ヒトの性を決定しているSRY遺伝子はY染色体にあって、X 染色体上には存在しない。これら二つの染色体のDNA配列は著しく異なっていることが知られており、ヒト以外の脊椎動物においても、性染色体間の配列はかなり異なっていると考えられていた。ところが、東京大学大学院農学生命科学研究科の菊池潔 助教らの研究により、トラフグのY染色体とX染色体の間に常に認められる差は、たった一つのDNA塩基であることが判明した。
基礎科学への大きな貢献に加えて、本研究からは、産業および文化上の波及効果も期待できる。フグの精巣は、我が国では食材として珍重されてきたが、トラフグの雌雄を外見から判別することは困難であった。本研究の成果は雌雄判別法の確立へと結びつき、食材としての「白子」の安定供給に寄与するだろう。また、フグを殺すことなく雌雄を見分けることが可能となるので、「野生集団の雌雄比」を知ることが容易となり、枯渇が懸念される野生フグの保護や生態把握が促進される。
トラフグの雌雄間で異なるただ一つのDNA塩基 (拡大画像↗)
(左図)トラフグのY染色体とX染色体の配列は、常に一カ所だけ異なっている。このDNA塩基は、抗ミュラー管ホルモンII型受容体遺伝子上にある。(右図)野生のトラフグ。本研究では、野生の魚がもつゲノムの多様性を解析に活用した。
ヒトを含む哺乳類の性決定遺伝子はY染色体上にあるSry遺伝子である。この遺伝子を受け継ぐ個体(XY)はオスとなり、受け継がない個体(XX)はメスとなる。Y染色体とX染色体のDNA配列は著しく異なっていることが知られており、哺乳類以外の脊椎動物においても、両染色体の配列は、その度合に幅はあるもののかなり異なっていると考えられていた(注1)。ところが、東京大学大学院農学生命科学研究科の菊池潔 助教らが、重要水産魚であるトラフグの性染色体を遺伝学的な手法で解析した結果(ちなみにトラフグはゲノム科学のモデルとしても知られている(注2))、これまでの常識に反して、Y染色体とX染色体の差は、「抗ミュラー管ホルモンII型受容体(Amhr2)」(注3)という遺伝子内のたった一個のDNA塩基であることが明らかとなった(注4)。
この一塩基のDNA配列の差はアミノ酸配列の差をつくりだすので、オスはメスが持たない「Y型の抗ミュラー管ホルモンII型受容体」を常に持つことになる。すなわち、この受容体タンパク質のY型とX型の機能差がトラフグの雌雄を決定していると考えられる。興味深いことに、ヒトの場合、このタンパク質に変異を持つ男性は女性の生殖器官の一部も持ってしまうことがある。つまり、ヒトでは疾患をもたらすようなDNA変異が、フグの仲間では性決定遺伝子(変異)の役割をはたしているのである。
近年、脊椎動物の過半数を占める変温動物において、性染色体が頻繁に移り変わる現象が次々と報告されており、これまでのヒトやネズミの事例を規範とした性決定システムの理解が、自然界の動物たちにはかならずしも当てはまらないことが分かってきた。トラフグが持つような性染色体は決して特殊な例ではないかもしれない。
本研究からは、産業および文化上の波及効果も期待できる。フグの精巣は、我が国では食材として珍重されてきたが、トラフグの雌雄を外見から判別することは困難であった。本研究の成果は雌雄判別法の確立へと結びつき、食材としての「白子」の安定供給に寄与するだろう。また、フグを殺すことなく雌雄を見分けることが可能となるので、「野生集団の雌雄比」を知ることが容易となり、枯渇が懸念される野生フグの保護や生態把握が促進される。
東京大学大学院農学生命科学研究科附属水産実験所
助教 菊池 潔
Tel: 053-592-2821
Fax: 053-592-2822
E-mail: [email protected]
注1) ヒトのY染色体はX染色体の1/3程度の長さで、その約95%の配列はY特異的な領域である。YとX染色体は、元々は同じ長さで、その全領域にわたって配列の交換を行う相同染色体に由来すると考えられている。ニホンメダカのY染色体とX染色体は、これまでに知られている脊椎動物の性染色体の中で最も類似性の高い染色体ペアで、Y特異領域は約30万塩基である(Kondo et al., 2006)。一方で本論文の審査中に、ルソンメダカの性決定遺伝子Gsdf1が報告された(Myoshyo et al. 2012)。この性決定遺伝子はフグの性決定遺伝子Amhr2と同様に、XとY染色体の両方に存在し、性決定に関わる対立遺伝子間の差は6−8塩基である。つまり、この種においても、XとY染色体の差は数個の塩基でしかないと考えられる。(Kondo et al., Genome Res 2006.16:815-826. Myosyo et al., Genetics 2012. 191:163-70.)
注2) トラフグのゲノムサイズはヒトの1/8しかないが、フグのゲノムに存在する遺伝子のレパートリーはヒトと似ている。この特徴を利用すれば、少ない手間で、脊椎動物に普遍的なゲノムの性質を調べることが可能である。このような背景からトラフグのゲノム解読計画が進められ、その概要配列がヒトゲノムに次ぐ2002年に公開された。
注3) 抗ミュラー管ホルモンII型受容体(Amhr2)
Amhr2(anti-Müllerian hormone receptor, type II)は、抗ミュラー管ホルモンの受容体のひとつ。ほ乳類のオスでAmhr2の機能が失われると、卵管や子宮の一部が残ってしまう(ミュラー管遺残症)。
注4) XとY染色体間には数百塩基に1塩基の割合でDNA配列の個体差が見られた。今回、約100尾の野生トラフグの性染色体を比較して、雌雄間(XとY染色体間)に常に認められる塩基差と、雌雄とは関係のない塩基差を区別した。