寛延3年(1750年)農民井藤甚八の子として美濃国武儀郡で生まれた[1]。11歳の頃清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚(1704-1784)について得度し、臨済宗の僧となった[3]。19歳の時、武蔵国久良岐郡永田(神奈川)の東輝庵に住する月船禅彗(1702-1781)のもとで修行をはじめ、その後印可を受け、月船が示寂した天明1年(1781年)32歳のとき同寺を出て行脚の旅に出る[4]。39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる[1]。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す[5]。天保8年(1837年)10月7日遷化、のち天保12年(1841年)仁孝天皇より「普門円通禅師」の諡号を賜る[1][2]。 本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている[6]。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなか