「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」
逃げ方、避け方、守り方 (id:reponさん)
いじめに耐える必要なんか無い。
学校なんか行かなくていい。
嫌な集団に取り入る必要はない。
そんな集団に属さなくても、その子が生きられる集団はいくらでもある。
それが、今のその子には見えていないだけなんだ。
http://d.hatena.ne.jp/repon/20080407#p1
逃げ上手は生き上手 (小飼弾さん)
まずは逃げろ。追っ手の手の届かぬところまで。
そして自分を変えろ。強くたくましく。
順番を違えてはならない。つらい現実にいても、それに耐えているだけで自分を変える余裕はなくなる。そうしているうちに、逃げる余力さえなくなってしまう。
かっこ悪くてもいい。卑怯者でもいい。
まずは、逃げろ。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51031057.html
けれども問題は、逃げた先に何があるのかということだ。朝倉景樹の『登校拒否のエスノグラフィー』でも紹介されている干刈あがたの『黄色い髪 (朝日文庫)』を思いだそう。
夏実は、一度学校をサボったことぐらい何でもないような気がしてきた。明日また、いつものとおりに登校すればいいんだ。ケンケンケンケン。遊びすぎてちょっと遅くなった子どもの気分で家の路地に入っていった。
裏口のドアを開けると、食卓のむこうに、母親の史子が待ちかまえるように坐っていた。顔は緊張し切っている。それを見た途端に夏実は、教室を、学校を、先生を、同級生を、あの息苦しさを思い出した。
ここにも居たくない!
(中略)
問題1 学校へ行かなくなると、どうして家にもいられなくなるのでしょう。
問題2 私は今、どこへ行けばいいのでしょうか。
数時間前、陸橋の上でユキコに会う前に考えていた問題が、またよみがえってきた。それは欠席しているあいだ、ずっと考えていたことだ。
問題1について答えます。学校と家が、なぜか同じ場所になっているからです。生きていくことイコール学校にいくこと、という場所です。だから、学校へ行かないことイコール死になってしまうのです。
……問題2 私は今、どこへ行けばいいのでしょうか。つぎのうちから一つ選べ。
1 家に帰って学校に行く。
2 家に帰らないで死ぬ。*1
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この作品が朝日新聞に連載されていたのは約20年前である。その後、登校拒否児や親の運動と財界主導のネオリベ改革によって、教育状況は大きく変化している。
けれども変わらないことがある。「外部」はないということだ。我々は、学校に行こうが会社に行こうが自宅にひきこもろうがデニーズでまったりしようが、同じ一つの全体の中に生きている。
ダンコーガイさんは、「逃げ場を提供できる組織は、強い」と書く。だが、そのような「逃げ場」も含めて単一のシステムが構成されているのだ。ダンさんが登校拒否をした時代はまだそのような「逃げ場」は公式には用意されていなかった。ダンさんは、イバラの道を歩いた。あるいはダンさんが歩いたあとに道ができたのかもしれない。だが今や、様々な「逃げ場」が用意されている。学校や学校でない多種多様なものたちが、我々の個別のニーズにフレキシブルに対応してくれる。強制の時代は終わり、選択の自由が保証されるようになったのか? ジジェクいわく、
日曜の午後、(子どもが)祖母を訪ねなければならないとしよう。古き良き全体主義的な父は言うだろう。
聞きなさい。お前がどう思おうが知ったことではない。お前は行って行儀良くしていなければならないのだ。
これならば良い。抵抗することもできるし、何も損なわれはしない。
しかし、いわゆる寛容でポストモダン的な父だとしたら、彼が言うのは次のようなことだ。
お婆ちゃんがどれだけ君のことを愛しているかということはわかっているね。けれども、お婆ちゃんのところに行くべきなのは、君が本当にそうしたい場合だけなんだよ。
さて、バカではない子どもは(そうだ彼らはバカではない)、この自由選択の外観は、はるかに強力な命令を隠匿しているということを知っている。つまり、祖母のもとに行かなければならないだけではなく、そうすることを好まなければならないということだ。
[01:40くらい以降]
「逃げろ」。だが誰がどんな立場で「逃げろ」と言うのだろうか?
どこか遠く離れた惑星の宇宙人と交信しているのであれば客観的なアドバイスもありうるだろう。だが我々は「観客席」にいるのではない。もう一度繰り返す。我々は一つの全体の中に関係し合いながら生きている。「観客席」はない。「ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ」。
サヨクは、責任という概念を取り戻さなくてはならない。我々は、個人的なライフスタイルの選択に「自己責任」を負っているのではない。私は全体について責任を負っているのだ。そして僕が学校に行くとしたら、僕は学校化社会をまた一歩前進させたのだ。そして僕が学校の支配に対して行動を起こさないとすれば、「夏実」を死に向けて追いやろうとしているのだ。それを夏実の「自己責任」とするならば、それは僕の全体への責任からの逃避である(サルトル『実存主義とは何か』参照)。
反逆する意志は実際に、支配に服従する能力を全く持たない身体を必要とする。それは家族生活や工場の規律、旧来の性生活の規制などに順応する能力を持たない身体を必要とする(もし君の身体がこうした「ノーマルな」生の様式を拒むのであれば、絶望するなーー天賦の才に気づき給え!)。*2
そしてまた彼らは、『マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)』の中でドゥルーズの次の言葉を引用している。
逃げよ。だが逃げながら武器をつかめ。
そうだ。逃げることだ。だが逃走は闘争である。
ダンさんはできることは三つしかないと説く。
- 現実を変える
- 自分を変える
- 逃げる
しかしこれはニセの選択である。逃げるとは、現実を変えることであり、そのために自分は武器を取らなければならないからだ。「外」はない。もし抑圧から完全に逃れることに成功することがあったとしたら、そのときには「全体」が変革されるのだ。逃げることは、常に「全体」での闘いである。
十数年前、いわゆる「いじめ自殺」事件が頻発したとき、我々は「学校に行かない生き方もあるじゃないか」と主張した。だが今や、その対抗思想が支配イデオロギーとなっている。↓の朝日新聞のサイトでも、有名人のそのようなメッセージを読むことができる。
いじめられている君へ いじめている君へ
だが、「いじめられている君」はこんなアドバイスを必要としているのだろうか? ありがたい知恵を授けてもらう必要があるのだろうか? 彼らが「合理的」な選択を行えるようにするための啓発が必要なのだろうか?
『マグダレンの祈り』は、20世紀(そう、つい最近です)のアイルランドを舞台にした映画だ。アイルランドには、レイプの被害を受けた女性や社会的に逸脱者と判断された女性を監禁する「修道」施設があり、彼女たちは実質的な奴隷労働を強いられていた。脱走を試みる者には壮絶な拷問が課せられた。映画の半ばに、修道女が院内で使いを命じられて、裏門の前を通りがかるシーンがある。彼女は、門に施錠がなされていないことに気付く。おそるおそる外をうかがうと、車が通りがかる。運転手は「乗っていくか」と問いかけるが、彼女はためらったあと断り、施設内に戻る。
いったい誰が、彼女に「逃げろ」と言うことができるだろうか? ダンさんの言うように「最も難しいのは、現実を変えること。次に難しいのは、自分を変えること。そして最も簡単なのは、逃げること」なんてことがあるだろうか? 修道院があり、そしてその「外部」があるという発想は間違いだ。全体があり、修道院はその一単位なのだ。逃走はその全体との闘争である(『大脱走 [DVD]』の後半や『バトル・ロワイアル [DVD]』のラストを思いだそう)。そしてそのような全体に安住していながら「いじめられている君」に「逃げろ」と呼びかけて「当事者」の自己選択を促すとしたら、それは全体への責任からの逃走である。
「いじめられている君」は、私と同じ全体に属している。問題は、彼らにありがたい知恵を授けることではない。これは私の問題だ。私がいかに全体と関わるかということだ。私が学校制度を破壊するために何をするのかということだ。
というわけで↓をどうぞ。
*1:干刈あがた『黄色い髪 (朝日文庫)』, p153, p.203
*2:Michael Hardt and Antonio Negri, Empire, paperback edition, p. 216.