2007年06月10日02:15 カテゴリLightweight Languages perl, et al. - キーの存在確認 本格的添削はあとまわしにして、Perlに限らないつっこみどころを先に。 [を] Wikipediaのキーワードリンクを使って関連語データを作ってみた ソースを見てすぐわかるのは、ハッシュキーの存在確認をdefinedでしているところ。このソースの場合たまたま動いてしまっているけど、「値が未定義」なのと「そもそも存在しない」とでは意味も異なる。以下のcode snippetを動かしてみれば、その違いがよくわかる。 my %hash = ( key => undef ); while(my ($k, $v) = each %hash){ printf "exists \$hash{$k} = %d\n", exists $hash{$k}; printf "def
「何かの専門性」と、「好き」を共有する友達のネットワークと、そこに働きかける「営業力」 なんだか某氏のような煽りトークになってきて残念。梅田さんは茂木さんなんかとお花畑で戯れるより、赤木さん*1とガチで対談した方がよっぽど実があると思いますよ。 ITスキルを身に付ける、それ自体はもちろん結構なんですけど、その後が・・。 結局梅田さんはアメリカにしろ日本にしろ、ごく一部の「上澄み層」しか見ていない。 そりゃ経営者やMBAがゴロゴロしている「勝ち組」ネットワークに入っていれば、友達で回して食えるでしょう。 そうでない人たちはアメリカにも当然いるし、そういうむしろ大多数の人々は「個」どころかここで書いたように「団体」を作って互助しているのですよ。 アメリカ人は皆「個」で食っているなんてトンでもない。組合だってNPOだって宗教団体だって日本よりずっと発達しているんです*2 *3 *4 。 それに対
直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 これはアレですね、はてなとかブクマとかやってる暇があったら仕事しろってことですね。あいすみません。 というのはまあ冗談として。 日本のネットに批判的言説が多いのは匿名性と関連あるでしょう。日本では実名の個人間で批判するリスクが高いわけで、その証拠に日本のリアルではむしろ馴れ合い型コミュニケーションが主流です。組織を背負わず、個人として面と向かって他人を批判できる人は少ないですよね。 つまりリアルにおける批判技術の乏しさがネット・匿名における批判指向性を高めていると考えられます。 弾さんのいうように、的確な批判こそが問題解決に向かう。そもそも科学的思考には批判的思考が欠かせません。 確かに単なる揚げ足取りやアジテーション的批判は感情を煽るばかりで、何も解決しません。しかし同様に、ポジティブなアジ
他人の職業にわざわざ貴賎をつける愚かな人々。 日本国憲法第14条には すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 とあり、日本国および日本社会は国民を「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において」差別的に扱ってはならないことが明白です。 ただし、これは個人が個人に対して差別心を持ってはならないというところまでは保証しません。 むしろそこまで踏み込んでしまうと逆に「思想の自由」に抵触する恐れがあります。 ですから心の中で差別したい人は自由にすればいいと思うのですが、それに社会的な理由付けをして表現するとなると、話は大分変わってきます。 大体、個人において「差別」したいならば話は簡単、「私は〜が嫌いだ」で十分なのです。そこにウダウダ社会的な理屈を付ける必要はない。社会
モデルが現実を駆動する 新しく発見された「細部」は、今度はそれがどう効くのかが論じられた後、 そこから生まれる市場に応じて「そこに効く薬」がデザインされて、 「効く薬」として発売される。*1 進化論が科学であり、ID論が科学でない理由や「科学としての経済学」のトリセツでも書きましたが、科学の重要な手法の一つである「モデル化」というものは、複雑怪奇曖昧模糊とした現実世界を「抽象」して生み出されるものです。 それは決して現実とイコールではない。けれどもうまく使えば、現実のある部分をうまく切り取ることが出来るかもしれない。そういうものです。 洋々たる具象の現実を目の前にして、それを理解したい、何とか人知でねじ伏せたい、というプリミティブな科学的衝動。それがあれば、現実の複雑さと豊穣さを腹に持ちながら、ある種プラグマティックな姿勢で科学に向かうことが出来るでしょう。 しかしながら、現代という時代に
はてブは怖い そういえば先日、id:kmiuraさんが「最近『空気読め』的な応答は減ってきた」とおっしゃっていたけれど、これはもしかすると 「『空気読め』という圧力が減った」 のではなく、 「『空気読め』とわざわざ言う必要がなくなった」 のかもしれないなーと思ったり。 その要因はやはり「はてブ」ということになるのかな。 流行りの「はてブ最適化」というのはつまりブックマーカー間の「空気」を読むことだし、「注意」という資源が有限である以上、ブクマされない記事はある意味「黙殺」の憂き目を見る、少なくともそう感じる人が増えるのは確かでしょう。 まさしく「空気」システム。 はてな村も初めは日本の空気に馴染まない「村長」と「村人」が仲良くやっていた風でしたが、やはり「空気」の圧力には敵わなかったということかもしれません。 キーワードリンクというはてな最初の売りは部分的関心を介した意外性のあるネットワー
「本当は、できるでしょう?」の原初的風景 ホームレスの人を助けるべきか ある行為がある現象の原因になっている、あるいはなっている可能性がある、なんてことはそれこそ無限に言える話。 ホームレスの人に8000円渡して病院に行かせたために医療ミスで逆に障害を負ってしまうかもしれないし、医師の手が塞がって他の重症患者が手遅れになってしまうかもしれない。その8000円をアフガンに送ればもっと多くの人命が救えたかもしれないし、逆に武器になって人を殺すかもしれません。お腹の子を産めば不幸になるかもしれないし、誰かを不幸にするかもしれない。そうやって考えている内に手を動かせば誰かの命が救えたかもしれないし、救えないかもしれない。 そういうあらゆる因果を「責任」として捉える立場があっても別に構いませんが、その場合「責任」という概念自体が無意味になってしまうでしょう。 「責任」というのは自然における因果を示す
日本が「子供を作りたくない国」であるこれだけの理由 政府はもう出生数を増やす気ないんでは。 だって留学生100万人計画なんて言ってますしね。 政府の教育再生会議の第3分科会(高等教育)が18日開かれ、海外から優れた学生を招致するため、25年ごろをめどに「留学生100万人計画」を策定することで意見が一致した。5月の第2次報告に盛り込む方向で検討する。 どうも彼らの「脳内ジャパン北米版」はこんな感じらしい。 少子化が進む日本。 日本の下流層は安定を好み、煽ってもシバいても一向に発奮しない。 正直、日本には彼・彼女らは必要ない。 なにしろ留学生100万人計画を筆頭に海外の精力的な労働力を取り入れれば、アメリカのように市場も大学も活性化してベンチャーがどんどん立つし、日本の下流もこれで発奮するだろう。 日はまた昇る。ライジング・サン、アゲイン! 移民は子供もバンバン生むというし、万事解決というわけ
コメント欄の議論にもあるように、これまでタダ働きだったところにサポートがつくという意味においては前進といえます。 しかし同時に、「兵隊」として大学院生をコキ使う大義名分もできてしまいました。「ボスの取ったカネで雇われているのだから、ボスのテーマで働くのは当然だ」というわけです。院生にとって複数のリソースのうちの一つという位置づけならよいのですが、コレが支配的になってしまうと「自分でテーマを追う」という博士の最も重要なファクターが損なわれる危険性があります。 ところで100万人の留学生はどうやって養うのかしらん。*1 *1:もう一つ、返還義務があるものを「奨学金」と呼ぶのやめませんか。「奨学ローン」が分かりやすい。 それはそうなのだけど、いわゆる「パイ」が膨らまない限り貧困解消≒格差解消であるのもまた理。 大規模な成長が見込めない以上は再分配するしかありません。 ちなみに政府が頼みの綱とする
mojimojiさんからTBをいただいたので応答しておこうと思います。 まず、前回は森岡さんの土俵に乗るつもりがなかったので直接書きませんでしたが、森岡さんの問い ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。 倫理や責任の根拠の一つに「因果関係」は確かに使われるけれども、それは必ずしも堅牢なものではないことは何度か書きました。 ではその他の根拠は何かというと、あと2つほど考えられると思います。 一つは社会運営上のルールとしての根拠。 これがmojimojiさんが批判される 法的責任や倫理的責任は、制度として「創造される」 という側面にあたります。 が、mojimojiさんも こういう議論に
mojimojiさんから再応答をいただいた。 おっしゃることはよく分かるのだけど、私にはまだ少し違和感があります。 他方で、自己欺瞞をうまく扱えない人がいる。そういう人がたくさんいる。 こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。 前回の文脈でいうならば、世の中には「倫理的な責任」を 「感じない人」 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」 「どうしても感じてしまう人」 がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。 しかし、それは同時に、「本当はできるでしょう?」などという必要もないことになります。言おうが言うまいが「感じてしまう人」なのですから。 結局、「感じない人」や「どうしても感じてしまう人」に対しては倫理的な呼びかけ自体が「役に立たない」といえるでしょう。 となれば、「多少は感じる、あるいは感
再びお返事をいただきました。 やはり違和感があります。 この違和感は埋まるものかもしれないし埋まらないものかもしれませんが、この対話は論破や説得を目的としたものではなく、違和感を明らかにすること自体を価値と考えます。 まず、前段に関しては、おっしゃるとおり。 ただ、その部分はmojimojiさんの前回のエントリの こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。 という辺りも受けていますので、「感じる人」「感じない人」の判別不可能性をいうのならここでもそれを適用し、「仕方ないんだよ」ということの意味を認める必要があると思います。 その上で、前回のように区別する必要が少ないことには同意します。 ただし、「完全に判別」することは出来なくとも、ある程度「判断」することが無意味だとは思いません。「呼びかけ」の方法について考慮する余地があるからです。 われわれは神ではな
mojimojiさん、x0000000000さんそれぞれからお返事をいただきました。 うーん、なんだか三者三様に語っているレイヤーが違うような印象。 まずmojimojiさんのご意見ですが、mojimojiさんは「切断」や「想像力」というとき、あまりにもall or nothingで捉えておられるように思います。 つまり、「0か1か」という文脈で常に語っているように見えます。 確かに「それ」を全く知りもしなければ(=0)、そこに想像力が働く余地は極めて少ない、といわざるを得ません。その文脈で、「0を1にする」という意味においては、「呼びかけ」はどういう形であれ「成功」といえるでしょう。 しかしながら、1が10になることもあれば、0.1になることもあるのです。 認知させればそれでよいというのは、例えば選挙の際の「連呼」は常に成功だ、というのと似ています。 一旦認知のきっかけができた後は、いか
最近知人から「小学生に見せる面白い実験ない?」みたいな話を向けられました。 見せて面白いとなると、やはり「科学マジック」的というか、ちょっと不思議に感じるような現象がいいでしょう。 検索してみると、出るわ出るわ。 どうやら日本の理科教育振興の主力武器の一つのようです。 まあご多分にもれず私もこういうのは大好きで、子供の頃はウチでいろいろ試行錯誤して台所を汚したもんです。 ただ改めて科学教育という観点から考えてみると、「科学マジック」は必ずしもよい影響ばかりとは限らないような気がしてきました。 科学マジックを教育に使う場合、大まかには 1. 面白い、不思議な現象を見せる 2. ここには実はこんな法則が隠れているのです 3. 科学ってスゴイですね という流れになると思います。 ところがこれ、よく考えるといわゆる「水伝」の構造とそんなに変わらない。 1. 水に声をかけると物が腐らない 2. 実は
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