富山城は1543年(天文12年)頃に越中東部のおよび新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる[3]。 しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられている。また、神保氏時代の富山城は今の場所ではなく、約1キロメートル南方の小高い所(現在の富山市星井町付近)にあったとする説もあったが、この発掘結果によってほぼ現在の位置にあったことが明らかとなった[4]。なお、天文年間(16世紀中期)の名称を「安住の館(あずみのやかた)」とする研究者もいる[5]が、安住の館=安住城は富山城の近隣に存在した別の城を指していたとする説もある[6]。 慶長年間以前に成立したことが確実な『富山之記』という往来物には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子がく