2012年5月27日のブックマーク (8件)

  • ためしてガッテンでも紹介された10秒で心のスイッチを入れる技術

    自分にコトバをかけることで自分の行動をコントロールしたりパフォーマンスを高めたりする方法は、メンタル・トレーニングを受けたスポーツ選手をはじめとして広く用いられている。 言語的自己教示(verbal self-instruction)と総称される技法だが、今回紹介するのは、アタマの中や口で唱えたりするかわりに、自己教示のコトバを書き付けるものである。 書く方法は、それ以外のやり方に対して、次のようなメリットがある。 ・心の中で唱えるよりも、雑念に邪魔されにくい ・声を出して唱えるのと違って周囲の邪魔にならない ・思考と違って跡が残るので、コミットメントに結びつきやすい(口約束より書き約束を重んじる我々の習慣にかなっている) 一方、デメリットとしては次のようなものがある。 ・筆記用具などが必要 →レース前のアスリートには向かないが、机に向かっていたり、メモするものを持っている場合は問題になら

    ためしてガッテンでも紹介された10秒で心のスイッチを入れる技術
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    urbansea 2012/05/27
  • わかりにくい沖縄「だれにも書かれなくなかった戦後史」 - 深町秋生の序二段日記

    沖縄についてちょっと調べる必要があり、佐野眞一の分厚いハードカバー「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」を購入。おしっこ漏れるぐらいにおもしろかった。 ダイエーの隆盛と衰退を通して戦後を描いた「カリスマ」や読売グループの首領正力松太郎を取り上げた「巨怪伝」も同様におしっこ漏れるぐらいにおもしろかったわけで、もっと早く読んでいたらと後悔さえ覚えた。発売から一年以上経っているけれど、かなりベストセラーだったらしく、私が購入したやつは六刷だった。 そもそもテレビが取り上げる沖縄はたいてい退屈だった。とくに故・筑紫さんの「ニュース23」がひどく、嬉しそうに彼が沖縄について語り出そうとするところでチャンネルを変えた。青い海をバックに、平和そうな顔をした沖縄の人がサンシンを引いて陽気に踊る。のんびりやろうぜ。あと戦争はよくない。なんたって激戦地となった悲劇の島だ。今も米軍が我が物顔でしきっている。

    わかりにくい沖縄「だれにも書かれなくなかった戦後史」 - 深町秋生の序二段日記
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    urbansea 2012/05/27
  • goo音楽熱すぎワロタwwwwwwwww BIPブログ

    ブルーハーツ 「主観を排してザ・ブルーハーツを語ることは難しい。 ブルーハーツは多くの人にとっての青臭い青春そのものであり、 あらゆるものの意味を説いた先生であり、夢であり憧れであり……、 なかには“彼らはオレの人生そのものだ!"と後ろ向きな意見をこれ見よがしに誇示する輩もいるだろう。 彼らの音楽を聴くと、ホロ苦くて切ない「アノ頃」の想い出が走馬灯のように頭のなかを駆け巡る。 まだ見ぬ恋人を想像してひとり興奮したこと、システマティックな社会に対して怒り、しかし敗北感を味わったこと、 怖いもの知らずで、理想の未来を想い描いたこと……。彼らほど若者の人生に影響を及ぼしたロック・バンドを、少なくとも筆者は知らない。 コーツとして活動していたヒロト(岡山県出身:法政大学中退)とかつてブレイカーズを結成していたマーシー(武蔵野周辺出身:多くのソロ作もリリース)が出会い、 85年に組織されたブルーハー

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    urbansea 2012/05/27
    これ、仕事でもの書く際の勉強になる。
  • 石原吉郎 - Wikipedia

    石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月11日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、日の詩人・エッセイスト・歌人・俳人。シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人として知られる。シベリア抑留経験者の中では特異な存在である[1]。 第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(1963年)でH氏賞を受賞した。作品に詩集『水準原点』(1972年)のほか、エッセイ『望郷と海』(1972年)など。 石原は1915年(大正4年)静岡県田方郡の港町、土肥(とい)村(現:伊豆市)に生まれた[2]。 1928年(昭和3年)、13歳の時に攻玉社中学校に入学、1933年(昭和8年)同中学校を卒業し、その年と1934年(昭和9年)に続けて東京高等師範学校を受験したが共に失敗、1934年に東京外国語学校(後の東京外国語大学)へ入学した[3]。 在学中にマルクス主義やエスペ

    石原吉郎 - Wikipedia
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    urbansea 2012/05/27
    詩人 シベリア抑留経験者
  • 笠原和夫/「実録・共産党」「日本暗殺秘録」解説: 蒲田通信局

    ■扶桑社 en-taxi 2005年秋号 別冊付録(「実録・共産党」「日暗殺秘録」の脚を収録)の解説文 実録・共産党 日暗殺秘録 解説 孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独はのがれがたく連帯の中にはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。       石原吉郎「ある<共生>の経験から」 共産党の下での連帯であれ、昭和維新の旗の下での連帯であれ、そこには孤独がのがれがたくはらまれている。映画家・笠原和夫は、自著の中で右の石原吉郎の一節を好んで引いているが、彼は日共産党と昭和維新運動を題材にした脚についても、このような「連帯の中にはらまれている孤独」に焦点を絞って描いているように思える。そしてこれらの映画に限らず、初期の美空ひばり主演の映画から、鶴田

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    urbansea 2012/05/27
    「孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独はのがれがたく連帯の中にはらまれている」(石原吉郎「ある<共生>の経験から」) 笠原和夫「昭和の劇」87頁にも登場する。これが集団劇の個である。
  • 2012日本ダービー予想〜エアガッツ(空元気!)だ、柴田大知!〜 - 関内関外日記

    ここに一枚の写真があって、使い捨てカメラで当たり馬券を撮影したものである。第46回ラジオたんぱ賞。勝ち馬はエアガッツ、鞍上は柴田大知。 ラジオたんぱ賞|1997年06月29日 | 競馬データベース - netkeiba.com 3番人気から6番人気の決着で、万馬券をとったわけでもない。ただ、競馬初心者としてはよほどうれしかったのか、なにか会心の勝利だったのか、ほかにやることがなかったのか、こうやって紙焼き写真として残っている。 だからといって、柴田大知をとくべつ贔屓にしてきたわけでもないし、だいたい贔屓するほど馬柱で出会わなくなっていたように思う。そして、俺は競馬をやめてしまったわけだ。 おれが競馬をやめる3つの理由 - 関内関外日記(跡地) とはいえ、こないだの大井の最終で町田勝ってくれたし、さっき馬単で50倍当てたし、日ダービーくらいは買おうじゃないかということだ。じゃあなにを買おう

    2012日本ダービー予想〜エアガッツ(空元気!)だ、柴田大知!〜 - 関内関外日記
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    urbansea 2012/05/27
    馬券を真剣に買えば日記帳になるみたいなことをターザン山本がその昔書いていたけれども、そういうことだよなあ。
  • 悲しみだけが夢をみる - Wikipedia

    この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。 あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権を侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2015年10月)(使い方) 伸子と知美はおさななじみで、ともに宝塚音楽学校を受験する。伸子は合格するが知美は落ちてしまう。知美の母輝子は、元宝塚スターで、今では老舗旅館のおかみである。 失意に陥った知美は家出し、東京でストリッパーとして働いていたが、立板の桜木由克に連れ戻される。ところが、東京で知美に一目ぼれしていた池上弘が、知美を追って宝塚へやってくる。知美は由克を好きになり始めているが、由克は実は脱獄犯であった。しかも、伸子の兄・哲夫は由克が脱獄した長崎県警に勤務しており、知美に結婚を申しこむため、宝塚に戻ってきてしまう。

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    urbansea 2012/05/27
    1988 市川森一 銀河テレビ小説 富田靖子&有森也実
  • 江川卓 (ロシア文学者) - Wikipedia

    ペンネームの「江川卓」は、1953年頃から名乗っている[2][3]。名と無関係のペンネームを使用したのは、戦後間もない頃のロシア文学に携わっていると共産主義者であると疑われていたような時代に秘密の文学サークルを作って活動していた名残である。 由来は、中国の揚子江で酒を呑んだらうまかろうという思いから[4]。 読売ジャイアンツの野球選手だった江川卓(えがわ・すぐる、こちらは名)と読み方こそ違えど漢字が同じであるため、江川事件の際には巨人の選手と混同した野球ファンから大量の間違い電話がかかってきた[2][3]。間違い電話の内訳は、悪口が3回に対して激励が2回という感じで[2]、同姓同名であるためか悪口も激励も身につまされたという[2]。またこれも偶然であるが、ロシア文学者の江川はプロ野球誕生期からの巨人ファンでもあった[2]。 同姓同名の両者は後に「月刊Asahi」誌の企画で対面した[3]

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    urbansea 2012/05/27
    本名と無関係のペンネームを使用したのは、戦後間もない頃の、ロシア文学に携わっていると共産主義者であると疑われていたような時代に、秘密の文学サークルを作って活動していた名残である。