その軽々しさだけは勘弁してほしい

ドイツやフランスのようにホロコーストの否定を法で禁じている国々においても、もちろんそれが「言論の自由」という重要な原則に抵触するのではないかという主張は存在する。否定論の禁止を(積極的にであれ消極的にであれ)支持する者だってそうした疑義が真性のものであることは認めるだろう。「言論の自由」という観点から「ホロコースト否定論を法で禁じるべきでない」と主張することはもちろん禁じられていないし、現にそうした主張はなされているし、そうした主張が馬鹿げたものとされることもない。
問題は、あたかも自由に研究を続けていれば「実はホロコーストはなかった」という結論が出てくるかもしれないと言わんばかりの、ホロコースト否定論を法で禁じることでホロコーストの実態解明が阻害されているかのようなスタンスで否定論禁止法を扱うことだ。これは第一に、これまでの研究の蓄積に対する侮蔑である。実際、(日本において)そういう態度をとる人間は研究史についても、専門家の個別研究についてもほとんど知識を持っていない(もっていればそういう発想が出てくるはずがない)。日本を含めホロコースト否定論を主張することが違法ではない国だっていくつもあり、そうした国にもホロコーストを研究する専門家はいるわけだが、だからといってそうした国々では専門家の間でも「ホロコーストの実在を疑ってみるべきかもしれない」などといった機運は微塵もうまれていないのが現実なのだから。
「知らないから勉強します」が口ではどういおうが実質的には否定論への加担と同じだというのはこうした意味においてである。「ホロコースト(あるいは南京大虐殺)はなかったかもしれない、という仮説」を排除すべきでないと主張する人間が、「米軍が日本の主要都市に大規模な空襲を行なって焼け野原にした、というのは嘘かもしれない」という「仮説」を真面目に検討している事例というのは見たことがない。むろん「どう思うのか?」と問い詰めればダブスタ批判を逃れるために「ええ、やってみるべきだと思います」と答えるケースが多いだろうが。本土空襲の存否を根底から問い直す必要性を感じていないのにホロコースト南京事件については(新書一冊すら読まずに)「なかった、という可能性も排除すべきではない」などと考えることが、「知的に真っ当」であるはずがないではないか。我々が米軍による空襲の存在をことさら証明する努力をせずにすむのは、ホロコーストと日本に対する空襲という2つの歴史的な出来事の違いによるのではなく、単にアメリカでは(原爆投下や東京大空襲を含む)日本への空襲の道義性が深刻には問題視されておらず、それゆえ「日本に対する空襲を否定したい」という欲求をアメリカ人がもっていないことによるのである*1


この一件が「イスラエルに対する批判はどのようになされるべきか?」という議論の中から出てきたということの倒錯性はいくら強調してもしすぎることはない。ガザが被った被害にせよ中国当局に弾圧されたチベット人の被害にせよ、ホロコースト南京事件について“不明なところがある”という程度には不明なところがあるわけだが、だからといって我々が「パレスチナ人やチベット人が申し立てる被害はまったくの嘘かもしれない」といった可能性を念頭において行動すべき理由があるだろうか? 我々はガザやチベットで人々が被っている被害の全貌をその細部に至るまで知ることはできなくても、それらが「無からつくり出された虚構」ではありえないことを確信できる以上、イスラエルや中国に対して「殺すな」ということができるしまた言うべきである。ガザやチベットとは違ってホロコースト南京事件については「無知」だから「勉強」するまで被害者やその遺族の申し立てについて判断停止します、なんてことを言う必要もないしまた言うべきでもないのと同じように。

*1:もちろんアメリカは戦後すぐに自らの戦略爆撃の効果を調査し公式な報告書まで作成しており、今日我々はそれを「日本に対する空襲があった」ことの証拠として用いることができる。しかしそれもナチスホロコーストを隠蔽しようと望み、日本が南京事件を隠蔽しようと望んだのに対して米軍にはそうした欲望がなかったからだ。追記:これはもちろん、原爆投下の目的やその政治的効果をアメリカに好都合なように理解したり、あるいは原爆がもたらした被害について過小評価したいという欲望までもがないということではない。