<地方議会の活性化>多様な人々との交わり(意見交換)には、広い場所が必要となる。
2025年03月28日



<地方議会の活性化>多様な人々との交わり(意見交換)には、広い場所が必要となる。
第9回全国自治体議会改革推進シンポジウムのテーマは、
「議会改革の推進と女性や若者等多様な人材の活躍」
でした。これを読み変えると広く門戸を開くことにも読めます。地方議会は、"成り手不足"が問題視されていますが、果たしてそうだろうか?、と言う新たな提言の話しです。
大山礼子名誉教授によると、
「今の地方議会議員を支持する団体や地域からは、もう新たな人材は生まれにくい。これまでのように地域代表の発想で、定員を少なくすることより、多様な人材(女性、若者、移住者、等)が参画しやすいように、逆に門戸を広くすべき」
との話がありました。市民の視点(意見)の多くが、無投票だから定員を少なくするになっているが、そうではなくて、もっと多様な意見を議会に反映させるために、子育て中の女性や学生も参画できる環境づくりが必要との意見です。
無投票→定員削減、
無投票→定員削減
では、人材が減るばかり、地方議会は、高齢化が進んでいて、議会の改革、活性化にはつながらない。むしろハードルを低くして、これまでに参加してない多様な方が加わることで、地方議会が活性化する。


この意見を聞いた後のシンポジウムに登壇したのは、

富山県議会議員(女性、自民党)
・成り手不足対策の取り組み
岩手県議会議員(女性、無所属)
・妊娠、出産、子育ての議会内の取り組み
登別市議会議長(男性、移住者)
・多様な人材の活用活躍
四日市市議会議員(男性、サラリーマン)
・会社員をしながら議員活動
三重県議会議長(男性、NPO活動家)
・開かれ議会を目指し公聴会、高校出前講座
地方議会に、いま求められるている課題は、人口減少していく地域社会に居る人から、きらりと光る人材が出て来れる(出やすい)仕組みづくりが必要なのか、と学んだ気がします。



全国自治体議会改革推進シンポジウムには、全国30県から250人を超える議員が参加していました。帰りの新幹線で、水俣市議会議長ともお会いしました。どこも、模索をし始めていると思います。来年のシンポジウムにも、ぜひ参加したいと考えています。
ちなみに、シンポジウムは、参加無料なので、経済界、一般市民も多く参加されていました。さすが三重県議会です。
宇土市で女性のリーダー育成が令和7年度から始まります。
2025年03月26日
<宇土市で女性のリーダー育成が始まります>北海道の地方議員有志で開催する「地方議員養成じもと講座」や、三重県議会の「みえ県議会出前講座」と「みえ高校生県議会」のような、将来のリーダー研修が全国各地で、数は少ないですが、取り組みを始まっています。
最近の市民活動が低迷し、婦人会活動、PTA活動への参加者も減っています。昔から言われる"人は居るけど、人は居ない"は、リーダー不在を嘆く言葉です。
・女性リーダー育成事業(令和7年度〜)
実は、宇土市では、令和7年度から、女性リーダー研修を1年間を通じて開催することが始まります。将来、地域で活動する団体の運営や、さらに議員とかにチャレンジできる知識を深め、多様な分野で活躍する女性の話を聞くような事業が始まります。
"なぜ男性が男女共同参画社会づくりか?"
私は、市議になる前から関わる熊本県が主催してきた女性リーダー育成のための研修「地域リーダー国内研修」の受講生(私は平成13年受講)のつながりが「熊本県つばさの会」に参加していて、昨年から副会長(宇城支部長)を務めています。
そんなこともあり、女性リーダー育成の必要性を議会で訴えてきました。やっと15年目になり、女性リーダー育成が実施されます。宇土市内の女性で関心のある方は、年齢問わずにぜひ参加して学んでほしいです。
最近の市民活動が低迷し、婦人会活動、PTA活動への参加者も減っています。昔から言われる"人は居るけど、人は居ない"は、リーダー不在を嘆く言葉です。
・女性リーダー育成事業(令和7年度〜)
実は、宇土市では、令和7年度から、女性リーダー研修を1年間を通じて開催することが始まります。将来、地域で活動する団体の運営や、さらに議員とかにチャレンジできる知識を深め、多様な分野で活躍する女性の話を聞くような事業が始まります。
"なぜ男性が男女共同参画社会づくりか?"
私は、市議になる前から関わる熊本県が主催してきた女性リーダー育成のための研修「地域リーダー国内研修」の受講生(私は平成13年受講)のつながりが「熊本県つばさの会」に参加していて、昨年から副会長(宇城支部長)を務めています。
そんなこともあり、女性リーダー育成の必要性を議会で訴えてきました。やっと15年目になり、女性リーダー育成が実施されます。宇土市内の女性で関心のある方は、年齢問わずにぜひ参加して学んでほしいです。
5月6日は、宇土市のサッカーのスーパースター、鹿島アントラーズの植田直通選手の応援ツアーに参加します。
2025年03月24日
今年のゴールデンウィークの最終日(5月6日)は、宇土市のサッカーのスーパースター、鹿島アントラーズの植田直通選手の応援ツアーに参加します。実は、ヨーロッパのクラブに移る前の鳥栖での応援ツアー以来なので、とても楽しみです。もし、関心のある方は、JA宇城の旅行センターへ問い合わせください。
宇土市は、相撲で盛り上がっていますが、サッカー選手も全国、世界で活躍する選手たちがたくさん居ますので、応援よろしくお願いいたします。
我が家は、植田直通選手が大津高校時代から応援ファミリーなので、もちろん行きます。

宇土市は、相撲で盛り上がっていますが、サッカー選手も全国、世界で活躍する選手たちがたくさん居ますので、応援よろしくお願いいたします。
我が家は、植田直通選手が大津高校時代から応援ファミリーなので、もちろん行きます。

<遊び上手>飽かないから遊びなのであって、飽くのは単なるヒマ(暇)つぶしである。〜田辺聖子著『ダンスと空想』〜
2025年03月23日
<遊び上手>飽かないから遊びなのであって、飽くのは単なるヒマ(暇)つぶしである。〜田辺聖子著『ダンスと空想』〜
数日前から、春の草刈りを始めた。昨年に、父の使用済みの仮払い機の丸型の刃を加工しては使ってきたが、ついにヒビが入った。1日半ほど、"このヒビの入った刃を使うには?"と思案して、昨日加工した形が、写真のような変形手裏剣型に変わった。ここ4年で初めての形です。
刃は、両面使いにするようにしていて、
草刈り用は、切り込みが大きく。
小さな竹も切るのは、切り込みが短く。
この使用済みの仮払い機の丸型の刃の加工は、私のある意味"遊び"の部類に入っています。
市販の丸型の刃は、安いのは700円ほどから、高くなると3000円近くするものもある。
田畑の草は、一年中続く作業。中山間地の我が家の草刈り作業では、困るのが草陰に石や岩がたくさん在り、下手な私の草刈り作業では、よくぶつけて市販の丸型の刃先を飛ばして、すぐに切れなくなってしまっていました。年に、4〜6枚も羽先が無くなり使えないことありました。
そこで始めたのが、使用済みの刃の加工です。試行錯誤、これが面白いのです。
丸型の刃も、いろいろなデザインがある。軽量化するのに、小さな穴がたくさんあるもの、大きく三日月型に穴を開けたもの。父が使用して羽先の無くなったものを加工する。
今朝の読書で読んだ作家の田辺聖子さんの"遊びは飽きない"から、昨日の加工作業を思い出し、この言葉に賛同した!
以下が、その文です。
(以下、田辺聖子著『苦味を少々』より)
「私は遊び下手ですなあ、飽かんように遊べたら、ええのやけど」
私にいわせれば、飽かないから遊びなのであって、飽くのは、単なるヒマつぶしである。
〜『ダンスと空想』〜
(以上、本より転載)
>飽くのは、単なるヒマつぶしである。
私は、友人たちがよくやっている魚釣り等には、ほとんど興味が湧かないが、ものづくり、建築模型、さらに実際の建築設計から建設に至る行程は、何度やっても飽きることがない。たぶん、同じものが無いからだろうと思っています。
仕事が趣味という人がいます。たぶん、その仕事は、日々同じことがなく、変化や新たな工夫が必要だから面白い、だから飽きることがない。
遊びも同じで、プラモデルような既存の製品ではなく、実際に屋根に庇を取り付ける作業が飽かないのは、工夫が必要だからだと思います。だから続けることができる。
建築の仕事は、私にとっては遊びの工夫に似たような感覚を持っています。
これからの後半生を、遊びの感覚を持って生きていけたらいいなぁ、と田辺聖子さんの文を読み朝から考えました。
>遊び上手
これからの人生のテーマかもしれません。

加工前

加工後
数日前から、春の草刈りを始めた。昨年に、父の使用済みの仮払い機の丸型の刃を加工しては使ってきたが、ついにヒビが入った。1日半ほど、"このヒビの入った刃を使うには?"と思案して、昨日加工した形が、写真のような変形手裏剣型に変わった。ここ4年で初めての形です。
刃は、両面使いにするようにしていて、
草刈り用は、切り込みが大きく。
小さな竹も切るのは、切り込みが短く。
この使用済みの仮払い機の丸型の刃の加工は、私のある意味"遊び"の部類に入っています。
市販の丸型の刃は、安いのは700円ほどから、高くなると3000円近くするものもある。
田畑の草は、一年中続く作業。中山間地の我が家の草刈り作業では、困るのが草陰に石や岩がたくさん在り、下手な私の草刈り作業では、よくぶつけて市販の丸型の刃先を飛ばして、すぐに切れなくなってしまっていました。年に、4〜6枚も羽先が無くなり使えないことありました。
そこで始めたのが、使用済みの刃の加工です。試行錯誤、これが面白いのです。
丸型の刃も、いろいろなデザインがある。軽量化するのに、小さな穴がたくさんあるもの、大きく三日月型に穴を開けたもの。父が使用して羽先の無くなったものを加工する。
今朝の読書で読んだ作家の田辺聖子さんの"遊びは飽きない"から、昨日の加工作業を思い出し、この言葉に賛同した!
以下が、その文です。
(以下、田辺聖子著『苦味を少々』より)
「私は遊び下手ですなあ、飽かんように遊べたら、ええのやけど」
私にいわせれば、飽かないから遊びなのであって、飽くのは、単なるヒマつぶしである。
〜『ダンスと空想』〜
(以上、本より転載)
>飽くのは、単なるヒマつぶしである。
私は、友人たちがよくやっている魚釣り等には、ほとんど興味が湧かないが、ものづくり、建築模型、さらに実際の建築設計から建設に至る行程は、何度やっても飽きることがない。たぶん、同じものが無いからだろうと思っています。
仕事が趣味という人がいます。たぶん、その仕事は、日々同じことがなく、変化や新たな工夫が必要だから面白い、だから飽きることがない。
遊びも同じで、プラモデルような既存の製品ではなく、実際に屋根に庇を取り付ける作業が飽かないのは、工夫が必要だからだと思います。だから続けることができる。
建築の仕事は、私にとっては遊びの工夫に似たような感覚を持っています。
これからの後半生を、遊びの感覚を持って生きていけたらいいなぁ、と田辺聖子さんの文を読み朝から考えました。
>遊び上手
これからの人生のテーマかもしれません。

加工前

加工後
東日本大震災から14年、その被害のすごさを改めて確認します。
2025年03月11日

東日本大震災から14年、その被害のすごさを改めて確認します。
先月に訪れた、日本都市センター会館内に在る「防災専門図書館」には、日本の歴史上に起こった大災害、特に地震にまつわる被害が詳しく整理展示してありました。
東日本大震災を起こしたマグニチュード9.0のプレート型巨大地震は、大きな津波が何度も海岸を襲いました。あれから14年、改めて地震の怖さと、備え、避難を考える1日にしなければと思います。
本日は、議会の総務市民常任委員会が開催されます。特に防災を担当する部署が含まれる委員会なので、国の目指す防災のあり方が変わってくる中、将来を見据えた議論ができると良いなと考えています。
最後に、東日本大震災、中越地震、北海道地震、熊本地震、能登半島地震等、自然災害によりお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。




文明社会には、青年には青年の、老人には老人の、貢献するべき余地がある。〜渋澤栄一〜
2025年03月07日
<老いてますます学問を>文明社会には、青年には青年の、老人には老人の、貢献するべき余地がある。〜渋澤栄一〜
(昨日の出来事からコメントしました)
文明開花の明治が始まって160年、馬車から汽車さらに自動車から飛行機の時代になって、ますます世界が狭くなったように、科学や技術の発展により、人間の邪魔やは延び、ますます人生は長くなっています。
それこそ、幕末維新で活躍した熊本の政治思想家の横井小楠が暗殺されたのは61才、坂本龍馬は32才でした。私は、龍馬の歳の倍、小楠の歳も越えてしまいました。
人生は短いとは言いますが、戦前からすると、長生きになっています。
渋澤栄一は、以下のように書いています。
>そんな中で、30歳までが勉強の時間であるならば、少なくとも70歳ぐらいまでは働かないと、もったいないではありませんか?
>もし50や55で老いて衰えてしまえば、20年、25年しか働いていないことになります。
>それだけの期間で、何を成し遂げられるでしょう。そして、何かを成すには、学び続けるしかないのです。
(以上、『渋澤栄一100の訓言』より)
男女を問わず、大学進学が当たり前になりました。しかし、日本の大学は、難関大学がいくつも存在しているように、入るは難し、出るは優しの狭き門がいまだにあります。
昨日の防犯パトロール中に、高校無償化の話から、北欧の大学の学費無料の話になった。現役教師から、
「大学は、出るのを難しくしないから、人材が育たない」
と話していました。確かにそうかとは思いますが、社会人でも最初は学ばないと、仕事はできません。
共同通信の論説委員長で、久米宏さんのニュースステーションにも出られた政治評論家の故内田健三氏が80歳を前にして語られた、
「身体は老いるが、精神は成長する。まだまだ勉強です」
を忘れられません。当時私は40代前半でした。
内田健三氏が語られたことと同じ内容が、本日読んだページにありました。
(以下、『渋澤栄一100の訓言』より転載)
しかして文明の老人たるには、
身体はたとい衰弱するとしても、
精神が衰弱せぬようにしたい、
精神を衰弱せぬようにするには学問によるほかない。
(以上、【『論語と算盤』立志と学問】より)
内田健三氏は、東京大学在学中に、学徒動員で戦地に向かい戦った後、戦後すぐは肺病(結核)を患い床に伏された。病気を乗り越えて大学に復帰されたのは6年後だったと聞きました。なので、30歳まで大学で学ばれました。
>文明社会には、青年には青年の、老人には老人の、貢献するべき余地がある。
老いても益々学ぶ意欲を持たなければ、と朝から考えました。
私の40代前半ころの、昼は社会活動に参加して、夜に設計の仕事をした体力は流石に今はなくなりましたが、学ぶ意欲がなくならないようしなければと思います。
話が長くなりました。明日からの宇土半島一周ウォークの準備を、午後からやります。さて、完歩できるか、足を状態を労わりつつ頑張ります。
(昨日の出来事からコメントしました)
文明開花の明治が始まって160年、馬車から汽車さらに自動車から飛行機の時代になって、ますます世界が狭くなったように、科学や技術の発展により、人間の邪魔やは延び、ますます人生は長くなっています。
それこそ、幕末維新で活躍した熊本の政治思想家の横井小楠が暗殺されたのは61才、坂本龍馬は32才でした。私は、龍馬の歳の倍、小楠の歳も越えてしまいました。
人生は短いとは言いますが、戦前からすると、長生きになっています。
渋澤栄一は、以下のように書いています。
>そんな中で、30歳までが勉強の時間であるならば、少なくとも70歳ぐらいまでは働かないと、もったいないではありませんか?
>もし50や55で老いて衰えてしまえば、20年、25年しか働いていないことになります。
>それだけの期間で、何を成し遂げられるでしょう。そして、何かを成すには、学び続けるしかないのです。
(以上、『渋澤栄一100の訓言』より)
男女を問わず、大学進学が当たり前になりました。しかし、日本の大学は、難関大学がいくつも存在しているように、入るは難し、出るは優しの狭き門がいまだにあります。
昨日の防犯パトロール中に、高校無償化の話から、北欧の大学の学費無料の話になった。現役教師から、
「大学は、出るのを難しくしないから、人材が育たない」
と話していました。確かにそうかとは思いますが、社会人でも最初は学ばないと、仕事はできません。
共同通信の論説委員長で、久米宏さんのニュースステーションにも出られた政治評論家の故内田健三氏が80歳を前にして語られた、
「身体は老いるが、精神は成長する。まだまだ勉強です」
を忘れられません。当時私は40代前半でした。
内田健三氏が語られたことと同じ内容が、本日読んだページにありました。
(以下、『渋澤栄一100の訓言』より転載)
しかして文明の老人たるには、
身体はたとい衰弱するとしても、
精神が衰弱せぬようにしたい、
精神を衰弱せぬようにするには学問によるほかない。
(以上、【『論語と算盤』立志と学問】より)
内田健三氏は、東京大学在学中に、学徒動員で戦地に向かい戦った後、戦後すぐは肺病(結核)を患い床に伏された。病気を乗り越えて大学に復帰されたのは6年後だったと聞きました。なので、30歳まで大学で学ばれました。
>文明社会には、青年には青年の、老人には老人の、貢献するべき余地がある。
老いても益々学ぶ意欲を持たなければ、と朝から考えました。
私の40代前半ころの、昼は社会活動に参加して、夜に設計の仕事をした体力は流石に今はなくなりましたが、学ぶ意欲がなくならないようしなければと思います。
話が長くなりました。明日からの宇土半島一周ウォークの準備を、午後からやります。さて、完歩できるか、足を状態を労わりつつ頑張ります。
<消費税3%→5%直前の激務>乗り越えれない試練を天は与えない。
2025年01月27日
<消費税3%→5%直前の激務>乗り越えれない試練を天は与えない。患難、変故、屈辱、讒謗、払逆に挑むなり。〜『言志四緑』〜
長い人生には、いろいろな試練が起こる。
患難:疲労困憊する苦労
変故:変わった出来事
屈辱:耐え難い扱い
讒謗(ざんぼう):そしられる
払逆:思うようにならぬ
すべて天が人を成熟(成長)させるための手段であって、一つとして人間を磨き上げるために役立たないものはない。
したがって、こうした出来事に出遭ったならば、いかに対処しようかと考えるべきで、むやみに逃れようとしてはいけない。
(以上、『佐藤一斎一日一言』より)
28年前、私は2つの病院の改修工事の計画をやっていました。時は、消費税が3%→5%にアップする一年前でした。もし完成がアップする翌年4月より遅れても、前年の9月末日までに着工(工事契約)していれば、課税を免れる緩和措置があった。
その年の夏は、日々睡眠不足の状況になるほど忙しい中で仕事をしていました。一つの病院改修の確認申請許可を8月末までの終えれないと工事着工が間に合わない、ほんとに必死でやっていました。
そんな時に起こるのが、熊本工業高校野球部が甲子園決勝戦に進み、県下全部が応援体制に、土木事務所に書類を持ち込むと、全員テレビ観戦中。
担当者曰く「明日下ろすから、今日は一緒に応援観戦しよう」でした。「明日、必ず確認が許可されるのなら、今日は帰ります」と帰り、事務所で次の病院の改修工事の設計作業でした。
翌日は、本当に1日で確認申請を下ろしてくれて、消防署へ書類を持ち込むことができました。土木事務所から消防署まで車で40分なのですが、睡眠不足で途中仮眠をしないと運転できないくらいに疲労が溜まっていました。よくやり終えたなぁ、と振り返ります。
正に、天は乗り越えれない苦難は与えない経験でした。
この改修工事は、工事中にも色んな出来事が重なり、さらに苦労するのですが、工事も完了することができました。
実際の学問とは、艱難辛苦の中から学ぶことだと、訓示を読み当時のことを思い起こしました。
その後、消費税は5%→8%へ、さらに8%→10%に変わりました。その時は、私が経験したような建築業界の騒ぎは起こらなかった。人間、慣れとは怖いですね。
現代政治の全年代の福祉向上策、子ども医療費や学費の無償化が広がっていけば、さらなる消費税アップもあるのだろうな、と予想します。
私は、消費税3%→5%直前の激務を経験したので、その後、同業種交流、異業種交流から、一人で全部をやるスタイルから、若い世代との連携・分担するネットワークを構築し、激務が発生しても乗り越える体制が出来上がりました。現在の建築事務所と市議会議員の二足の草鞋も可能になっています。
長い人生には、いろいろな試練が起こる。
患難:疲労困憊する苦労
変故:変わった出来事
屈辱:耐え難い扱い
讒謗(ざんぼう):そしられる
払逆:思うようにならぬ
すべて天が人を成熟(成長)させるための手段であって、一つとして人間を磨き上げるために役立たないものはない。
したがって、こうした出来事に出遭ったならば、いかに対処しようかと考えるべきで、むやみに逃れようとしてはいけない。
(以上、『佐藤一斎一日一言』より)
28年前、私は2つの病院の改修工事の計画をやっていました。時は、消費税が3%→5%にアップする一年前でした。もし完成がアップする翌年4月より遅れても、前年の9月末日までに着工(工事契約)していれば、課税を免れる緩和措置があった。
その年の夏は、日々睡眠不足の状況になるほど忙しい中で仕事をしていました。一つの病院改修の確認申請許可を8月末までの終えれないと工事着工が間に合わない、ほんとに必死でやっていました。
そんな時に起こるのが、熊本工業高校野球部が甲子園決勝戦に進み、県下全部が応援体制に、土木事務所に書類を持ち込むと、全員テレビ観戦中。
担当者曰く「明日下ろすから、今日は一緒に応援観戦しよう」でした。「明日、必ず確認が許可されるのなら、今日は帰ります」と帰り、事務所で次の病院の改修工事の設計作業でした。
翌日は、本当に1日で確認申請を下ろしてくれて、消防署へ書類を持ち込むことができました。土木事務所から消防署まで車で40分なのですが、睡眠不足で途中仮眠をしないと運転できないくらいに疲労が溜まっていました。よくやり終えたなぁ、と振り返ります。
正に、天は乗り越えれない苦難は与えない経験でした。
この改修工事は、工事中にも色んな出来事が重なり、さらに苦労するのですが、工事も完了することができました。
実際の学問とは、艱難辛苦の中から学ぶことだと、訓示を読み当時のことを思い起こしました。
その後、消費税は5%→8%へ、さらに8%→10%に変わりました。その時は、私が経験したような建築業界の騒ぎは起こらなかった。人間、慣れとは怖いですね。
現代政治の全年代の福祉向上策、子ども医療費や学費の無償化が広がっていけば、さらなる消費税アップもあるのだろうな、と予想します。
私は、消費税3%→5%直前の激務を経験したので、その後、同業種交流、異業種交流から、一人で全部をやるスタイルから、若い世代との連携・分担するネットワークを構築し、激務が発生しても乗り越える体制が出来上がりました。現在の建築事務所と市議会議員の二足の草鞋も可能になっています。
<豊かさの条件>いつの時代にも人間社会は共同体的な部分を残さなければ、社会基盤の安定を欠く。
2025年01月06日


<豊かさの条件>いつの時代にも人間社会は共同体的な部分を残さなければ、社会基盤の安定を欠く。また個人が共同体の中に埋没してしまうと、社会の活力を失う。〜暉峻淑子著『豊かさの条件』〜
年始から矛盾する提言の言葉を紹介します。
(長い論文?です。お時間ある時にお読みください。)
本日は、私が住む集落で毎年に新年に開催される住民会議「初寄り合い」に、市議会議員として、新年の挨拶をして回る大切な日でした。4ヶ所の自治区の寄り合いの会場に出向き、活動報告と今年の方針をお話しさせていただきました。終わって15時過ぎ帰宅して、未明のウォーキングもあり、疲れて少し仮眠を取りました。この正月行事も今年で15年目、なかなか緊張する一日です。
さて冒頭の言葉からも、田舎の集落運営と個人生活の充実を、本日の挨拶回りと寄り合いでのみなさんの意見を拝聴して、いつも感じるのですが、いにしえ(古)の時代から営々と続けられてきたのだろうと、本日も振り返りました。
集落運営は、共同体の活動。
日々の暮らしを作る活動は、個人の生活。
娘が年末年始に帰郷していて、本日の寄り合いを回る活動を見て、話をする中で感じたのが、地域を支えるには古くから共同体活動で支えられていることを、都市生活をする若者たちは知らない人が多いように感じました。
例を上げると、昨年の地域課題一つ、防犯対策の要望で、
・街灯の増設
・防犯カメラの設置
がありました。地方は、人口減少から人口密度が減り、広い地域の安心安全の対策が不充分になっています。
しかしその対策で、街灯の設置には、市(国・県)の補助金があっても、日常の電気代は地域(自治区)で負担することになります。
このことを、どれだけの住民が知っているのか?と思います。
過疎地ほど、住民が共同体(集落運営)に拠出する費用(個人負担)が膨らむ現状があります。
私は若い頃、日本政府は人を都市に集めのは、地方に交付する税金を減らすためにやっているのでは、と思ったことがありますした。そんなことから、
冒頭の言葉を紹介した意味は、以下のエピソードからです。
社会学者の暉峻淑子(てるおか いつこ)著『豊かの条件』の最後の方に、
19世紀のロシアの政治思想家・クロポトキン(注1)著『相互扶助論』の序論で、ある逸話(エピソード)が紹介されていました。
(以下、『豊かの条件』より)
1827年のある日、ゲーテを秘書のエッカーマンがたずねて、彼が直接に経験したある助け合いの実例を話したところ、ゲーテはその話に感激して「もし縁もゆかりもない他人をこうして養うということが、自然のどこにでも行われていて、その一般的法則だということにならば、今まで解くことのできなかった多くの謎はたちどころに解けてしまう」と言い、翌日もそのことを話題にして、その問題についての特別な研究をエッカーマンに熱心にすすめた、というのである。
クロポトキンは、労働者達の住む長屋のいたるところで、もし産婦がお産をすれば近所の女達が手伝いにきて、生まれた子どもの世話や産婦が起きられるようになるまでの家事や、そのために入用なものを持ち寄って助け合っている事実を知っていた。親が死んだあとの孤児をだれかが必ずひきとって育てていることも、そしてそれがごくつうのことで、珍しいことでもなんでもないことを知っていた。
(以上、本より)
引用文が、長くなりましたが、日本もかつては"村社会"である共同体の暮らしが、長く続いていました。
明治からの産業革命、戦争の時代、戦後の高度経済成長、バブル経済時代、デフレの失われた日本、そして令和の時代になりました。
本日の古(いにしえ)から続いている、新年の初寄り合いの行事から、
共同体の運営と、個人生活の成長からも、
明治に導入された西洋の"資本主義"について、クロポトキンの理論から、振り返りました。
暉峻淑子さんの『豊かさの条件』の一節にありました。
(以下、本より)
だが、資本主義は共同体を徹底的に解体し、社会をバラバラの私的所有に分解してしまう。そうすれば、社会的な生産力は、飛躍的に発展するが、やがてその生産力は競争の中で敵対的にぶつかりあい、資本相互の間で弱肉強食が進む。資本と労働者の間にも衝突が起こり、不況と失業による社会的な危機がおとすれる。
(以上、『豊かさの条件』より)
この引用文の続きが、冒頭の言葉です。
>は共同体的な部分を残さなければ、社会基盤の安定を欠く。
>個人が共同体の中に埋没してしまう
過疎化する地方衰退の原因に、資本主義化した日本社会の変化と都市集中があるのだろうとは思っていましたが、暉峻淑子さん本を読み、益々の確信を持ちました。
これからの政府に望むのは、地方で今も維持されている共同体活動の支援を、地方創生のメニューに加えるべきではと思いました。
熊本選出の衆議院議員・金子恭之氏が常々に語られている、「地方の繁栄なくして、国の繁栄なし」の言葉を、思い出しました。
人口減少地域を支えることが、次なる日本の繁栄を生み出すようになってほしいですね。
長々と書きました。最後までお読みいただき感謝いたします。
*注1:ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン(1842年12月9日〜1921年2月8日)。ロシアの革命家、政治思想家であり、地理学者、社会学者、生物学者。
#地方の繁栄なくして国の繁栄なし
#クロポトキン『相互扶助論』
#地方創生
#日本の地方
#人口減少
#少子高齢化
#資本主義
#共同体
#暉峻淑子
#豊かさの条件
#相互扶助論
<前途多難、日々新たに>算数(計算)通りにならない人生。〜曽野綾子著『中年以後』〜
2025年01月03日
<前途多難、日々新たに>算数(計算)通りにならない人生。〜曽野綾子著『中年以後』〜
(長文です。お時間ある時にお読みください。)
箱根駅伝は、予想とは違って、青山学院大学が連覇を果たした。一矢を報いたのが、復路優勝が駒澤大学の走りではないのかと考えました。駅伝競走は、多人数の走りの繋ぎなので、思うようにはならないのが、見ているものの楽しみでもあります。青山学院大学、連覇おめでとうございます。
さて冒頭の一文は、年末から読む『中年以後』の一節です。
(以下、本より)
<若い時は>自分の思い通りになることに快感がある。
<中年以後は>自分程度の見方、予測、希望、などが、裏切られる、と納得し、その成り行きに一種の快感を持つこともできるようになるのである。
(以上、『中年以後』〜算数通りならない人生〜より)
第101回箱根駅伝は、予想の國學院大学の駅伝三冠を阻止したのは、王者・青山学院大学だった。箱根駅伝の難しさが、現れた今年の結果となった。
駅伝同様に、一人ひとりの人生も、予定通りに行かない歴史がたくさんある。
しかしその歴史検証も、歳を重ねると若い頃の一方的な価値観から、多面的な見方ができるようになる。
(以下、本より転載)
〜計画通りに行かなくても〜
自殺するほどに自分を追い詰めることもないだろう。反対に上手く行っても、自分の功績ではなくて運が良かったからだ、と気楽に考えられるのである。
(以上、『中年以後』より)
過労死の悲惨な現状の報告を聞くに、追い詰められた状況に言葉を詰まらす。
どうして周りが気づかないのか?
どうして、周りへ苦しい現状を伝えられなかったのか?
私などは、大学受験は上手くいかず、一旦社会人になり、また浪人生活に戻り、そして建築士を目指して進学した。
まったく予定(算数)通りにはなって来なかった人生です。
建築士の修行時代は、バブル経済で、無資格の若僧がアルバイトで稼げた。ところが、独立直前に、バブル時代が終わった。苦しいフリーター生活の始まりでした。
それから試行錯誤しながら生き延びてきました。
今は、建築士事務所と市議会議員の二足の草鞋を履いて生きています。この市議会議員選挙に出ることも、いろいろな出来事から始まった。話せば長くなるのでやめます。
>人生は計算(算数)通りにならない。
そのことについて、曽野綾子さんは『中年以後』の中で、前の引用文の後に語っています。
(以下、本より)
すべての人がそうだ、とは言えない。しかし世の中が算数通りだとしか思えない人、或いは算数通りにならないと怒る人は、写真の中でただ年を取るだけだろし、算数の乱れを面白がれる人は、恐らく若い時の写真よりも、年を取ってからの方が面白い人物に写るのだと思う。
「コヘレトの言葉」も最後に言うのである。
「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」
(以上、『中年以後』より転載)
人生の変化(算数通りにならない)を受け入れ、対応して成長する人こそが、生き延びる(楽しめる)人なのかもしれないと、曽野綾子さんの本を読み学びました。
>人の知恵は顔に光を添え
人は練れて(鍛えられて)輝きを増す。
年始にあたり、この言葉を知り、日々心を入れ替え(新たなに)、チャレンジすることこそが大事だと気付かされました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
(長文です。お時間ある時にお読みください。)
箱根駅伝は、予想とは違って、青山学院大学が連覇を果たした。一矢を報いたのが、復路優勝が駒澤大学の走りではないのかと考えました。駅伝競走は、多人数の走りの繋ぎなので、思うようにはならないのが、見ているものの楽しみでもあります。青山学院大学、連覇おめでとうございます。
さて冒頭の一文は、年末から読む『中年以後』の一節です。
(以下、本より)
<若い時は>自分の思い通りになることに快感がある。
<中年以後は>自分程度の見方、予測、希望、などが、裏切られる、と納得し、その成り行きに一種の快感を持つこともできるようになるのである。
(以上、『中年以後』〜算数通りならない人生〜より)
第101回箱根駅伝は、予想の國學院大学の駅伝三冠を阻止したのは、王者・青山学院大学だった。箱根駅伝の難しさが、現れた今年の結果となった。
駅伝同様に、一人ひとりの人生も、予定通りに行かない歴史がたくさんある。
しかしその歴史検証も、歳を重ねると若い頃の一方的な価値観から、多面的な見方ができるようになる。
(以下、本より転載)
〜計画通りに行かなくても〜
自殺するほどに自分を追い詰めることもないだろう。反対に上手く行っても、自分の功績ではなくて運が良かったからだ、と気楽に考えられるのである。
(以上、『中年以後』より)
過労死の悲惨な現状の報告を聞くに、追い詰められた状況に言葉を詰まらす。
どうして周りが気づかないのか?
どうして、周りへ苦しい現状を伝えられなかったのか?
私などは、大学受験は上手くいかず、一旦社会人になり、また浪人生活に戻り、そして建築士を目指して進学した。
まったく予定(算数)通りにはなって来なかった人生です。
建築士の修行時代は、バブル経済で、無資格の若僧がアルバイトで稼げた。ところが、独立直前に、バブル時代が終わった。苦しいフリーター生活の始まりでした。
それから試行錯誤しながら生き延びてきました。
今は、建築士事務所と市議会議員の二足の草鞋を履いて生きています。この市議会議員選挙に出ることも、いろいろな出来事から始まった。話せば長くなるのでやめます。
>人生は計算(算数)通りにならない。
そのことについて、曽野綾子さんは『中年以後』の中で、前の引用文の後に語っています。
(以下、本より)
すべての人がそうだ、とは言えない。しかし世の中が算数通りだとしか思えない人、或いは算数通りにならないと怒る人は、写真の中でただ年を取るだけだろし、算数の乱れを面白がれる人は、恐らく若い時の写真よりも、年を取ってからの方が面白い人物に写るのだと思う。
「コヘレトの言葉」も最後に言うのである。
「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」
(以上、『中年以後』より転載)
人生の変化(算数通りにならない)を受け入れ、対応して成長する人こそが、生き延びる(楽しめる)人なのかもしれないと、曽野綾子さんの本を読み学びました。
>人の知恵は顔に光を添え
人は練れて(鍛えられて)輝きを増す。
年始にあたり、この言葉を知り、日々心を入れ替え(新たなに)、チャレンジすることこそが大事だと気付かされました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
1月1日の記事
2025年01月01日

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
久しぶりに横井小楠記念館「四時軒」に寄りました。
2024年12月26日


年末の挨拶回りで、熊本市東部まで来たので、久しぶりに横井小楠記念館「四時軒」に寄りました。
昨年リニューアルして以来、展示は見てなかったので、2階の特別展示をゆっくりと見学しました。熱心に資料を確認されている来館者が居られました。

「国是七条草案」は、以前にも展示してあったのですが、改めて読み直しました。

ちょっと粋な文を見つけました。現代の市民の政治離れにも似た減少が、当時の肥後熊本にもあったことを知る漁師の話です。
(以下、横井小楠の感想の抜粋)
地域を治る長官が新しく代わって来たというが、私はその人の名前すら知らない。私はただ自分の生活をしているだけで政治には何の関心がない。
〜漁師のおやじの言葉 横(井平四郎時)在〜
(以上、写真の話の現代語の解説より)
横井小楠の隠居生活から見えてくる当時の庶民の生活が伺えます。幕末維新の動乱の時期以前は、変わらない平和な時代を、庶民は楽しんでいたのだと思いました。


坂本龍馬と対談した座敷

地元小学6年生に、太平洋戦争末期に宇土市で起こった戦闘の話した。
2024年11月20日


本日は、地元小学6年生に、太平洋戦争末期に宇土市で起こった戦闘(空襲、機銃掃射)のことを話しました。
日本古来から国内での戦争、平和だった江戸時代の意味、日本国憲法の役割、それと大事な「戦後何年」という言葉の意味と継続の大切さを伝えたいと、毎年、長崎への修学旅行が終わった時期に戦争講話をしています。今年もいろんな質問がありました。
日本は何故戦争が始まったのですか?
戦争の時、女性は何をしていましたか?
網津に防空壕はいくつありましたか?
宇土には、飛行機以外の戦車とかきましたか?
それを聞きながら、"戦争は遠くなっている"とつくづく思います。
いつも言うことがあります。
「もしこの中から総理大臣になる人がいても、戦争を始めてはいけません。ずっと戦後を続けてください」
と締めくくっています。12歳の子供たちにどれだけ伝わったかは不明ですが、地元で起こった戦闘の話を、地図で場所を示して語ると、聞き入ってました。
毎年、どんな話をするか、悩みながらやっています。
議長活動報告(11月前半)
2024年11月18日
宇土市会議会議長 活動報告(10月5日~15日)
11月5日
午前中 議会事務局在席
①宇城地域振興局長 挨拶(西田副議長同行)
②美里町議会議長・副議長挨拶回り
上田町長共に挨拶
③宇城市議会議長・副議長挨拶回り
守田市長挨拶

11月6日
①高規格道路要望活動
国土交通省八代河川国道事務所


国土交通省九州整備局(福岡市)

11月7日
①高規格道路要望活動
国土交通省本庁

整備局長、金子衆議院議員
他に、次長、審議官、各関連課を回りました。
②県選出国会議員要望活動

金子衆議院議員(事務所)

馬場参議院議員(政務官室)
他の県選出国会議員は、自民党の両院議員総会中で秘書に要望書を提出いたしました。
11月9日
①ハートフルフェスタ(市民会館)
11月10日
①宇土高校同窓会・女性部主催グランドゴルフ大会
11月11日
①決算委員会
②議会研修会(宇城警察署と意見交換会)
宇土市の交差点改良への提案を宇城署長と交通担当との意見交換会でした。

住吉町中村踏切前の国道57号線交差点

高柳町踏切前の国道57号線交差点
11月12日
①決算委員会
11月14日
①決算委員会
11月15日
①決算委員会
②植田明依さんミスインターナショナル世界大会の報告会


11月5日
午前中 議会事務局在席
①宇城地域振興局長 挨拶(西田副議長同行)
②美里町議会議長・副議長挨拶回り
上田町長共に挨拶
③宇城市議会議長・副議長挨拶回り
守田市長挨拶

11月6日
①高規格道路要望活動
国土交通省八代河川国道事務所


国土交通省九州整備局(福岡市)

11月7日
①高規格道路要望活動
国土交通省本庁

整備局長、金子衆議院議員
他に、次長、審議官、各関連課を回りました。
②県選出国会議員要望活動

金子衆議院議員(事務所)

馬場参議院議員(政務官室)
他の県選出国会議員は、自民党の両院議員総会中で秘書に要望書を提出いたしました。
11月9日
①ハートフルフェスタ(市民会館)
11月10日
①宇土高校同窓会・女性部主催グランドゴルフ大会
11月11日
①決算委員会
②議会研修会(宇城警察署と意見交換会)
宇土市の交差点改良への提案を宇城署長と交通担当との意見交換会でした。

住吉町中村踏切前の国道57号線交差点

高柳町踏切前の国道57号線交差点
11月12日
①決算委員会
11月14日
①決算委員会
11月15日
①決算委員会
②植田明依さんミスインターナショナル世界大会の報告会


議長の活動内容について(10月)
2024年11月16日
これから2年間、宇土市会議会議長としてどんな活動と役務をしているか時系列にして報告いたします。
議長の活動内容について
10月21日臨時議会
①藤井議長の辞表提出
②議長選挙
野口修一 9票
4票 1人
2票 1人
1票 3人
*宇土市議会の定員は18名
・議長就任挨拶→議長席へ
10月23日
①宇城広域連合議会出席(9時~)
・ゴミ処理場(グリーンセンター)
・消防本部
・し尿処理場
②議会事務局打ち合せ(13時半~)
毎週月曜日の午前中は議会事務局に居ることにしました。ご用や意見のある方は、来庁ください。
10月26日
①衆議院議員選挙・金子候補の遊説(10時~12時半)

②県南郵便局交流会

10月28日
①議会運営委員会に参加(10時~10時半)
②熊本市議会議長へ就任の挨拶回り(12時40分~14時20分)
③決算委員会懇親会(18時~21時)
10月29日
①議長就任取材・熊日(9時~9時半)
②九州議長会理事会・宮崎市(14時~19時半)


小林市議会議長と熊本にご縁のある学生アルバイトさん
10月30日
①道の駅「都城」視察
10月31日
①国道3号線、浜戸川・潤川要望活動
熊本国道事務所→九州整備局

熊本国道河川事務所にて

九州整備局
議長の活動内容について
10月21日臨時議会
①藤井議長の辞表提出
②議長選挙
野口修一 9票
4票 1人
2票 1人
1票 3人
*宇土市議会の定員は18名
・議長就任挨拶→議長席へ
10月23日
①宇城広域連合議会出席(9時~)
・ゴミ処理場(グリーンセンター)
・消防本部
・し尿処理場
②議会事務局打ち合せ(13時半~)
毎週月曜日の午前中は議会事務局に居ることにしました。ご用や意見のある方は、来庁ください。
10月26日
①衆議院議員選挙・金子候補の遊説(10時~12時半)

②県南郵便局交流会

10月28日
①議会運営委員会に参加(10時~10時半)
②熊本市議会議長へ就任の挨拶回り(12時40分~14時20分)
③決算委員会懇親会(18時~21時)
10月29日
①議長就任取材・熊日(9時~9時半)
②九州議長会理事会・宮崎市(14時~19時半)


小林市議会議長と熊本にご縁のある学生アルバイトさん
10月30日
①道の駅「都城」視察
10月31日
①国道3号線、浜戸川・潤川要望活動
熊本国道事務所→九州整備局

熊本国道河川事務所にて

九州整備局
宇土市議会の臨時議会議会が開催され、議長選があり、私が議長に選任されました。
2024年10月22日
昨日に、宇土市議会の臨時議会議会が開催され、議長選があり、私が議長に選任されました。初めての大役なので、昨日は、前議長から、いきなりの会議の引き継ぎで、緊張気味でしたが、どうにか初日を終えることができました。これから2年間、議会活動がスムーズにいくように、誠心誠意やっていきます。よろしくお願いいたします。
写真は、本日の熊日新聞記事をアップしました。

写真は、本日の熊日新聞記事をアップしました。

<人の時のアセス>愚直に生きた夏目漱石、その思考は『老子』を参考にしていた。〜半藤一利〜
2024年09月25日
<人の時のアセス>愚直に生きた夏目漱石、その思考は『老子』を参考にしていた。〜半藤一利〜
(少々文が長いので、お時間ある時にお読みください。)
私の読書は、雑読である。あまりよろしくないが、古本屋での立ち読みから興味が湧き購入することが多い。その作家の一人が、歴史に関する本が多い半藤一利の著書です。
半藤一利氏の文を集めた本『歴史と人生』に、夏目漱石が関心を持った『老子』の話がありました。
(以下、半藤一利著『歴史と人生』より)
ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
夏目漱石(明治三十一年作)
この句には前書きがある。
「知者不言、言者不知」
出所は『老子』である。
「知るものは言わず、言うものは知らず」
と読む。えらそうに言挙げするものへの皮肉がたっぷりこめられている。漱石はまたこうもいっている。
「余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし、況(いわ)んや毒舌をや、何事も控え目にせよ、奥床しくせよ」
〜『愚見数則』〜
斯愚には 及ぶべからず 木瓜(ぼけ)の花
夏目漱石(明治三十二年作)
『老子』に有る、
「大功は拙のごとし」
「われ愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり」
漱石もまた節を曲げない愚直な生き方を、生涯の心の拠りどころとしていた。
(以上、『歴史と人生』より)
>知るものは言わず、言うものは知らず
智者は語らず。
お喋り多い人は知らず。
>ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
人の注目を集めることに熱心な人がいます。"時代の寵児"と言う表現もありますが、そんな人は、いつの間にかいなくなります。
私は、異業種交流会を主催してきました。かれこれ25年(四半世紀)になります。
いろいろな方と会ってきました。その初めから縁のある大学教授に、
「本物は残るから、長く観ておきなさい」
と助言されました。一瞬の輝きより、10年後、20年後の姿を観ることが大事だなぁ、とこの歳になると思います。
人の時のアセス
人間の言動の検証のことを大学教授が語られたのだと思います。
>余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし
「人生は訥弁」の教えが中国古典の何かにありました。お喋りは禍いの素(原因)です。
勇者は語らず。
人間分析は、なかなか時間のかかる(アセスメント)作業のように思った、半藤一利氏のご指摘でした。再度、
>ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
人生は、ぼちぼち。好きなことを愚直に続けたが楽しいのかもしれません。
今日、明日は、膝を休めるために早朝ウォーキングはお休みですが、いつもの時間に目覚めて、雑読しています。
(少々文が長いので、お時間ある時にお読みください。)
私の読書は、雑読である。あまりよろしくないが、古本屋での立ち読みから興味が湧き購入することが多い。その作家の一人が、歴史に関する本が多い半藤一利の著書です。
半藤一利氏の文を集めた本『歴史と人生』に、夏目漱石が関心を持った『老子』の話がありました。
(以下、半藤一利著『歴史と人生』より)
ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
夏目漱石(明治三十一年作)
この句には前書きがある。
「知者不言、言者不知」
出所は『老子』である。
「知るものは言わず、言うものは知らず」
と読む。えらそうに言挙げするものへの皮肉がたっぷりこめられている。漱石はまたこうもいっている。
「余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし、況(いわ)んや毒舌をや、何事も控え目にせよ、奥床しくせよ」
〜『愚見数則』〜
斯愚には 及ぶべからず 木瓜(ぼけ)の花
夏目漱石(明治三十二年作)
『老子』に有る、
「大功は拙のごとし」
「われ愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり」
漱石もまた節を曲げない愚直な生き方を、生涯の心の拠りどころとしていた。
(以上、『歴史と人生』より)
>知るものは言わず、言うものは知らず
智者は語らず。
お喋り多い人は知らず。
>ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
人の注目を集めることに熱心な人がいます。"時代の寵児"と言う表現もありますが、そんな人は、いつの間にかいなくなります。
私は、異業種交流会を主催してきました。かれこれ25年(四半世紀)になります。
いろいろな方と会ってきました。その初めから縁のある大学教授に、
「本物は残るから、長く観ておきなさい」
と助言されました。一瞬の輝きより、10年後、20年後の姿を観ることが大事だなぁ、とこの歳になると思います。
人の時のアセス
人間の言動の検証のことを大学教授が語られたのだと思います。
>余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし
「人生は訥弁」の教えが中国古典の何かにありました。お喋りは禍いの素(原因)です。
勇者は語らず。
人間分析は、なかなか時間のかかる(アセスメント)作業のように思った、半藤一利氏のご指摘でした。再度、
>ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
人生は、ぼちぼち。好きなことを愚直に続けたが楽しいのかもしれません。
今日、明日は、膝を休めるために早朝ウォーキングはお休みですが、いつもの時間に目覚めて、雑読しています。
信じれば実現する。「独立する。家を建てよ。著書を出せ」と日々イメージする。〜中村天風〜
2024年09月17日
信じれば実現する。「独立する。家を建てよ。著書を出せ」と日々イメージする。〜中村天風〜
(長文です。時間ある時にお読みください)
朝目覚めて、寝室の本の整理をしていて、以前にリサイクルブック店で購入した中村天風に関する著書に目が止まった。開いたページに、
(以下、本より)
「『論より証拠』だ。信じてやってみたまえ。効果があるから、効果があったという厳然たる事実が、教えを納得させるだろう。納得したならば、この道を歩み続けるがいい」
天風は言う。
「信念が確固不抜のものなれば、こうなりたいと念願のすることがすべて思い通りにかなってくる」
(以上、池田光著『中村天風 怒らない 恐れない 悲しまない』より)
本の一節には、
(以下、本より転載)
命令的な口調で暗示をあたえる。
「家を建てよ」
「課長になれ」
「著書を出せ」
と、繰り返し心にイメージを描くことと自己暗示を行い続けることで、力の源である潜在意識に働きかける。
(以上、本より)
我が人生に当てはまると、進学が上手くいかずに、一旦は社会人になったが、一年後に一念発起、建築の専門学校から建築設計の道に入った。
目標は、"30歳で独立する"でした。
しかし、その実現は、一級建築士の試験が上手く行かず、1年遅れ、さらに事務所開設の申請は2年遅れでした。
独立して4年後になり、大型物件の仕事が始まった。さらに仕事が増える中、強力な台風が宇土市を襲い、所有林の杉檜が100本以上倒れる被害を受けた。
台風後の秋、地域行事に参加して懇親会の席で、「山の木見て考えろ、家でも建てないか、親父ともう歳ばい」と近所の大工から意見された。私の父は、大工でした。
さてどうする・・・
翌年の売り上げは大きくなるので、税金を納めて公的資金を使い(住宅金融公庫)建てることに向かった。37歳11ヶ月で家は完成した。
問題は、3つ目の「著書を出せ」です。昨夜のコメントでも紹介した異業種交流会「四季の会」を40歳から本格的に活動を始めた。多い時は、年間に6回開催することもあり、50歳になる年の春に電話が来た。
「野口さん、40代をまとめないか、とにかく書けたら私の所へ持って来なさい」
と異業種交流会の始まりから関わる大学教授からの要請でした。私は、約3ヶ月半かけて、87の活動と好きな名言を30ほどまとめて、教授のところへ持って行くと、
「これでは本にならない、3つか、4つのグループに分けて来なさい」
から、また半月かけてまとめ、相談に行きました。すると、
「これから先は、あなたの福岡の国文学者の先輩にお願いして、チェックしてもらいなさい」
と指示され、それから3ヶ月福岡へが通うことになった。そこでも注文が、「87ではなくて、もう一つ増やし88の実践報告に」とあり、出来上がったのが、40代の活動をまとめた本、
『なかまづくり まちづくり』
です。51歳の正月に出来上がり、出版発表と異業種交流会「四季の会」10周年を開催しました。
独立(フリーター)が、31歳6ヶ月でした。
家の新築完成が、37歳11ヶ月でした。
本の出版が、51歳7ヶ月でした。
「独立」は自らの決意からでしたが、「家の新築」と「本の出版」は先輩の助言から、さらに「市議会議員への挑戦」(52歳3ヶ月)も地域の先輩の後押しからでした。
振り返るに、独立は自己責任で始めましたが、他の出来事は、周りからのアドバイスを活かして来た、私の中年期のように思います。朝から中村天風哲学に触れ、振り返りました。
話が長くなり、最後までお読みいただきありがとうございます。
(長文です。時間ある時にお読みください)
朝目覚めて、寝室の本の整理をしていて、以前にリサイクルブック店で購入した中村天風に関する著書に目が止まった。開いたページに、
(以下、本より)
「『論より証拠』だ。信じてやってみたまえ。効果があるから、効果があったという厳然たる事実が、教えを納得させるだろう。納得したならば、この道を歩み続けるがいい」
天風は言う。
「信念が確固不抜のものなれば、こうなりたいと念願のすることがすべて思い通りにかなってくる」
(以上、池田光著『中村天風 怒らない 恐れない 悲しまない』より)
本の一節には、
(以下、本より転載)
命令的な口調で暗示をあたえる。
「家を建てよ」
「課長になれ」
「著書を出せ」
と、繰り返し心にイメージを描くことと自己暗示を行い続けることで、力の源である潜在意識に働きかける。
(以上、本より)
我が人生に当てはまると、進学が上手くいかずに、一旦は社会人になったが、一年後に一念発起、建築の専門学校から建築設計の道に入った。
目標は、"30歳で独立する"でした。
しかし、その実現は、一級建築士の試験が上手く行かず、1年遅れ、さらに事務所開設の申請は2年遅れでした。
独立して4年後になり、大型物件の仕事が始まった。さらに仕事が増える中、強力な台風が宇土市を襲い、所有林の杉檜が100本以上倒れる被害を受けた。
台風後の秋、地域行事に参加して懇親会の席で、「山の木見て考えろ、家でも建てないか、親父ともう歳ばい」と近所の大工から意見された。私の父は、大工でした。
さてどうする・・・
翌年の売り上げは大きくなるので、税金を納めて公的資金を使い(住宅金融公庫)建てることに向かった。37歳11ヶ月で家は完成した。
問題は、3つ目の「著書を出せ」です。昨夜のコメントでも紹介した異業種交流会「四季の会」を40歳から本格的に活動を始めた。多い時は、年間に6回開催することもあり、50歳になる年の春に電話が来た。
「野口さん、40代をまとめないか、とにかく書けたら私の所へ持って来なさい」
と異業種交流会の始まりから関わる大学教授からの要請でした。私は、約3ヶ月半かけて、87の活動と好きな名言を30ほどまとめて、教授のところへ持って行くと、
「これでは本にならない、3つか、4つのグループに分けて来なさい」
から、また半月かけてまとめ、相談に行きました。すると、
「これから先は、あなたの福岡の国文学者の先輩にお願いして、チェックしてもらいなさい」
と指示され、それから3ヶ月福岡へが通うことになった。そこでも注文が、「87ではなくて、もう一つ増やし88の実践報告に」とあり、出来上がったのが、40代の活動をまとめた本、
『なかまづくり まちづくり』
です。51歳の正月に出来上がり、出版発表と異業種交流会「四季の会」10周年を開催しました。
独立(フリーター)が、31歳6ヶ月でした。
家の新築完成が、37歳11ヶ月でした。
本の出版が、51歳7ヶ月でした。
「独立」は自らの決意からでしたが、「家の新築」と「本の出版」は先輩の助言から、さらに「市議会議員への挑戦」(52歳3ヶ月)も地域の先輩の後押しからでした。
振り返るに、独立は自己責任で始めましたが、他の出来事は、周りからのアドバイスを活かして来た、私の中年期のように思います。朝から中村天風哲学に触れ、振り返りました。
話が長くなり、最後までお読みいただきありがとうございます。
人を招く、人に招かれる。出会いの演出はなかなか難しいですが、人間を育てる場でもある。〜異業種交流会「四季の会』〜
2024年09月16日
人を招く、人に招かれる。出会いの演出はなかなか難しいですが、人間を育てる場でもある。〜異業種交流会「四季の会』〜
7年ほど前に、リサイクルブック店で見つけた作家の田辺聖子さんの文を集めた本『苦味(ビター)を少々』は、夜寝れない時に時折開きます。
(以下、本より)
客を迎えるというのは、自分が主になり柱になることなので、ぐうたらや未熟ものではつとまらぬわけである。
気概のない人間は、自分が人を招ぶより、人に招ばれ客となって大切に扱われたがるのであるらしい。
〜『姥ざかり』〜
果たして私は"どちらか?"
最近は、客を招くことは少なくなっていますが、以前にやった人物の出会いでは、あるイメージを持って場の設定を行った。その後のことは書きませんが、田辺聖子さんの文を読み、なるほどと思い、振り返りました。
私は、異業種交流会を四半世紀続けてき
ました。異業種の方々に集まってもらうには、まず自ら来てほしい方の所(事務所や現場)に出向くことから始まります。これまで、2千人近い方のところへ伺いました。そのなかで、つながっているのは、ほんのひと握りです。
この世に生まれて誰と出会うか?
あなたは招く側ですか?
招かれる側ですか?
コロナ禍から、開催が少なくなった異業種交流会「四季の会」を、そろそろ開催でもしましょうか。
人を招く工夫とは何か?
38歳からの同業種交流会以来、考え続けているテーマかもしれません。
今夜は、昼寝をちょっとしたせいか、なかなか眠れずにいて、枕元の本読んでいます。
7年ほど前に、リサイクルブック店で見つけた作家の田辺聖子さんの文を集めた本『苦味(ビター)を少々』は、夜寝れない時に時折開きます。
(以下、本より)
客を迎えるというのは、自分が主になり柱になることなので、ぐうたらや未熟ものではつとまらぬわけである。
気概のない人間は、自分が人を招ぶより、人に招ばれ客となって大切に扱われたがるのであるらしい。
〜『姥ざかり』〜
果たして私は"どちらか?"
最近は、客を招くことは少なくなっていますが、以前にやった人物の出会いでは、あるイメージを持って場の設定を行った。その後のことは書きませんが、田辺聖子さんの文を読み、なるほどと思い、振り返りました。
私は、異業種交流会を四半世紀続けてき
ました。異業種の方々に集まってもらうには、まず自ら来てほしい方の所(事務所や現場)に出向くことから始まります。これまで、2千人近い方のところへ伺いました。そのなかで、つながっているのは、ほんのひと握りです。
この世に生まれて誰と出会うか?
あなたは招く側ですか?
招かれる側ですか?
コロナ禍から、開催が少なくなった異業種交流会「四季の会」を、そろそろ開催でもしましょうか。
人を招く工夫とは何か?
38歳からの同業種交流会以来、考え続けているテーマかもしれません。
今夜は、昼寝をちょっとしたせいか、なかなか眠れずにいて、枕元の本読んでいます。
環境と経済の両立を目指す「2005.フューチャー500国際シンポジウムin北京」に参加
2024年08月31日
<フューチャー500北京>19年前の10月に2つの関連行事、環境と経済の両立を目指す「2005.フューチャー500国際シンポジウムin北京」に参加して、ほんとに初めて北京に行きました。中国大陸へ行くのも初めてでした。
(長文です。お時間ある時にお読みください。)
フューチャー500北京は、2005年10月18~19日に開催されました。世界各地(ヨーロッパ、アメリカ、アジア)の研究者、経済学者、社会活動家が北京に集まりました。前日(17日)に夕食しながらの打ち合せ会に参加しましたが、九州から行った二人は、英語が苦手でしたから、辛い北京料理の味に苦労しながらの夕食となりました。
この北京に行く2日前、福岡市で環境経済のシンポジウムがあり、北京の打ち合せはそこでできるかと思いきや、呼びかけ人の木内孝氏は「北京空港で待ってるから」で打ち合せ終了でした。二人、福岡空港の国際線で待ち合わせ、青島経由で北京に行きました。北京空港に着くと、「待ってるから」の木内氏は居らず、えーっどうするの?と不安になっていると、「やーっ、ごめん」と、秋の北京なのに半袖姿で現れました。
その出来事から、怒濤の北京シンポジウムが始まりました。私の登場は、2日目(10月19日午前)に市民活動のスピーチをすることでした。シンポジウムの1日目は、木内氏の基調講演から始まり、現地主催者の北京大学教授、さらに各地から研究者の報告が続きました。夜は、面識ある研究者同士で、けっこう盛り上がりました。しかし、私は翌日にスピーチが気になって、食事どころではない状態でした。木内氏に「どんなことを話せばいいですか?」と聞くと、「いつもやっていることを話して大丈夫、通訳は私がやります」だけの打ち合せでした。
四苦八苦して、深夜2時まで原稿をまとめました。当日は、私が語り、木内氏が英語訳し、それを北京大学の大学院生が中国語訳をする流れで、私の話は15分間(英語訳、中国語訳なので実際は40分間)の発表をしました。最後の〆は、「陽明学の始祖・王陽明が提唱した"知行合一”が私の信条です」と締めくくりました。
2日目の昼食時には、中国共産党のナンバー2(首相)を囲む会議が急きょ組まれ、環境政策の推進について活発な議論が交わされました。その後の中国は、環境政策推進に動き、自動車の電動化が一気に加速したように思います。その「フューチャー500国際シンポジウムin北京」がきっかけだったのではと振り返ります。
フューチャー500北京の2日目を無事終えた夜に、九州から行ったもう1人が「私たち、観光する時間は無いの」から、タクシーで政府関連施設をぐるりと一回りして、3日目の夜が終わりました。
最終日は、朝食前にホテルを出たので、飛行場で朝食を取ろうと思ったら、食べるところが無い、なんと4日目の最初の食事は、午後3時に着いた福岡空港で、ラーメン食べたの最初でした。初の国際シンポジウムでしたが、私は二度と海外での国際シンポジウムには、参加したくないなと思いました。でも中国から招待されて北京に行き、パネリストの1人として発表させてもらった経験はとても良かったと振り返ります。世界を飛び回る人たちは、国際シンポジウムとかに参加するのに、いろいろな(良い・悪い)経験を積むから成長するのではと思います。
あれから19年、時の過ぎるのは早いものです。フューチャー500北京のお誘いいただきた環境活動家の木内孝氏は、今年の2月に他界されました。色々な経験をさせていただき、感謝するばかりです。
*書斎の断捨離を夏に続けていて、古い写真が出てきたので、データの写真があるか確認したら見つかったのでアップしました。
<福岡シンポジウム>





<2005フューチャー500北京>
























(長文です。お時間ある時にお読みください。)
フューチャー500北京は、2005年10月18~19日に開催されました。世界各地(ヨーロッパ、アメリカ、アジア)の研究者、経済学者、社会活動家が北京に集まりました。前日(17日)に夕食しながらの打ち合せ会に参加しましたが、九州から行った二人は、英語が苦手でしたから、辛い北京料理の味に苦労しながらの夕食となりました。
この北京に行く2日前、福岡市で環境経済のシンポジウムがあり、北京の打ち合せはそこでできるかと思いきや、呼びかけ人の木内孝氏は「北京空港で待ってるから」で打ち合せ終了でした。二人、福岡空港の国際線で待ち合わせ、青島経由で北京に行きました。北京空港に着くと、「待ってるから」の木内氏は居らず、えーっどうするの?と不安になっていると、「やーっ、ごめん」と、秋の北京なのに半袖姿で現れました。
その出来事から、怒濤の北京シンポジウムが始まりました。私の登場は、2日目(10月19日午前)に市民活動のスピーチをすることでした。シンポジウムの1日目は、木内氏の基調講演から始まり、現地主催者の北京大学教授、さらに各地から研究者の報告が続きました。夜は、面識ある研究者同士で、けっこう盛り上がりました。しかし、私は翌日にスピーチが気になって、食事どころではない状態でした。木内氏に「どんなことを話せばいいですか?」と聞くと、「いつもやっていることを話して大丈夫、通訳は私がやります」だけの打ち合せでした。
四苦八苦して、深夜2時まで原稿をまとめました。当日は、私が語り、木内氏が英語訳し、それを北京大学の大学院生が中国語訳をする流れで、私の話は15分間(英語訳、中国語訳なので実際は40分間)の発表をしました。最後の〆は、「陽明学の始祖・王陽明が提唱した"知行合一”が私の信条です」と締めくくりました。
2日目の昼食時には、中国共産党のナンバー2(首相)を囲む会議が急きょ組まれ、環境政策の推進について活発な議論が交わされました。その後の中国は、環境政策推進に動き、自動車の電動化が一気に加速したように思います。その「フューチャー500国際シンポジウムin北京」がきっかけだったのではと振り返ります。
フューチャー500北京の2日目を無事終えた夜に、九州から行ったもう1人が「私たち、観光する時間は無いの」から、タクシーで政府関連施設をぐるりと一回りして、3日目の夜が終わりました。
最終日は、朝食前にホテルを出たので、飛行場で朝食を取ろうと思ったら、食べるところが無い、なんと4日目の最初の食事は、午後3時に着いた福岡空港で、ラーメン食べたの最初でした。初の国際シンポジウムでしたが、私は二度と海外での国際シンポジウムには、参加したくないなと思いました。でも中国から招待されて北京に行き、パネリストの1人として発表させてもらった経験はとても良かったと振り返ります。世界を飛び回る人たちは、国際シンポジウムとかに参加するのに、いろいろな(良い・悪い)経験を積むから成長するのではと思います。
あれから19年、時の過ぎるのは早いものです。フューチャー500北京のお誘いいただきた環境活動家の木内孝氏は、今年の2月に他界されました。色々な経験をさせていただき、感謝するばかりです。
*書斎の断捨離を夏に続けていて、古い写真が出てきたので、データの写真があるか確認したら見つかったのでアップしました。
<福岡シンポジウム>





<2005フューチャー500北京>
























高宗昭敏先生の活動を振り返る。熊本地球市民塾から「横井小楠と維新群像」建立まで
2024年07月26日
「こよなく酒を愛し、この熊本から日本の未来を、熱っぽく語り合った小楠・海舟・龍馬」
〜高宗昭敏先生の活動を振り返る。熊本地球市民塾から「横井小楠と維新群像」建立まで〜
私が、熊本地球市民塾に参加したのは32年前、その時に、高宗昭敏先生との出会いでもありました。
高宗先生は、大学教授でありながら、社会的・政治的な目的を持ち、セミナー、講演会、フォーラム、歴史検証、偉人顕彰の様々な活動を主催されました。私は、その事務的な補佐をさせていただきながら、社会活動の経験を積ませてもらっていたように思います。
地球市民ウォーラムは、3日連続のセミナー、講演、パネルディスカッション開催されました。
九州初の「太陽光発電推進九州ブロック研究集会」には、予想を遥かに超える417人が集まり、来賓で出席された福島譲二熊本県知事も驚かれました。
そして横井小楠顕彰活動は、生誕190年記念事業から始まり、生誕195年では、催し・イベント・講演会、さらには5体の銅像建立まで発展していきます。
銅像建立の5年後に開催された、銅像前での花見の宴に参加して思ったのは、高宗昭敏先生自身が、現代の坂本龍馬のように思えたことです。経済学の教授でありながら、社会変化の気づきを、周りに与える提案を常に続けておられた気がします。
坂本龍馬の活躍した時期は、約5年間と言われています。高宗昭敏先生の60代から始まった、熊本県だけでなく、東京ともつながり、再生可能エネルギー政策への提言、熊本の幕末・明治維新で活躍した偉人の再評価を懸命に続けられました。
特に、「太陽光発電推進九州ブロック研究集会」後に始まった、横井小楠生誕190年(1994年)〜生誕195年(1999年)までの約6年間の活動は、横で見ていて飛び回る忙しさがあった。すごい方だったと、今になりつくづく感じます。
高宗先生が、
「これからは、頭の強い人間にならないといけない」
と、よく話されていました。私が、
「先生、頭の強い人間とは、どんな人ですか?」
と尋ねたことがあります。すると、
「頭の良い人間は、成績優秀で頭の回転が速いのだろうが、"頭の強い人間"とは、何か事をやろうとした時、完了させるまで、終わるまで、諦めず考え続けられる頭を持つ人のことだ」
と話されました。ちょうど銅像建立へ向けた、人・モノ・金を巻き込む最中で、5年間の到達目標を持ち、多様なイベントと銅像建立(1億円)という事業をやり終えるために、思考を最大限に駆使されやり遂げられたなぁ、と振り返りました。
>これからは、頭の強い人間にならないといけない
ここ3日、季刊誌「KUMAMOTO」に、熊本地球市民塾からの活動をまとめた文を投稿するので、32年前からの出来事を思い起こしていました。
頭の強い人間とは?から、目的達成まで諦めない意志の強さを教えられた経験でした。
高宗昭敏先生は、新型コロナウィルス感染拡大前の年末、12月28日にお亡くなりになりました。年の瀬の押し迫った時期でしたから、葬儀はご家族だけで執り行い、少し経ってから「偲ぶ会」を計画されましたが、コロナ感染拡大で、人の集まることが制限されたために、出来ず仕舞いになりました。私自身も、同日に叔母が亡くなり、高宗先生の葬儀も知らず、ご家族からご連絡を受けて、仏壇にお参りしたのは年が明けしばらくしてからでした。
社会活動の先生として、長く指導を受けた方でした。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。






〜高宗昭敏先生の活動を振り返る。熊本地球市民塾から「横井小楠と維新群像」建立まで〜
私が、熊本地球市民塾に参加したのは32年前、その時に、高宗昭敏先生との出会いでもありました。
高宗先生は、大学教授でありながら、社会的・政治的な目的を持ち、セミナー、講演会、フォーラム、歴史検証、偉人顕彰の様々な活動を主催されました。私は、その事務的な補佐をさせていただきながら、社会活動の経験を積ませてもらっていたように思います。
地球市民ウォーラムは、3日連続のセミナー、講演、パネルディスカッション開催されました。
九州初の「太陽光発電推進九州ブロック研究集会」には、予想を遥かに超える417人が集まり、来賓で出席された福島譲二熊本県知事も驚かれました。
そして横井小楠顕彰活動は、生誕190年記念事業から始まり、生誕195年では、催し・イベント・講演会、さらには5体の銅像建立まで発展していきます。
銅像建立の5年後に開催された、銅像前での花見の宴に参加して思ったのは、高宗昭敏先生自身が、現代の坂本龍馬のように思えたことです。経済学の教授でありながら、社会変化の気づきを、周りに与える提案を常に続けておられた気がします。
坂本龍馬の活躍した時期は、約5年間と言われています。高宗昭敏先生の60代から始まった、熊本県だけでなく、東京ともつながり、再生可能エネルギー政策への提言、熊本の幕末・明治維新で活躍した偉人の再評価を懸命に続けられました。
特に、「太陽光発電推進九州ブロック研究集会」後に始まった、横井小楠生誕190年(1994年)〜生誕195年(1999年)までの約6年間の活動は、横で見ていて飛び回る忙しさがあった。すごい方だったと、今になりつくづく感じます。
高宗先生が、
「これからは、頭の強い人間にならないといけない」
と、よく話されていました。私が、
「先生、頭の強い人間とは、どんな人ですか?」
と尋ねたことがあります。すると、
「頭の良い人間は、成績優秀で頭の回転が速いのだろうが、"頭の強い人間"とは、何か事をやろうとした時、完了させるまで、終わるまで、諦めず考え続けられる頭を持つ人のことだ」
と話されました。ちょうど銅像建立へ向けた、人・モノ・金を巻き込む最中で、5年間の到達目標を持ち、多様なイベントと銅像建立(1億円)という事業をやり終えるために、思考を最大限に駆使されやり遂げられたなぁ、と振り返りました。
>これからは、頭の強い人間にならないといけない
ここ3日、季刊誌「KUMAMOTO」に、熊本地球市民塾からの活動をまとめた文を投稿するので、32年前からの出来事を思い起こしていました。
頭の強い人間とは?から、目的達成まで諦めない意志の強さを教えられた経験でした。
高宗昭敏先生は、新型コロナウィルス感染拡大前の年末、12月28日にお亡くなりになりました。年の瀬の押し迫った時期でしたから、葬儀はご家族だけで執り行い、少し経ってから「偲ぶ会」を計画されましたが、コロナ感染拡大で、人の集まることが制限されたために、出来ず仕舞いになりました。私自身も、同日に叔母が亡くなり、高宗先生の葬儀も知らず、ご家族からご連絡を受けて、仏壇にお参りしたのは年が明けしばらくしてからでした。
社会活動の先生として、長く指導を受けた方でした。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。





