飯田が田丸のパソコンを覗
蔡加讚き込むと、デスクトップのメモ帳に歌手名や曲名などがずらっと並んでいた。
そのすべてが“匂い”に関係しているらしい。
「いつの間にこんな……。おとなしいと思ったよ」
「これだって仕事に関係ありますよね?……あ、違いました?すいません」
「いや、これは大ありだよ。それに関係があるかないかは、田丸君のセンスにかかってるんだから」
仕事にはセンスも必要になる。彼らのように宣伝部のスタッフには、とくに優れた感覚が必要とされる。
たとえ実際の制作に携わらない部員も同じで、媒体選定ひとつとってみても数値のデータだけでは
捉えきれない要素が多くある。
クリーン化学はこれまで広告には重きを置いておらず、残念ながら部員の能力は高くない。
その不足分を補うのが外部の代理店だが、主だった代理店はいずれも上層部のコネで入ってきていて、
デザインコンペや合い見積りを実施しようとすると、恥ずかしげもなく”後援者”に泣きついて
既得権を主張する。
関係なさそうなものと仕事を結びつけてみる。そうすることで発想の幅が広がる。
「最初はどんなに無関係だっていいんだ。そこを販促プランにつなげるのが、田丸君の腕だと思うよ」
飯田は田丸の肩のあたりを、漫才の突っ込みのように指の背で叩いた。
「でもどうしたら……」
「そうやってすぐ頼らない。少しぐらいは悩んでもらわないと。今回だって“嗅ぐや姫、ゴー!”って、
いいコピーを出したんだから」
「もう、馬鹿にしないでくださいよ」
「心外だなぁ。俺は嫉妬してるんだよ。あのインパクトには負けた」
今回のキャンペーンはクリーン化学の事業の継続をアピールし、お客さまの不安を解消するのが
一番の目的で、“嗅ぐや姫”という明るくて個性的なキャラクターを前面に押し出している。
量販店では商品にキャラクターのシールをつけ、路面店では色鮮やかな“のぼり”が勢いよく風にはためき、
ビルインなどの店舗には同じのぼりが壁面に飾られるが、何よりも販売員の明るい接客がキーポイントになる。
田丸が資料をプリントした。「私にも!」という大野
蔡加讚文代にも一枚。三人は資料をじっと見つめる。
○タイトルに“匂い”や“香り”が含まれる曲
ミスターチルドレン「花の匂い」、河口恭吾「冬の匂い」、小田和正「ワインの匂い」、森山直太朗
「トイレの匂いも変わったね」、シーナ&ロケッツ「あなたの匂い」、CHARA(チャラ)「ひかりの匂い」、
前川清「黄昏の匂い」、鳥羽一郎「海の匂いのお母さん」、嵐「冬のニオイ」、山下達郎「甘く危険な香り」、
松浦亜弥「奇跡の香りダンス」、松田聖子「南太平洋サンバの香り」、相田翔子「ジャスミンは哀しい香り」、
布施明「シクラメンのかほり」……。
○歌詞に“匂い”や“香り”が含まれるもの
宇多田ヒカル「ドラマ」(タクシーの匂いがキツすぎる)、中島美嘉「雪の華」(冬の匂いがした)、
B’Z「だれにも言えねぇ」(雷の匂いがして雲が動きだす)、伊勢正三・風「あの唄はもう歌わないのですか」
(あなたの香りがしないうちに)、くるり「青い空」(汗ばんだ肌からは出会った頃の匂い)、
ミスターチルドレン「君が好き」(惰性の匂い)、大黒摩季「ら・ら・ら」(懐かしい匂いがした)、
石川さゆり「人間模様」(うつむいてお酒の匂い嗅いでいる)、越路吹雪「別離」(あなたのにおいの
するものはみんな捨てましょう)、GLAY「逢いたい気持ち」(あなたの香りに思いが揺れる)、
永井龍雲「つまさき坂」(君の香水の芳りが漂う)……。
改めて驚いた。とくに歌詞に香りや匂いが入った曲は、数千曲をゆうに超えそうだ。
海外では考えられないだろう。シーナ&ロケッツの
蔡加讚「あなたの匂い」には、“あなたの匂い”という
フレーズが二十二ヵ所も散りばめられている。作詩は阿久悠氏だ。
秘密の匂い、雨の匂い、雪の匂い、青春時代の匂い、街の匂い……。
かつての煙草の匂いは“臭い”に近くなってきた。
日本人の香りや匂いは抽象的な概念を表すことも多く、“惰性の匂い”などはもはや匂いではなくなっている。