西欧出自の理論の有効性の範囲という問題がある、たとえば、マルクスの理論について、マルクス自身が、自分の理論は西欧限定だということをザスーリッチへの手紙で言っている(平田清明『市民社会と社会主義』)。フランシス・フクヤマの、「自由民主制」のグローバルな現実化により、「歴史」は終焉を迎えるという理論も、世界全体に彼の理論(ヘーゲル、コジェーヴ由来)は妥当するという前提がある。
しかし、ロシアも中国も西欧とはまったく異質な世界である。「東洋的専制」の世界なのだ。
ウィットーフォーゲルのこの訳書は入手困難で、古本でしか手に入らない。しかし、古本でも大変高価である(ついでながら、英語版の原書は入手できるが、これも値がはる)。また高い金を出してまで手元に置いても、そもそも読むに値するかが問題である。
社会科学理論の普遍性という問題、「東洋的専制」という問題(単なるオートクラシーでなく、デスポティズムだ)について、あるいは周辺的にはマルクス主義理論、フランクフルト学派についても、関心がある向きには、良書かもしれない。
わたしはこの訳者の本は70年代から読んでいる。訳文は基本的に信頼できる。しかし、これは原著者の問題なのか、訳者の訳業の問題なのか、原書にまだ当たっていないので相談できないのだが、訳文註何度も出てくる「政府」の語が気になった。言語はgovernmentなのだろうか。むしろ「統治」と訳して方がいいのではないかと思案した。