、主人公に課題を課し、その課題を主人公がテーマに対する気づきによって解決する。これが優れた映画を作る基本であり、近年ではディズニー/ピクサーが究極の域まで高めた脚本術です。結論から言えば『未来のミライ』は「三幕構成に基づくストーリー」ではありません。細田守監督がこのような脚本術を知らなかった…はずはなく、これには理由がちゃんとあるのです。ではストーリーがどのように立脚しているか説明したのが次の図です。
ストーリーの根幹にあるもの、それは「道徳観」です。道徳観によって善悪の概念が与えられ物語が初めて成立します。主人公がどうして善人で、敵が悪なのか?なぜヒーローが悪役を銃で撃ちまくる行動は賞賛できるのか?なぜグッドエンドになり、なぜバッドエンドになるのか?すべては一定の道徳観がなければ決められません。
だから主人公が4歳児では困るのです。4歳児はまだ道徳観が育ちきっていない段階、道徳観がない存在にストーリーの主人公は務まりません。…これを聞いたアナタ、「クレヨンしんちゃんはどうなんだ?5歳で立派に主人公してるしオトナ帝国は名作だゾ!」とおっしゃりたいのはよくわかりますが、しんちゃんはキャラクターであり、大人の意思によって成熟した存在として描かれています(映画版ならなおのこと)。一方のくんちゃんはどこまでも未成熟な4歳児を貫いています。そのように描く以上この作品は「出来事の積み重ね」にしかなりません。
ストーリーがない、これでは映画として盛り上がらないのも当然です。普通に映画を作るならしのごの言わずキャラクター化された4歳児を描いてクレヨンしんちゃんをやればいい。では細田守ほどのクリエイターが、こんな「勝てない勝負」に挑むことを理解しながらも描こうとした、この作品のテーマは一体なんなのでしょうか?
細田作品の「テーマの主体」を読み取る
テーマの解説の前に、本作は「難読化」されている作品であることも触れておかねばなりません。細田守監督の作品は脚本も兼任するようになった『バケモノの子』以降、日テレ側の都合を受けて細田作品もジブリ映画のように何十年と繰り返し観られることが運命付けられてしまったことを理解し、明確に「ストーリーの難読化」に取り組んでいるように感じます。「難読化」が本当に正しい手法なのかは諸々意見が分かれるところですが、かの宮崎駿監督も『崖の上のポニョ』で幼年向け映画の中に命や人生に向けたテーマを難読化して内包させているのも事実。将来の子どもたちの理解に託すというのは悪くないアプローチかもしれません。
また、個人的に面白いと思うのは細田作品に対する否定的な見方が「テーマの主体の誤読」によって生まれていることが多く感じられます。例えば『サマーウォーズ』は「主人公の目線を通して、大家族や親戚付合いの面倒くささを押し付けられる話」ではなく「”血族の目線” から、主人公と隠し子である侘助の対比を通じて、新しい存在を受け入れる話」です。でなければ侘助が登場する意味がありません。また『おおかみこどもの雨と雪』は「このような献身的な母親像を目指すべきだという話」ではなく「”子どもたちの目線” から見ると母親はなぜこんなに愛情を注ごうとするのか、まったく理解不能であるという話」です。「父の葬式でも笑顔でいようとする」母親がエキセントリックに見えることにも、劇中モノローグがすべて娘の目線から語られていることにも意味があるのです。
どれも「『万引き家族』は万引きを肯定的に描いている」レベルの誤読に感じますし、細田守は「大家族的な同調を肯定していない」し「保守的な母親のありかたのみを肯定していない」のですが、あの痛烈な演出力に揺さぶられるとどうも「テーマの主体」が誰でどこにあるのかを見失ってしまうことがあるようです。痛みを感じても、どうか冷静に。『未来のミライ』でも多くの誤読が発生しているように見えますが、監督からすれば「十年も見られてようやく全て理解される」ことを計算している可能性もありますから、これもまた想定内なのかもしれません。
さあ下準備は整いました。それではここから監督が想定した「幼児たちが十数年後に理解するかもしれない、本当のテーマ」にジャンプしてみましょう。
「暴力」に彩られた5つのできごと
本作は5つの出来事を順に描いています。
「ミライちゃん誕生の話」
「雛飾りをしまう話」
「子どもの頃の母親に出会う話」
「嫌いだった自転車に乗れるようになる話」
「ピクニック出発前に駄駄をこねる話」
些細な出来事でも、何もできないくんちゃんにとってあらゆるものが抗いようがない「暴力」に感じられます。そしてくんちゃんが唯一抗える方法もまた「暴力」です。4歳児の視点を貫くこの映画は多彩な暴力を描いていきます。子どもの頃の母親と一緒に家を暴れるくんちゃん、今まであれほど子どもが遊んでいる様が暴力的に感じられるように描かれたことはあったでしょうか?
そこで、くんちゃんはその現状から逃れるように時折家の中庭で夢想します。未来ちゃんが誕生したことで自分の愛情が奪われたと感じた時、ペットである犬「ゆっこ」と自分が「愛情を奪われたもの同士」だと傷を舐め合います。おもちゃを片付けられなくて怒られたときも、子どものころの母親もまた暴れ者だったこと、寂しさを感じていたことを知り溜飲を下げます。父親はミライちゃんにつきっきりで自転車の乗り方を教えてはくれませんでしたが、ひいおじいちゃんのアドバイスによって自転車に乗れるようになりました。そして自身の存在が脈々と続く家系の中の1ページであることを理解し、自分が「未来ちゃんの兄」であるという意識を持つ。そんなゆるやかな、くんちゃんの成長。
一方の両親はくんちゃんのことを多少気にかけるものの意識は生まれたばかりの未来ちゃんに集中しており、くんちゃんに振り向くことはほとんどありませんでした。唯一明確に褒めたのは「自転車に乗れるようになった、という成果」です。そんなくんちゃんの成長を感じ、自分たちが完璧な親でないなりに、親としても成長したことを認め合います。
ところどころ夢のような描写も混ざっていますが、こんな何の変哲も無い話が細田守の演出力によって彩られた作品、それが『未来のミライ』なのです。
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…本当に?本当にそうですか?そう、多くの人のレビューを見る限り、多くの人の理解はここで止まってしまっています(IGN、ねとらぼ、Real Soundもここまでの理解😩)。思えば納得がいかないことだらけです。子育ての話だとしたら両親とくんちゃんがあまりにも交わってなくない?それだけなら途中の夢みたいなシーンいらなくない?犬が何で擬人化するの?すべてが “くんちゃんの豊かな想像力の産物” だとしてもさすがに「嫉妬」って言葉4歳は知らなくない?未来ちゃんのアザが将来も残っているかどうかわかるか?子どものころの母親のことを4歳が知ってるなんてある?ひいおじいちゃんのエピソードを何で知ってる?想像力豊かだからって未来の東京駅リアルすぎひん?地下の怖い新幹線は何を意味してるの?そもそも未来のミライちゃんは何で出てきた?ただの「かけがえのない日常」描きたいだけなら全部いらなくない?
細田守ほどの演出の達人がそんな無駄なことをするだろうか?
つまり皆「テーマの主体」がくんちゃんや両親にあるとばかり思っているから「暴力に満ち満ちた、ふわっとした子どもと親の成長の話」と理解しているのです。じゃあ一体、本当の「テーマの主体」は何なのか?この謎だらけの演出を一つに繋げるシーンがあります。
5つ目の出来事、くんちゃんが未来の東京駅に迷い込み、遺失物受付センターに並んでいるシーン。見たところ並んでいるのはくんちゃんよりも大きな人たちばかりですが、くんちゃんがこんなことを呟きます。
「ここにいるのは子どもばかりだ」と。
4歳の幼児が自分より大きな人たちに向けて「子ども」というのは何だか妙です。つまり、このくんちゃんは彼らよりも年上であることがわかります。
『未来のミライ』の「未来のくんちゃん」
そう、私たちはこの映画を、4歳のくんちゃんの視点から描かれているものだと錯覚していたのです。この映画の「今現在」は4歳のくんちゃんの時代ではなく、未来の東京駅がある推定2032年ごろの「未来のくんちゃん」の時代。そして本当の「テーマの主体」は4歳のくんちゃんではなく、一定の道徳観を持った「未来のくんちゃん」だということ。この視点に気がついた瞬間からこの映画は「出来事の積み重ね」から「ストーリー」に変貌を遂げるのです。
この映画は全編、18歳ごろの「未来のくんちゃん」の頭の中で思い出される子どもの頃の記憶と現在の解釈のミックスで構成されています。そして現実にあったこと、を思い出す形で話が進む以上、くんちゃんは何かを解決する存在・クレヨンしんちゃんではなく、等身大の4歳児・くんちゃんでならなければならなかったのです。
頭の中で繰り広げられる話なら、何でもありです。犬が人間になろうが、未来のミライちゃん(未来のくんちゃんにとっては今のミライちゃんですが)が出てこようが自由自在。そして「未来のミライちゃん」は現実の存在ではなく「未来のくんちゃん」の頭の中で「きっと未来ちゃんは子どものころこう思っていたあろう」ということを代弁するために出現したイマジナリーな存在です。犬が擬人化するのも「未来のくんちゃん」が解釈した犬の心境を語るため。さらにこの頃なら親の子どもの頃の話や、ひいおじいちゃんのエピソードもインプットされているはず。未来の東京駅もいわずもがな。
ではなぜ「未来のくんちゃん」は自身の過去に思いを馳せているのでしょうか。その答えも未来の東京駅の遺失物受付センターにあります。受付のロボットはくんちゃんに向かってこう言い放ちます。「あなたの無くしたものは自分自身、ということですね?」。つまり「未来のくんちゃん」は自己の喪失、アイデンティティクライシスに陥っています。受験か、恋か、何が原因かは明らかにされませんが、どうであれこのようなアイデンティティクライシスは多くの人に起こることです。もちろん、これを書いている私も。
「愛された記憶」を自分の過去に探して
「未来のくんちゃん」は親に愛されていたという感覚、記憶がほとんどないのです。なぜ?どうして?その時、親は何をしていたのか?アイデンティティクライシスの解決を求めた「未来のくんちゃん」はインナーチャイルド、自分の過去、更に言えば自分の親がどのように自分を育てたか、そこに現在の自分を形成した原因を究明しようとするセラピーの過程が現れてきます。
まず未来ちゃんが生まれた結果愛を受けられなくなった自分を "先輩" である犬のゆっこの気持ちに重ねることで「嫉妬」だと理解します。「未来のくんちゃん」は犬の姿になって現実逃避しますが、この苦しさから逃れられるならいっそ犬や猫になりたい、というのも無理からぬ話です。
雛人形を父親の代わりに片付けるエピソードは、父親の子どもたちへの無関心に目を向けています。自分の父親は仕事に向かうばかりで本当にいい父親なのだろうか?未来ちゃんのことすら気にかけない、愛はあったのか?疑いは強まります。
母親の幼少期のエピソードは、つい怒鳴ってしまう母親の子育ての源流が、彼女の幼少期にあった可能性を考えるものです。母親の幼少期に感じていた寂しさが問題行動につながり、叱られる。その様子を見て、子育ての世代を超えたループ、母親なりに事情があったことを感じはじめます。また本作で唯一のスキンシップ描写である、寝ているくんちゃんに寄り添って「私の宝物」と呟くシーンがこのエピソードの最後に描かれますが、もしかするとこうであってほしいというくんちゃんの願望を反映したものかもしれません。少なくともくんちゃんが起きている時、覚えている範囲でのスキンシップはほとんどなかったということなのでしょう。
自転車のエピソードでは彼がひいおじいちゃんに対して強い敬意を感じていることがわかる一方、父親は乗れるようになる瞬間にはまったく貢献しません。くんちゃんは自分の成長に父親の力を借りた覚えはない、ということです。さらに両親は自分の「成果」について絶賛してしまう。逆にいえば、成果がなければ褒められない、くんちゃんはそんな少年時代を過ごしたのかもしれません。褒められるのは「自分」ではなく「成果」。「未来のくんちゃん」はさぞ “真面目に” 育ったことでしょう。
愛が得られなかった者に訪れる岐路
4つのエピソードを通して「未来のくんちゃん」は考えます。自分の親は自分のことを愛していないことはないと思う、でも本当に自分のことを支えてくれたようには思えない。私も酷かったし、親なりに事情はあったのだろうことは理解できるが、私だって何も知らない小さな子どもだった。結局自分の大切にされたいという願いは叶えられなかった、という事実。空を切り的を得ない「許せない」という気持ち。残念ながらこれ以上の答えは得られません。仮に親に聞いたとしても本当の答えは返ってこないでしょう。それどころか望んでいない答えが返ってきた時は…。そして望んでいた答えが返ってきたところで、もう過去の出来事は取り戻せない。「愛を得たかった、でも結局得られなかった」と行き詰まった「未来のくんちゃん」がたどり着いた先が未来の東京駅、暗く深い闇の底の新幹線です。
“鬱” の世界に通じる闇の新幹線に乗りたいわけではない、でもこのままでは乗ってしまう。お母さんはオニババで、お父さんはどこにもいない。愛が得られれば、愛が得られればこんなことにはならなかったのに…親に愛を求めることに執心していたくんちゃんを本当に助けたのは思わぬマインドチェンジでした。もっとも身近な「他人」である妹が、もし闇の新幹線に乗ろうとしていたら、真っ先に手を差し伸べるはず。愛を得ることではなく、愛を与える視点に気がついた時、「未来のくんちゃん」は「”未来”の兄」というアイデンティティを獲得します。そして「愛を与えること」を自身のルーツ — — ひいおじいちゃんのプロポーズのエピソードに照らし合わせて理解するのです。誰かが愛を与えなければ、今の自分がいなかったことに。
そして「愛を与えること」に血縁が関係のないことは、犬のゆっこが証明しています。ゆっこはただのムードメーカではなく、種や性や考え、血のつながりを超えたところにも愛が生まれ家族になり得ることを示す重要な役割を果たしています。
「人を作るのは愛を得ることではなく、愛を与えること」。これが過去と現在の二重構造になったこの映画の長い道のりを経てたどり着く本作のテーマです。
今思えば、子どもに見えない世界で、私の母親も苦心があったのだろうと思います。そんな状況でのよその家の子供が来る緊張感の中での理解不能な私の失敗。怒る理由としては十分なものです。納得はいかないけれど。今でもレストランでがしゃんと食器を置く大きな音がすると思わず萎縮してしまいます。父親はまあ、なんなんでしょうね。ともかく過ぎた時間を巻き戻すことはできない以上、過去は過去、今は今、私は私。鬱屈とした人生でも、私は生きる糧を見つけることができました。細田監督が、もしかすると自分と同じようなことを考え、悩み、答えを見出したのだと思えば少しは勇気付けられるものです。
映画というエンターテイメントで何を語るべきか?
今、ハリウッドでは三幕構成が完成し過ぎてしまったために新しいストーリーテリングの手法を模索している最中です。いわゆる「ナラティブ」も結局は三幕構成の亜種でしかない。そういう意味では大いなる無茶でありエンターテイメントに落ちないながらも、「出来事の積み重ね」をストーリーに転換する、「ナラティブ」を別の手法で実現する本作のチャレンジは評価されてもよいのではないでしょうか。少なくとも私はこの作品観た後かなり抉られました。
しかし、細田守監督が想定している読解レベルは長期の時間をかける前提であるとはいえ、高過ぎるようにも感じます。現実問題として、日本で作品が論じられる際、本作に限らず作品のモチーフばかりが評価されてテーマがないがしろにされるケースが多いように感じます。その理由は興味がないからなのか、読解力がないからなのか、時間が圧迫され考えるリソースがもはや残されていないからなのか、理由はわかりませんが、批評家ですらこの状況ですから、一般の観客であれば尚のことでしょう。
また、本作の批評において、細田監督が自身の親の世代に感じたものを、現世代の親たちに当てはめてしまうことに対する懸念については詰められて然るべき点です。時代が進んでいる以上、新しい世代の親たちがオニババや「どうでもいい父親」のような同じ轍を踏むとは限りません。が、どの世代であれ寸分の隙もない完璧な父親も、母親もいない。なろうとしてもなれない。それはしょうがない、が、至らなくともできるかぎり良い親を目指そう、そうもがいている世代へのエールをお父さんとお母さんが励まし合う最終カットに感じます。そもそも監督も二児の父ですし。
さらに細田作品におけるテーマは今作の「個人の鬱屈と愛情」のようにパーソナルなものが多いのも特徴です。ディズニー/ピクサー作品のような社会的な課題に答える作品はありません。例えば同じく家族をテーマにした作品『インクレディブル・ファミリー』は、スーパーヒーロー一家をモチーフに、母親の社会参画と父親の家庭参画をテーマに据えたものになっているようです。社会的問題が課題としてテーブルに乗りにくい日本では難しいこともわかりますが、今後日本でも描くことが社会的課題への言及が要求されるであろうことは間違いありません。
では、細田監督はディズニーのように、エンターテイメント的手法を極め、社会的課題にポジティブな回答を見せるような作品を作るべきなのでしょうか?真琴の浴衣姿のように「それ、ちょっと観てえ」というのは偽らざる私の気持ちではありますが、誰かの意思には関係なく、クリエイターが自分の意思で、作るべきだと思うものを作ることが重要なのです。ディズニーが作れる作品はディズニーが作ればいいのですから(仮に作るにしてもプロダクションのレベルから取り組まなければまず実現しませんが…)。一観客として、細田守という稀有な能力を持ったクリエイターが、稀有な作品を作ってくれる以上に嬉しいことはありません。