読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会

こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。

昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。

特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大

海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言われている。

しかし、フィリピン戦線における初期の特攻作戦の戦果を聞いた裕仁の反応は「よくやった」という「お褒めの言葉」だった。天皇に褒められた以上、止めるわけにはいかない。結果、特攻作戦は際限なく拡大していくことになる[1]。

 大西は、特攻でもフィリピンは防衛できないとわかっており、「戦争を止めるために特攻を進めた」という意味の証言も残っている。

 「万世一系仁慈を以て統治され給う天皇陛下は、この事を聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろう」と言い、さらに天皇のその意志表示で戦争が終わった場合「いかなる形の講和になろう共、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」(『修羅の翼』)と言っている。

 『修羅の翼』は、フィリピン戦線で特攻に出撃しながら生還した角田和男が小田原俊彦から大西の話を聞き回顧したものだ。

 伝聞証言である。いまとなっては、真偽を確かめるのは不可能だろう。しかしながら、前述の多田や新名の記録、大西自身の遺書などを照らし合わせると、大西が特攻による超物理的効果、「民族的な記憶」に貢献する効果をみていたことは、間違いないだろう。

 では、「特攻によって天皇は終戦に向かって動く」という期待はどうだったか。特攻の犠牲者が増えれば、天皇は終戦に向かって動く。大西は本当に、そんな期待をしていたのだろうか。だとすれば、その期待は叶わなかった。

(略)

 上聞とは、天皇に伝えるということだ。

 実際、天皇はフィリピン戦線での特攻をその直後から知っていた。「昭和天皇実録」によれば、天皇は前述の「敷島隊」の特攻について、その翌日、10月26日に報告を受けている。

(略)

 その点、『神風特別攻撃隊の記録』には、興味深い記述がある。敷島隊が戦果を挙げたあとの10月末、同隊の戦闘経過を聞いた天皇の「お言葉」が届いた。同書によれば、昭和天皇は及川軍令部総長にこう言った。「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」。天皇の「よくやった」という「お褒めの言葉」が、その後の特攻遂行のエネルギーとなったことは想像に難くない。

(略)

 「昭和天皇実録」には、天皇が特攻をどうみていたかをうかがわせる記述がある。

 1944年11月13日、梅津美治郎・参謀総長から戦況についての報告を受けた昭和天皇は「昨日のレイテ湾における陸軍特別攻撃隊万朶隊による戦果等を御嘉賞になる」と述べた。天皇はやはり特攻を「御嘉賞」、ほめ讃えていたのだ。

 『修羅の翼』が伝える大西の期待、特攻によって天皇が停戦に動くという期待は叶わなかった。

 それどころか天皇は喜んだ。となれば一度始まった特攻を中止することは大西といえども不可能であった。「特別攻撃」は通常の作戦となった。特別=異常が常態化したのである。

戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦

戦局が既に絶望的となっていた1945年2月、近衛文麿元首相が天皇に対し、ただちに終戦に踏み切るよう進言した。しかし、負けっぱなしのままで講和しては自分の立場が危うくなると恐れた裕仁はこれを拒否した[2]。

 45年に入って、戦局がますます絶望的な段階をむかえると、近衛は本格的な戦争終結工作に着手する。(略)

 ちょうどこの頃、天皇の周辺でも、なんらかのかたちで局面の転換をはかろうとする動きが具体化し、行きづまった戦局を打開するための方策について、天皇が重臣層から意見を聴取することが決まった。45年2月には、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東条英機、以上七人の重臣がおのおの天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏する。だが、このなかで明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは、やはり近衛だけだった。

 この上奏に際して近衛は、吉田茂と殖田俊吉の協力をえて長文の上奏文をあらかじめ作成し、それを天皇の前で読みあげている。よく知られているように、この上奏文のなかで近衛は、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである。

この拒否の結果は、10万人以上の死者を出した3月10日の東京大空襲をはじめとする、戦略爆撃による全国焦土化であり、また日米軍民合わせて20万人以上、沖縄県民だけでも15万人が犠牲となった沖縄戦である。いつだって、権力者の保身のツケは人民が払わされる。

「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死

沖縄戦が始まり、日本本土への米軍上陸も間近という状況になると、海軍中枢部では、既に無用の長物と化していた大和に華々しい「死に場所」を与えるべきだ(オレは行かないけど)という意見と、そのような無意味かつ不合理な作戦を行うべきではないという意見が対立していた。

この対立状況に対して、軍のメンツを守るためだけの愚策を選ばせる強力な一押しとなったのが、「もう艦はないのか?」という天皇裕仁の「御下問」だった。

その結果、大和をはじめ10隻からなる艦隊が沖縄への「海上特攻」に出撃し、目的地にたどり着くこともできずに、実質わずか2時間程度の戦闘で約4千人が無意味に死んだ[3]。

 敗色濃厚となった1945年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸した。そこで大本営は、現地守備部隊である第32軍に、それまでの持久戦戦略から、積極的攻勢を強く命令した。その中には奪取された飛行場を取り返すことも含まれていた。よって、第32軍は7日に大規模な攻勢に出ることを決定する。

 大本営は、第32軍の攻勢を軸に「特攻」をメインとする、大規模な航空機による支援を決定する。そこで微妙な立場におかれたのが海軍である。神重徳大佐のような参謀たちが中心となり、部内を説得し、海軍も「海上特攻」部隊を派遣することが5日に慌しく決定された。

 このような海軍の動向には、昭和天皇の意向が反映されたといえる。昭和天皇は及川古志郎軍令部総長に対して「海軍にはもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と「御下問」があった。それを重く受け止めた軍令部総長が、指揮下にある聯合艦隊に対して部隊の派遣を求めた。豊田副武聯合艦隊司令長官は、大いに発奮し、その結果、5日に戦艦大和を旗艦として、軽巡洋艦矢矧ほか駆逐艦8隻を合流させて、第2艦隊として出撃させることになる。(略)結果として駆逐艦2隻のみが損害を受けつつ生き残る。

沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月)

戦後の日本支配に天皇制を利用できると踏んだアメリカのおかげで戦犯訴追を免れた裕仁は、戦後一貫して「恩人」アメリカに尻尾を振り続けた。中でもその卑劣さで抜きん出ているのが、国体(天皇制)を守るためにあれほどの犠牲を払った沖縄を自分からアメリカに売った「天皇メッセージ」だろう[4]。

 すでにその年(注:1947年)5月6日、天皇はマッカーサーに三度目の訪問をし、対日講和成立後「アメリカが撤退した場合誰が日本を守ることになるのか」と直接元帥に問い、自ら講和後の日本防衛問題への関心を見せていた。それに関連して9月19日、寺崎は、「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」としてシーボルトを訪ね、次のようなメッセージを与えた。

 「寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。天皇が思うにそうした政策は、日本国民が、ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が台頭しロシアが“事件”を惹起し、それを口実に日本内政に干渉してくる事態をも恐れているがゆえに、国民の広範な承認をかちうることができるだろう。

 天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存リテインドさせた形で、長期ロング・タームの――25年から50年ないしそれ以上の――貸与リースをするという擬制フィクションの上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう」。

「日本国民統合の象徴」である天皇が、自国領土の一部を、その上に住んでいる「国民」も込みで、ずっと軍事占領し続けてくださいと自分からお願いしてきたのである。しかも、どうすれば軍事占領という実態を自国民および国際社会から隠せるかというアイデアまで付けて。

アメリカから見れば、これほど都合のいい提案はないだろう。その結果が30年近くにわたる軍政と、一歩間違えば沖縄を地球上から消し去っていたかもしれない核戦力の集中配備、そして「返還」後も広大な土地を占拠し続け、被害を与え続けている米軍基地である。

戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月)

1975年、裕仁は国賓として初めてアメリカを訪問し、ディズニーランドでミッキーマウスと一緒に歩き回ったり、動物園でコアラを眺めたりして、「平和主義者で無害な老君主」という(虚偽の)イメージを振りまいた。この旅の疲れで気がゆるんでいたのか、帰国後の記者会見で思わず本音が出てしまったのがこれである[5]。

 帰国後、天皇はテレビカメラも入った記者会見を受けた(10月31日)。そのとき一記者がすかさず、外国記者団やフォードに語ったことを踏まえた「適切でない」、わずらわしい質問をした。「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」と。

 天皇は顔をこわばらせて、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答え、また広島への原爆投下について聞かれ、「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と述べた。(略)

要するに、あの戦争に関して自分に責任があるなどとはつゆほども考えていないのだ。トップがこれでは下も責任など感じるはずがない。戦犯裁判で裁かれた者たちも「運が悪かっただけ」ということになる。裕仁こそがまさに無責任国家日本の生みの親と言えるだろう。

以上、時系列にそって並べてきたのだが、悪い順に並べようにも、いずれもクソすぎて順位がつけがたいというのが正直なところだ。

[1] 栗原俊雄 『特攻――戦争と日本人』 中公新書 2015年 P.84-87
[2] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 P.21-22
[3] 佐藤宏治 『「男たちの大和」をめぐって――歴史学の視座から』 戦争責任研究 2007年夏号 P.76
[4] 進藤栄一 『分割された領土』 岩波書店 2002年 P.65-66
[5] ハーバート・ビックス 『昭和天皇(下)』 講談社学術文庫 2005年 P.388-389

【関連記事】

 

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

 
昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

昭和天皇の終戦史 (岩波新書)