『昭和天皇・マッカーサー会見』
昭和天皇とマッカーサーの会見における天皇の発言(およびマッカーサーの反応)はいくつかのルートで“公表”されたが、その内容にはいくつかの齟齬がある。本書の第1章と第2章は『マッカーサー回想記』における記述(天皇が「全責任を負う者」として自らを「諸国の採決にゆだねるため」訪問した、とされている箇所)の検証を軸として、天皇発言の実態とその意味を明らかにしようとしたもの。詳細は実際に本書を手にとってご覧いただくとして、著者の結論は通訳を担当した外務官僚奥村勝蔵の「手記」*1が会見の内容をもっとも正確に伝えている、というものである。そしてこの奥村「手記」には「全責任を負う」発言はみられないのである。
今日では広く知られているように、占領最初期における天皇および側近たちの最大の関心はいかにして天皇の訴追を回避するか、であった。そしてマッカーサーやフェラーズたちはこの点で、日本側と利害を同じくしていた。その結果、東京裁判開廷前後の時期において、マッカーサーは二通りの天皇発言を裁判対策として使い分けた、というのである。表向きには天皇には責任が無いことをアピールするため「自分は戦争には反対であった」という発言が強調され、裏舞台では全責任を負うとの“発言”がキーナンや田中隆吉に伝えられることで、両者に天皇訴追回避のための努力を促した、と。
この時期の天皇発言がはらむもう一つの問題は、「昭和天皇は東條英機を非難したのか?」というものである。前出奥村「手記」には東條を(天皇の意に反して開戦した、として)非難する発言はみあたらない。しかし『ニューヨーク・タイムズ』紙のクルックホーン記者との会見や、イギリス国王への親書(46年1月)では東條の名に言及しつつ、「宣戦の詔書」が自らの意に反するかたちで用いられた、としているのである。著者は、天皇が「臣下」を個人的に非難したという不都合を隠蔽するために、発表された奥村「手記」からは同様の発言が削除されているのではないか、と推理している。
第3章は、第8回目以降の天皇・マッカーサー会見において通訳を務めた外交官松井明が書き残した「松井文書」について。松井氏は出版を目的として原稿をまとめたが、周囲の圧力で断念したとのこと。その写しを朝日新聞が入手し、著者がそれを閲覧する機会を得た、という。遺族の了解が得られないため現時点では全文公開ができず、著者自身も「本来であれば歴史的に重要な資料は、誰もがアクセスすることによって研究が深められ議論が活性化されるべきものである」として、「内心忸怩たるものがある」と付言している(175頁)。とはいえ永遠に非公開のままということはあるまいし、非公開の文書を(法的に可能な範囲で)利用した研究が世に出ることで文書の重要性が広く認識され、公開への道が開けるということもあり得るだろう。
内容的には、第4回の会見(「日本の安全保障」のためにアメリカがイニシアティヴをとることを要望した)の全貌が明らかになったこと、天皇が本格的に「外交」にのりだす(第4章に詳しい)きっかけとなった第9回、10回会見の内容や、第11回の会見で「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と発言したことなども明らかになったことが、主な成果としてあげられている。新憲法下でも積極的に「政治的行為」を行なっていた昭和天皇の姿は、『独白録』などにおける「立憲君主の立場に徹した」という弁明の論理を否定するものだ、という著者の指摘には説得力があり、松井文書の資料批判が他の研究者も交えて行なえるようになることの重要性は高いと思われる。また、第1、2章で扱われた「東條問題」同様、天皇がマッカーサー主導の東京裁判に「謝意」を述べたことは、「平和主義者」としての天皇イメージと、「自存自衛の戦い」という太平洋戦争イメージとの間の「ねじれ」を露呈させている、とも指摘している。
第4章は占領期における天皇による「二重外交」に焦点をあてた章で、「共産主義の脅威」による天皇制の打倒をなによりも恐れた天皇が講和後の安全保障体制について積極的に発言することにより、朝鮮戦争の勃発によって価値のあがった「基地カード」を有効に活用する可能性を封じ、「不平等条約」の締結に至ってしまったのではないか、というかなり重大な含意をもつ仮説が提起されている。松井文書には吉田茂や白州次郎らのめざした方向性への天皇の疑念が記されている、とのことである。