2009年08月19日 ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力や、いかに おそらく宇野的な立場からすれば、福満や峯田のような「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」は、「酸っぱい葡萄」に手を伸ばそうと思い始める、その通過点としてしか意味をなさないだろう。たしかに『僕の小規模な失敗』の物語はプロットだけ見ると、最後には結婚して「小さな成熟」を果たしたかのようにも見える。しかし、実際には「僕」は最後までなにも成長しておらず、続編にあたる『僕の小規模な生活』では、あいかわらず「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」と「童貞」的感性を抱えたまま結婚生活を送っている。つまり福満の作品では、「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」は「いつか脱するべきもの」として描かれているわけではない。主人公の意識レヴェルでは「いつか脱するべきもの」としてもとれなくはないが、そう思いながらもいっこうに「脱する」気配のない主人公の行動と物語の構造は、あくまで「