芸哲宗のブログ

クリエーションは人間に託された力

Wi-Fiの力 自己を超える可能性

大いなる力はWifiでやってくる
一貫して自分の中を探し尽くしても、これといって何も見つからない。自分のちっぽけな様子が手に取るように感じられて外側に意識を向けた時に瞬間で理解した。素直に認めよう。脳は脳に過ぎず、大いなる力は wi-fi でやってくることを。内側ぢゃなく、外側だってこと。
(2024/1/23 Xエックスからの抜粋)

外側からの声、内側の沈黙

私たちはしばしば「自分探し」という旅に出ます。しかし、それはまるで果てしない迷宮のように、自分の内側を掘り続ける行為そのもの。何か確固たるものがあると信じ、自分の本質や意志の源泉を求めて、思考の奥深くへ潜り込むこともあります。
 
しかし、掘れども掘れども、見つかるのはただの反響する声や、過去の残響だけだったりします。そこに新たな真理はありません。むしろ、掘るほどに自分の小ささを知り、空虚な中心を抱えたまま、途方に暮れることもあります。
 
私たちは、自分の内部が絶対的な拠り所であり、そこに本質が宿ると考えがち。しかし、ある瞬間、その前提が崩れることがあります。自分の小ささをはっきりと理解した瞬間、視点は内部から外部へと転じます。

脳は脳に過ぎない

哲学者デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、その思考する主体である「脳」は、単なる物質の塊にすぎないのではないでしょうか。近年の神経科学の発展により、私たちの思考や意識は、電気信号と化学反応の連鎖によるものだと明らかになってきました。
 
では、私たちは一体何者なのか?が作り出す幻想のような「自己」に、実体はあるのでしょうか?あるいは、私たちは自らの脳を意識することで初めて「自己」を感じているに過ぎないのでしょうか?
 
この疑問が深まると、「大いなる力」がどこから来るのかを問うことになります。思考やインスピレーションは、内側から湧き出るものではなく、外部の影響を受け取ることで生まれるのではないか、と思えてなりません。

Wi-Fi のような意識

情報の流れを考えたとき、それはまるで Wi-Fi のようです。目に見えませんが、確かに存在し、何かの受信機がそれを拾い上げることで初めて意味を持ちます。私たちの意識も、同じように外界からの情報を受け取ることで成立しているのではないでしょうか。
 
かつての哲学者たちは「悟り」や「真理の発見」を内省によって求めましたが、もしそれが間違いだったとしたら?もし、私たちが内側に何も見つけられないのは、そもそも意識というものが外側からやってくるものだからだとしたら?
 
私たちは、他者との対話、環境の変化、偶然の出会いによって、新しい視点を得られます。つまり、意識とは個別の脳の中にあるのではなく、外部環境と接続されることで生まれる流動的な現象ではないでしょうか。

内と外の境界

伝統的な哲学は、「自己とは何か?」という問いに焦点を当ててきました。しかし、その問いがそもそも無意味だとしたら?自己は孤立した存在ではなく、むしろ外部との関係性の中で定義されていたとしたら?
 
仏教の「縁起」や、現代哲学の「分散意識」の概念は、私たちの意識が独立したものではなく、相互作用の結果であることを示唆しています。脳だけが自己ではなく、環境、社会、テクノロジー、言語といった外部要因こそが、私たちの意識を形成しているともいえるのです。

受信する存在へ

もしかすると、私たちは「考える存在」ではなく、「受信する存在」なのかもしれない。思考は自発的に生まれるのではなく、外部から受け取り、それを処理する過程なのだとしたら?
 
例えば、天才と呼ばれる人々のインスピレーションの多くは、偶然の閃きや外部からの刺激によって生じます。彼らは単に「考える」のではなく、むしろ「受け取る」ことに長けていたのではないでしょうか?
 
私たちが本当にすべきことは、内側に閉じこもるのではなく、外部の世界にアンテナを広げ、適切な信号を受信することかもしれません。自分を探し続けても何も見つからないのなら、もっと外を見ようとする意識。世界は、私たちに対して、すでに語りかけているのかもしれません。

外側に向けた意識

「自己」は固定された実体ではなく、流れの中にあると思えるのです。脳、あるいは細胞自体が単なる受信機であり、意識は Wi-Fi のように外部からの信号で成り立っているのかもしれません。内側を掘り続けた結果、外部とコネクトして初めて動力が伝わるのかもしれませんね。面白いでしょ?
 
だからこそ、私たちは内省のみに固執するのではなく、むしろ外側へ意識を向けるべき瞬間が必要です。他者の言葉、自然の動き、社会の変化、テクノロジーの進化――それらこそが、私たちの意識の在り方を問いかけるレッスン。
 
内側を覗いても何も見つからないとき、ようやく気づくのかも。
世界そのものが、私たちの意識なのだと。

未来は未知にあふれている

未来は未知にあふれてる
いつも同じ「自分」である必要なんかないよね。
だからこそ、毎日が「未知との遭遇
(2024/1/22 Xエックスからの抜粋)
 
 
毎日が「未知との遭遇
変わり続ける自分を楽しんでみたい。

「自分らしさ」という言葉をよく耳にします。 

「自分らしく生きることが大切」 
「ありのままの自分を受け入れよう」 

これらの言葉は、一見するとポジティブなメッセージに思えます。しかし、時には「自分らしさ」に縛られてしまうこともあるのではないでしょうか? 

「私はこういう人間だから」 
「これが私の性格だから」 

そう決めつけてしまうと、新しい自分に出会う機会を失ってしまうかもしれません。 

でも、本当にいつも同じ「自分」でいる必要はあるのでしょうか? 

私たちは、日々の経験や環境の変化によって、少しずつ成長し、変わっていくものです。だからこそ、毎日は「未知との遭遇」なのです。 

変わることは「ブレる」ことではない

「一貫性がない人は信用できない」 
「考えがコロコロ変わるのはよくない」 

そんな風に言われることもありますよね。もちろん、状況によっては一貫性を持つことが重要な場面もあるでしょう。しかし、それが「自分を変えない」こととイコールである必要はありません。 

人は経験を重ねるたびに価値観や考え方が変わるものです。たとえば、学生の頃に好きだったものが、大人になると興味を持てなくなることがありますよね。それは、あなたが成長し、新しい視点を手に入れた証拠です。 

むしろ、いつまでも同じ価値観にしがみついていることの方が、時にはリスクになることもあります。 

変わることは、進化すること。 
新しい自分を見つけることを恐れず、むしろ楽しんでみませんか? 

「昨日の自分」とは違う「今日の自分」 

「昨日はこれが正しいと思ったけれど、今日は違う気がする」 

それは決して悪いことではありません。 

私たちは毎日、さまざまな情報に触れ、異なる人と出会い、経験を積んでいます。そうした日々の積み重ねが、新しい価値観や考え方を生み出していきます。 

大切なのは、「変わることを否定しない」こと。 

今日のあなたが昨日と違う考えを持っていたとしても、それは「ブレている」のではなく、「成長している」ということ。 

自分の中で「変わる自由」を認めてあげると、もっと生きやすくなるかもしれません。 

「未知の自分」に出会う楽しさ 

私たちは、他人に対しては「新しい一面」を見つけることを面白がることがあります。 

「あの人、意外とこんな一面があるんだ」 
「思っていたイメージと違ったけれど、こっちの方が魅力的かも」 

それと同じように、自分自身の中にも「まだ知らない自分」がたくさんいるはずです。 

たとえば、新しい趣味を始めることで「こんなことに熱中できるんだ」と驚いたり、新しい人と出会うことで「こんな考え方があるのか」と気づいたり。 

そうやって、自分の中の「未知なる可能性」を発見していくことこそが、人生の面白さではないでしょうか? 

「こうあるべき」に縛られない生き方 

社会の中で生きていると、「こうあるべき」という枠に縛られることが多々あります。 

「大人なんだから、落ち着いていなきゃいけない」 
「この年齢なら、こういうことをすべきだ」 
「一度決めたことは、最後までやり抜かなきゃならない」 

もちろん、責任感を持つことや、目標に向かって努力することは大切です。 

でも、その「こうあるべき」が自分を苦しめるものなら、無理に従う必要はありません。 

何かをやめたくなったら、やめてもいい。 
新しいことに挑戦したくなったら、挑戦すればいい。 
昨日の自分とは違う考え方を持ったっていい。 

自分を縛るのではなく、もっと自由に、もっと柔軟に。 

最後にやっぱり、「毎日が『未知との遭遇』でいい」 

変わることを恐れず、新しい自分を楽しむ。 

それができたら、毎日がもっとワクワクするものになるはずです。 

「私はこういう人間だから」と決めつけるのではなく、「今日はどんな自分に出会えるんだろう?」とワクワクする気持ちを持つ。 

そうすれば、人生はもっと面白くなる。 

だからこそ、毎日が「未知との遭遇」。 

今日のあなたは、昨日までのあなたとは違うかもしれません。 
そして明日は、また新しい自分に出会うかもしれません。 

それこそが、生きる楽しさなのではないでしょうか?

創造することは変化の連続。恐れずに。
 
 
 
 

「素直な自分、本来の自分に戻れ」感性の解放と純粋な意欲の再発見

僕はみているし、みられているんだよ
素直な自分、本来の自分に戻れ。驚き、感動し、喜びを感じる時にこそ感性を解き放て!! 幼児が自分の能力を自然に開発させ拡大していくように。私たちは純粋な意欲を内側から引っ張り出すことができる。あなたの「空を眺めた記憶」を取り戻せ!!
(2024/1/21 Xエックスからの抜粋)
 
このポストは、
日常生活の中で忘れがちな純粋さと
感性についてふと思ったものです。

素直な自分、本来の自分というものは気づくと希薄になっていく場合があります。素直な自分とは、偽りのない、純粋な状態の自分を指すのですが、実際には中々表に出てくる機会が無いのです。子供の頃を思い出してみてください。子供は驚き、感動し、喜びを感じることを何の後ろめたさもなく表現します。それは、社会的な枠組みや自己評価、他人の視線を気にせず、自分の感性に忠実に生きる生き証人みたいな存在です。

本来の心は、その素直さから生まれる、自然体でありながらも強い個性と創造性を持つものだと信じています。私たちは成長するにつれて、社会や文化、教育を通じて様々な価値観やルールを学ぶのですが、それらは確かに生活を豊かにする一方で、時には私たちの本来の感性や純粋な意欲を抑制し、型にはまることを強いてきます。

感性を解き放つ瞬間が人間の喜びだと思います

「驚き、感動し、喜びを感じる」この瞬間こそ、私たちが感性を解放する最大のチャンス。美しい風景、感動的な音楽、素晴らしい芸術作品など、私たちはしばしば涙を流すことさえあります。この涙って一体なんなのでしょう?これこそ“創造”と“表現”が一体化したエネルギーの爆発ではないかとさえ思います。岡本太郎さんの「芸術は爆発だ!」が腑に落ちる瞬間です。これらの体験は、私たちがデフォルトで与えられた日常生活で抱えるストレスや不安から解放され、心を浄化し、本来の自分に触れる機会を与えてくれます。

幼児の学びから学ぶ大人

幼児が自然に能力を開発していく様子は、まさに感性と意欲の純粋な表現です。子供たちは遊びを通じて学び、試行錯誤しながら新しい能力を身につけます。彼らには目的意識や成功への欲求よりも、純粋に「したい」という衝動が先行しますよね。これがまさに“神の表現”だと思えてなりません。私たち大人もまた、このような純粋な意欲を内側から引き出せるはずなのです。どうやって?それは、自分が本当に好きなことを、誰の評価も気にせずに追求することから始まるのではないでしょうか?

「空を眺めた記憶」を取り戻す意味

「空を眺めた記憶」は、無垢な心で世界を、あるいは宇宙を感じていた時の流れを象徴しているようです。空は広く、深く、美しく、そして何よりも自由。空を見上げることは、私たちが日常の雑多な情報や問題から一時的に離れ、自分自身と向き合う時間を与えてくれますよね。これは、感性の再発見、自己の再評価、そして新たな創造性の源泉となることができる宇宙からのギフト。

関係ありませんが、そんな意識で「Bluesky」をXの共同創業者であるジャック・ドーシー氏は名付けたのではないだろうか、なんて勝手に思ったりしています。ちなみに僕もBlueskyをやっていますが、Xエックスとは違う、完全に脱力ポストをしています。もし、あなたもやっていたら、ぜひフォローしてください。一緒に遊びましょ笑

まとめ~自分の意識の声を聴くということから~

このポストは、自分の感性を信じ、素直に生きることをチョコッと表現してみました。社会の中で生きることは確かに複雑で、時には自分の声を聴くことが難しいかもしれません。しかし、驚き、感動し、喜びを感じる瞬間を大切にし、自然を愛し、子供の学び方から更に大人も学ぶことで、私たちは本来の自己を取り戻すことができると思うのです。

今日もスマホの電源を切って、空を見上げ、自分の「空を眺めた記憶」をそっと思い出してみてください。それが、あなたの感性を解き放つ第一歩になるでしょう。
 
Xエックスでの「いいね」やリポストなど本当にありがとうございます。
あなたの「いいね」が僕のモチベの源泉です。
今日も、
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
 
 

混沌から美を見つける

どこに「美」を見つけようか
不安になったら音楽を聴く、悪口言いそうになったら筆を持つ、悲しくなったら文字を書く。世界は混沌としている。無理に笑わなくてもいい、創作しよう。表現は裏切らないから。
(2024/1/19 Xエックスからの抜粋)

私たちが直面する多くの感情や状況に対して、どのように対処すべきか。それは、創作という行為を通じて自分自身を見つめ直し、乗り越えていくことではないだろうか?

不安と音楽

不安は現代社会において避けられない感情の一つ。仕事のプレッシャー、人間関係のストレス、未来への不確実性など、不安の原因は無数にあります。ポストでは、「不安になったら音楽を聴く」と書いたが、これは単に気を紛らわせるためだけではありません。音楽は感情を解放し、心を鎮める力を持ちます。クラシックの静謐な調べからロックのエネルギッシュなビートまで、音楽は私たちの心を動かし、ときにはその中で自分自身を見つめ直す機会を提供してくれる。特に、自分が共感できる歌詞やメロディーは、不安の影を和らげ、新たな視点を与えてくれたりするから面白い。

悪口と創作

「悪口言いそうになったら筆を持つ」というのは、ネガティブなエネルギーをポジティブな活動へと変換するためのきっかけ。人の悪口を言うことは一時的な快感をもたらすかもしれませんが、その後の後悔や罪悪感は避けられません。このポストでは、そうした感情を紙の上に描く、書くという行為を通じて表現すること。筆を持つことは、自分の怒りや不満を建設的な形で外に出す手段であり、それが絵画や詩、日記などになるかもしれません。創作は自己表現の手段であり、自己理解の旅。悪口を言いたい衝動をエネルギーに変えて創作するという考えは、内なる平和と成長を促すと思うのです。

悲しみと文字

悲しみは、人間にとって最も深い感情の一つであり、しばしば言葉にするのが難しい。このポストでは、「悲しくなったら文字を書く」と書きましたが、悲しみを文字にすることは、自身の感情を整理し、理解するプロセスでもあります。悲しみが書くことで癒されるわけではありませんが、それを表現することで、悲しみが一時的なものであると認識し、前進するための道筋を見つけることができます。日記を書くこと、詩を作ること、あるいは小説の一節を綴ること。それらはすべて、悲しみから美しいものを見つける一歩となると思うのです。

混沌の中の創作

「世界は混沌としている」という認識は、多くの人々が抱く現代社会の感覚。情報過多、社会的分断、環境問題など、私たちを取り巻く状況は決して簡単ではありません。その中で「無理に笑わなくてもいい、創作しよう」と書いたのは、心の平安を見つけるために新たな道を示そうよ、ということ。創作は自己表現であり、自己治癒でもあります。絵を描く、音楽を作る、物語を書く、これらの行為は混沌とした世界から一時的な避難所を提供し、自己と対話する時間を与えてくれるんです。

感情や状況の変動にどう対応するかという視点から、創作の重要性を強調してみました。音楽、筆、文字といった創作の道具を使うことで、私たちは自分の内面と向き合い、世界の複雑さの中でも美を見つけることができます。創作は裏切らない。なぜなら、それは私たちが自分自身の存在を再確認し、深く考える機会を提供してくれるから。
混沌の中でも、創作は私たちに希望と平和をもたらす可能性を強烈に秘めています。
さて、淡々と。
 

新しい体験のリスクとメリット

   

今までやったことのないことにいろいろと手を出してみて、あれもこれもチョッピリかじるだけでいいんだよ。「キチンと」や、「チャンと」など窮屈に感じている人はね。資質に合わない努力はせずに、抗わない。そのまま気分屋でグー
(2024/1/18 Xエックスからの抜粋)
 
体験は血となり、肉となります。
振り返れば、自分も好きなように好きなことをして生きてきましたし、現在も、そしてこの先の未来も可能な限り好きなことをし続けていきたいと思っています。やったことのないことに色々と手を出すということは未体験を消化する貴重な実体験という学び。

しかし、体験することには、多くのメリットとデメリットがあるのも事実です。

まず、メリットは新しい体験からは多くのことを学ぶことができますよね。

知識が広がり、スキルも向上します。実際の経験(失敗含み)を通じて問題解決能力や適応力が鍛えられるのと同時に異なる文化や環境を体験することで、世界観が広がり、多角的な視点を持つことが可能になるでしょう。
 
そして、なんといっても「改めて自分を知る」ことが出来ます。自分を知るときは他人と一緒にいてなんらかを指摘されて気が付くことって案外と多いもの。

自分自身について深く理解できることが最大のメリットだと思えます。

以前、テレビ制作会社に勤めていた頃の話ですが、入社して怒られまくりました。ADから始まり、あまりにも自分の気の利かない不甲斐なさを痛感した経験があります。

当時は悔しくて悔しくて仕方ありませんでしたが、このようなボロ雑巾のような体験が今となっては血となり肉となっていることは事実。

何があっても大抵は乗り越えられるという自信がつきました。このようにとても役立っているのですからまさに「苦悩はやがて至福となる」です(笑)

首の皮一枚でつながっているようなマイナスの体験は自己実現や目標設定に大いに役立つことを知りました

更に新しい人々と出会い、友情やネットワークを築く機会も外に出て増えます。新しい体験はエキサイティングで、人生に彩りを加え、満足感を得ることができるものです。

さて、体験することのデメリットって何でしょうか?

これは未知の体験にはリスクが伴うということです。

物理的な危険や健康上の問題、金銭的な損失などかなぁ。そして、多くの時間とエネルギーが必要だということくらいではないでしょうか。

もちろん、未知の状況に対処するのはストレスや不安を引き起こすことがあります。特に、先ほどのように失敗や拒絶の恐れが大きい場合。しかし、それは成長の分岐点とも言えます。

忍耐して時間の経過とともにエネルギーへと転換できるのか、あるいは、新しい環境や文化に適応するのが難しく、孤独感やフラストレーションを感じたままの状態へと変えてしまうのか。

このように、“新しい体験”は結果が予測できないため、期待が裏切られることもあるんですね。最悪、失望感や無駄な時間を費やした感覚を生むかもしれません。

それにしても、割合にして8対2くらいの確率で新しい体験をするということは、個人的な成長と知識の拡大を促すのではないか、と思えます。というか、信じたいものです。

どんな体験を選択するのか、どのようなリスクを取ることに価値を見出すか、またどれだけ学びたいかによって大きく変わるのだろうけれど、僕はそう信じたいのです。

 

自己成長とクリエーショントレーニング

表現そのものが〝クリエーショントレーニング〟だ。「筋トレ」はその人のカラダをみればすぐにわかるけれど、「クリトレ」はその人の外見をみても分からない。しかし、筋トレ同様、クリトレも裏切らない。
(2024/1/17 Xエックスからの抜粋)

普段の表現活動

日常で行う表現活動は、言葉を使って自分自身や他人の考えを伝えるための手段ですね。それ自体がクリエーショントレーニンであると思うのです。

表現は思考の整理と深化に繋がっていくと感じています。言葉に出した瞬間、あるいはイラストや絵画として表出させた瞬間に、客観的に垣間見えて、また違った発想を構築したりしますよね。

人は何かを表現しようとするとき、その内容を理解し、論理的に組み立てる必要があります。これは単純に考えを言葉にするだけでなく、複雑な問題に対しても、人間はあれやこれやいろんな視点でジロジロと見る生き物です。

例えば、ブログやエッセイを書くことで、自分の考えをまとめ、矛盾や未解決の点を発見し、さらにはそれを解決するための新たなアイデアを生み出すことができたりね。

表現はコミュニケーション能力を高めると思いませんか?

いや、表現の配信、かな。私たちはしばしば他人の意見や感情を理解し、それに応じた反応を返す必要があります。このプロセスは、言葉を選び、相手に伝わるように調整する能力を養う。これがコミュニケーションを高めるよね。

また、効果的な表現は、自分の意見や感情を他人に正確に伝えるだけでなく、共感や理解を得るための重要なスキルとなりますね。SNSでの投稿や対話、プレゼンテーションなど、さまざまな場面でこの能力が求められるのが、2024年の現代だと思います。

さらに、表現は創造性の鍛錬。

創造性は新しいものを生み出す力ですけど、それは既存の概念や言葉を組み合わせて新しい価値を見出すことから始まり、詩を書く、絵を描く、音楽を作るといった芸術的な表現だけでなく、ビジネスのアイデアを表現する際にも、創造性は必要ですよね。 

 

表現は、異なる視点や解釈を模索し、それらを言葉や形にすることで、私たちの創造性を引き出し、磨く機会を提供してくれているということに気づくとホント面白いし、感謝しかないですね。

そして、なんといっても表現は自己理解と自己成長の道筋。自分の思考や感情を表現することで、それらを客観的に見つめ直すことができたり。

ブログや日記を書くことは、その日あった出来事や自分の感情を振り返る機会となり、自己反省を通じて成長を促すと感じてはいますが、毎日更新・・とはいかないところがまどろっこしいですw

あと、これは個人的な趣向というかこだわりですが、たった一人の空間で書くことが好きです。複数人でいるときには日記は書きませんけれどもね。

表現は社会とのつながりを深める手段

言葉は、他人と共有し、共感を得ることで社会的なつながりを強化しますね。

これは単なる情報伝達だけでなく、文化や価値観の交換。Xエックスのポストでも自分では「イケる」なんて思っても反応が薄かったり、パッパと直感で仕上げたポストが沢山のいいね、がもらえたり。

自分の筋力と同じくらい、表現を自身で見つめることによって、自分とは何者かを知る手がかりをXエックスでは、沢山もらっています。

表現は単なるコミュニケーションの手段ではなく、思考、創造性、自己理解、社会参加の拡張と深化をもたらすトレーニングなので、やはり続けていくことが大切だと思います。

毎日の表現活動は、自己の成長と社会的貢献の両方を可能にする、非常に強力なクリエーショントレーニングだもんね。今日は・・・もうやめるか、そう思った時にこの記事を読み返そう。

どちらかというと、仕事は表現というより、意に沿う労働となってしまうから。