モバイルヘルスが医療に革命 17年に230億ドル市場へ
世界のモバイル通信事情(4)
スマートフォン(スマホ)やタブレット端末などの携帯電話端末を医療活動に利用する「モバイルヘルス」への注目度が高まっている。ネットワークの高速化によって、レントゲン写真をはじめとした高精細で大容量の画像をやり取りできるようになり、医療情報の共有もクラウドサービスの進展で現実的となった。海外ではいち早く取り組みが始まっており、市場が急速に拡大している。
先進国と新興国で異なる背景
モバイルヘルス市場への期待が高まっているのは世界的な動きだが、その背景は先進国と新興国で大きく異なる(図1)。先進国では高齢化が加速し、慢性疾患患者の増加による医療費の高騰が大きな問題となっている。事実、先進国のGDP(国内総生産)に占める医療費の割合は10%程度と高い。加えて、多くの国が医療従事者の不足に直面している。
一方の新興国は、そもそも病院や医師の数が圧倒的に少ない。近くに医療施設がなく診療を受けるために徒歩で3日かかる地域も存在する。医療体制の整備は喫緊の課題である。偽物の医薬品も大きな社会問題となっており、それによる薬事事故が後を絶たない状況だ。
先進国と新興国、いずれの課題解決にも、ICT(情報通信技術)を活用した医療サービスの効率化が不可欠だ。とりわけモバイルヘルスが有効な策となる。英調査会社のジュニパー・リサーチによると、遠隔医療や予防といったモバイルヘルスの拡大により、全世界で今後5年間に360億ドルの医療費削減が可能になるという。
スマートデバイス向けヘルケアアプリ急増
通信業界もモバイルヘルスを次なる成長市場と位置付けて期待を寄せている。音声通話の収益は頭打ちとなり、先進国では新規顧客の爆発的な増加は見込めそうにない。主要な通信事業者は次なる収益源の確保を目指し、モバイルヘルスへの取り組みを強化している。
スマートデバイス向けのヘルスケア関連アプリは急速に増えており、情報フローの構築やビッグデータ分析、M2M(マシン・ツー・マシン)をはじめ、より効果的なアクションを起こすための周辺技術も高度化が進んでいる。
携帯電話事業者とその関連企業などで構成する業界団体「GSMA」と米プライスウォーターハウスクーパース(PwC)によると、モバイルヘルス市場は2013年から急成長し、2017年に230億ドル(約2兆2600億円)規模に拡大するという(図2)。
医師が患者をリアルタイムで確認
では実際に、どのようなサービスやアプリが提供されているのだろうか。先進国でモバイルヘルス市場をけん引するのは米国だ。自由診療を基本としてきた米国では、保険診療の割合を高めることを目指した「医療保険制度改革(オバマケア)」により、より効率的なヘルスケアの必要性が高まっている。
実例を挙げると、米ベライゾン・ワイヤレスが自社回線を使用した遠隔医療向けM2Mサービスを手掛けている。具体的には、慢性疾患のある患者のモニタリング、医師と患者または医局や同僚を対象としたビデオ通話などがある。妊娠後期の妊婦に対し、母体をモニタリングするサービスも提供する。
例えば難産のために別の医療施設に移った妊婦の健康状態を、かかりつけの産科担当医がスマートデバイス上でほぼリアルタイムに確認。妊婦の心拍数やバイタルサイン(心拍、血圧、呼吸、意識など生命の状態を判断する指標)などを把握することで、迅速かつ適切に処置できるようにしている。
新興国の事例も紹介しよう。英ボーダフォンや南アフリカの通信事業者MTN、米国の複数大学が提携して2008年から展開中の医療ネットワークサービス「Switchboard」がそれだ(図3)。アフリカのガーナやタンザニア、リベリアなどで提供されている。このサービスに登録した医師は、所属する病院の規模にかかわらず、診療アドバイスなどの情報共有を目的とした通話が無料になる。
他の登録医師に対して専門的な内容を質問・相談できるほか、必要な医療情報も定期的に配信される。タンザニアでは、約9000人の医療従事者が同サービスに登録し、マラリア対策において大きな成果を得ているという。
業界標準不在など課題山積
期待が高まるモバイルヘルス市場だが、課題も山積している。まず、急増するモバイルヘルス関連アプリに対し、規制が追い付いていない。国や地域ごとに医療体制や保険制度が異なり、ローカライズが欠かせない。
セキュリティー上の懸念も高まっている。市場の潜在ニーズは高いにもかかわらず、業界標準が不在なため、開発にブレーキがかかっているのが実情だ。さらに、新しいサービスが登場しても財源の見通しが立たず、収益を確保しにくい状況にある。政府開発援助(ODA)を視野に入れた資金確保やエコシステムの確立が急務だろう。
日本では、世界最速のペースで進む少子高齢化を逆手に取り、政府がヘルスケア市場の急拡大を狙った戦略を打ち出している。だが一方で、ICT利活用の観点で見た場合、医療機器に関する規制が厳しく、「治療」「診断」といった医療行為を遠隔で実現するサービスの開発・提供は極めて困難なのが実情だ。日本企業の持つ技術力を生かしたICT戦略で存在感を示すには、医療制度の緩和が喫緊の課題だ。
(情報通信総合研究所 副主任研究員 宮下洋子)
[ITpro 2013年11月28日付の記事を基に再構成]
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